ことばと文化のミニ講座

【Vol.99】 2016.4   服部 裕

日本の三権分立を問う

三権分立

各国家には三種の権力、つまり、立法権力(la puissance législative)、万民法に属する事項の執行権力および公民法に属する事項の執行権力がある。第一の権力によって、君公はまたは役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力(la puissance de juger)と呼び、他の執行権力を単に国家の執行権力(la puissance exécutrice)と呼ぶであろう。

公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についても確信から生ずる精神の静穏である。そして、この自由を得るためには、公民が他の公民を恐れることのありえないような政体にしなければならない。

同一の人間あるいは同一の役職者団体において立法権力と執行権力とが結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君主または同一の元老院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行する恐れがありうるからである。(モンテスキュー:『法の精神』、第11編、第6章、岩波文庫、下線は引用者による)

以上はモンテスキューによる「三権分立」の定義です。これは、今日でも有効な民主主義の根幹を成す普遍的な原理です。民主主義の原理は他にもありますが、三権分立が遵守されているか否かは、民主主義の成熟度を計る最も基本的なメルクマールの一つなのです。

言わずもがなのことですが、モンテスキューが定義した三種の国家権力のことを、今日では「立法権力」、「行政権力」および「司法権力」と呼びます。そして最も強調されているのは、「立法権力」と他の二種の「執行権力」、即ち「行政権力」と「司法権力」のいずれか一方、あるいは両方が同一の人間(例えば国王や大統領)あるいは同一の役職団体(例えば政党)と結合されると、人間の政治的自由、つまり万人の自由を保障する近代的民主主義は破壊されるということです。1748年に出版された『法の精神』の精神は、今日でも近代民主主義の普遍的原理として生き続けています。つまり、近代国家の基本原理の一つである三権分立は、「人の自由と平等」という基本理念と共に、被支配身分の長い隷属の歴史を打破するために理性によって案出された人為的制度なのです。こうした近代的民主主義の基本原理は、必ずしも人間の自然の感情や情念から生じたものではなく、すべての人間に幸福追求権を付与するという高邁かつ理性的な目標の実現のために、近代人が叡智を傾けて人為的に作った装置であると言えるのです。


三権分立の破壊

なぜ、本拙論の冒頭で三権分立に言及したのか。それは、日本の民主主義(もちろん敗戦後の民主主義)が抱える根本問題がそこに見出されるからです。奇しくも昨年度閣議決定によって成立した所謂「安保法制」は、日本の三権分立の現状が如何にも脆弱であることを示しました。内閣提案の「安保法制案」が立法府である国会で採決され成立したことは、形式的には立法権力を侵害していないように見えますが、そもそもその法案が50年以上継承されてきた憲法解釈(「集団的自衛権の行使は違憲である」)を一内閣の判断で180度転換したこと、つまりほぼすべての憲法学者が指摘しているとおり、違憲である法案を閣議決定し国会に上程したことこそが、すでに立法権を侵害していると言えるのです。憲法の堅持あるいは改正という立法府にとって最大かつ最重要である職務が、一内閣の「違憲法案」の可決による「解釈改憲」に取って代わられた事実は、行政権力の大いなる越権的な逸脱であり、立法権力の否定であると言っても過言ではありません。

以上の意味で、「安保法制」の成立は、三権分立という民主主義の根本原理の一つが崩壊してしまったことを示しているのです。具体的には、行政権力による立法権力の侵害です。この場合、現実の国際情勢から「安保法制」が必要であるかとか、法制の内容が妥当であるかとかということを問うことは、民主主義体制にとってはまったく意味をなしません。なぜなら、民主主義とは法案あるいは政務の内容の妥当性とは関係なく、それが合法的な手続を経て法制化あるいは執行されたかに重きを置くシステムだからです。仮に内容的に素晴らしい法であっても(悪法であればなおさら)、適正な手続を踏まないものは認めない、それが民主主義なのです。

三権分立を否定し、民主主義を根底から破壊することによって、人類史上最も残虐な全体主義体制を構築したのはヒトラーでした。しかもヒトラーは、それを民主主義の枠内で合法的に実行したのです。選挙によって合法的に政権の座についたヒトラーは、自作自演の帝国議会議事堂の放火を口実に、ヒンデンブルク大統領に「大統領緊急令」を発令させて議会の反対勢力を封じ込めた上で、帝国議会で合法的に「全権委任法」を可決させました。「全権委任法」とは行政権力である政府(=ヒトラー)に無条件に立法権を与えるという、まさに三権分立を破壊する独裁法だったのです。合法的に立法権を握ったヒトラーは、次々と民主体制を反古にする法律を作ることで民主主義のあらゆる組織と機関を停止し、歴史上いかなる専制政治にも類を見ない全体主義体制を構築したのです。四年間の時限立法だったはずの「全権委任法」が、もちろん四年間で停止することはありませんでした。ヒトラーにはどのような法律でも新たに立法する権力が与えられたのですから、独裁権を恒久化してしまったのです。

ヒトラー・ナチの事例は極端なものですが、反面、それが当時最も民主的と言われたヴァイマール憲法下で起こったという事実から、私たちは歴史的教訓を得なければなりません。ヒトラーより二百年も前に打ち立てられ、困難な近代史の中で育まれてきたモンテスキューの理論の正しさが、皮肉にもその理論の要である三権分立を根底から破壊したヒトラーの蛮行によって証明されたと言えるのです。

他にもつい最近の2016年3月、三権分立の原理を理解しない言説が、事もあろうに近代社会の公器とも言える大メディアの記事の中で展開されました。大津地裁による高浜原発3・4号機運転差し止めの判決に対して、一部の大新聞は社説で異議を申し立てたのです。それはまるで、裁判所が行政に対して違法あるいは違憲の判断を下すことがあってはならないと主張するがごときの論調でした。異議の根拠は、経済的効率性を無視している判決だということに集約できる訳ですが、これは、司法権力が自立的に行政権力の誤りを正す権限と責任を担っていることをまったく理解しない、極めて非民主主義的な姿勢であると言えます。仮に地裁の判決に瑕疵があれば、それは司法権力自身の枠内、つまり上級審で正される仕組みが司法制度には備わっている訳で、三権分立というシステムはそれぞれの権力相互の独立性のみならず、各権力内部でのチェック機能がしっかりと働く仕組みになっているのです。それを無視するかのような報道姿勢は、意図的に民主主義を骨抜きにしようとしているようにしか見えません。財界はもとより行政権力や立法権力からも独立して、企業活動や行政あるいは立法が合法か否かの判断を下すのが、司法が担う権限であり責任なのです。財界やそれと密に結びついた一部の言論人や行政が、経済的な利益を優先させるべく司法判断に対して「不当!」と言い募ること自体が、社会正義および国民の幸福追求を保障する民主主義の土台である三権分立を揺るがす行為なのです。


統治行為論

戦後日本の民主主義は西洋の民主主義先進国に比べても、表面的にはなかなか捨てたものではなかったと言えます。日本の民主主義は、戦前までの近代階級社会の壁をかなり突き崩して、多くの市民が同一の階層に属する平等社会を構築しました。それは悪く言えば、横並び社会であり、個々人の多様性を認めない社会、つまり同調強制型社会であったということになります。とは言え、高度成長の恩恵をより多くの国民が享受し、共に豊かになったのも事実です。

しかし、日本の民主主義のあり方をより原理的な観点から見つめ直すと、それが実は極めて脆い薄氷のような基盤の上にあったということを認めざるを得なくなります。それは、本論のテーマである「三権分立」が、果たして戦後日本の民主主義において本当に機能し守られてきたかのかどうか、という根本的な問いかけを意味します。

今日、日本の民主主義に根本的な危機が存在することを明らかにしているのは、一つは沖縄の米軍基地問題であり、もう一つは福島第一原発事故による個人の生存権の侵害という問題です。1952年のサンフランシスコ講和条約締結による日本の主権の回復にも拘らず、沖縄は72年までアメリカ合衆国の統治下に置かれ続けた事実。本土復帰後も、在日米軍基地の多くが狭い沖縄に集中しているという事実。その上、過半数の地元県民の反対にも拘らず、今また沖縄の辺野古に新しい米軍基地が建設されようとしている事実。虚偽の「安全神話」が完全に否定された過酷な福島第一原発事故によって、未だに10万人に上る人々が故郷に帰れないという事実。そもそも原発事故の本当の原因が未だに解明されていないにも拘らず、現政権と財界が原発再稼働を押し進めようとしている事実。実は、これらの問題の淵源は、戦後体制の早い時期に起こった民主主義の根幹を揺るがす重大事にあったのです。

それは、戦後民主主義が根本的なところで、「大いなるごまかし」をやってしまったことを意味し、そのツケが今日の沖縄の米軍基地問題や「安保法制定」、あるいは福島第一原発の問題につながっているということなのです。「大いなるごまかし」とは、砂川裁判における最高裁判決(田中判決、1959年)のことです。奇しくも「安保法案」を推進した自民党の高村議員は、その論拠としてこの砂川裁判の最高裁判決に言及し、「個別とか集団とか区別せず,国の存立をまっとうするために必要な自衛の措置をとることは当然であると(判決は)いっている」(2014年3月26日)と力説しました。しかし、田中判決の主旨は実際には以下の引用のとおりで、高村議員の牽強付会の説とは全く異なるものだったのです。

安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。(但し、反対意見がある)

以上の田中判決の主旨は、在日米軍基地のような「高度の政治性を有する」事案に対しては憲法判断をしないというもので、高村議員の主張する「自衛権および限定的な集団的自衛権の行使を認めている」というものではなかったのです。この田中判決の考え方は「統治行為論」と呼ばれ、その後さまざまな事案において行政権力に対する司法判断の放棄の判例となってしまいました。つまり、本論のテーマに沿って言うなら、日本の司法の最高権力機関である最高裁判所が三権分立の要諦である自らの司法権力の独立性と権能を放棄してしまったという、民主主義の要を破壊する屈辱的な判決だったということです。(高村議員は、何を以て「憲法判断せず」という田中判決の主旨を、「憲法が容認している」と解釈したのか?その思考はまったく支離滅裂です。)

田中判決の「統治行為論」によって、日本の司法権力は憲法判断という最も重要な権能と責任を放棄し、三権分立の原理は内実のない形式的制度に堕してしまったと言えるのです。最高裁判所が長いこと国政選挙の一票の較差に対して、「違憲状態である」が「違憲とは言えない」あるいは「選挙自体は有効である」という、外国語には翻訳不能の判決を繰り返してきたことも、ある意味「統治行為論」の為せる業と言えます。未曾有の被害者を出した福島第一原発事故の罪や責任に関しても、なぜ警察は強制捜査すらしなかったのでしょうか。この問題は、検察審査会の二回の決定でようやく起訴されるだけの状況になっています。これから行われる裁判でも、裁判所が特定の個人や組織の罪あるいは責任を明確にするかどうかは疑わしいかぎりです。なぜなら、そこには「高度に政治性を有するもの」には司法判断を行わないという「統治行為論」の高い壁が立ち塞がっているからです。沖縄の辺野古基地建設の是非を争う裁判でも、裁判所は最終的に司法判断を下さない可能性があります。それも、「統治行為論」があるからです。

しかし、「統治行為論」がさらに罪深いのは、憲法こそが国家権力が従うべき最高法規であるという近代国家の原理(立憲主義)を骨抜きにしてしまったところにあります。最高裁判所が在日米軍の存在に対して憲法判断を下さなかったことが、日本国憲法に対する日米安保条約および日米地位協定の優位性を容認する根拠となっているのです。もとより、安保条約に基づいて米軍の航空機は日本の航空法にまったく縛られることなく、どこでも、どのような目的でも、またどのような形態でも飛行することができたし、今でもできるのですが(「航空法の特例に関する法律」、昭和27年)、「田中判決」が在日米軍基地に対する憲法判断を放棄したことによって、日米条約が一法律のみならず憲法そのものに対しても優位にあることを決定づけてしまいました。さらに、2004年の沖縄国際大学敷地内への米軍ヘリコプター墜落事故は、在日米軍の治外法権が固定的な基地内のみならず、米軍に属するあらゆるものに対しても、その所在に関わらず適用されるということを改めて明らかにしました。それは、「日米地位協定合意議事録第17条」によって以下のように規定されています。

日本国の当局は、通常、合衆国軍隊が使用し、かつ、その権限に基づいて警備している施設若しくは区域内にあるすべての者若しくは財産について、又は所在地のいかんを問わず合衆国軍隊の財産について、捜索、差押え又は検証を行なう権利を行使しない。(下線は引用者による)

日本国憲法下にある航空法を守らなくてよいということ、あるいは基地の外であっても在日米軍に属するいかなる人間および財産に対しても日本の法律を適用しえないということは、日米安保条約およびそれに付随する日米地位協定が日本国憲法の上位に位置づけられているということを意味しています。その意味において、日本の三権分立、換言すれば立憲主義はすでに50年以上前からごまかされ続けてきたと言えるのです。そのことを改めて明らかにしたのが昨年の「安保法制」成立であり、現在の原発行政である訳です。(ちなみに、在日米軍が日本の有事の際に日米安保条約に基づいて日本を無条件かつ即座に防衛してくれるという、所謂「在日米軍抑止力論」はまったくの誤解、思い込み、あるいは作為的な虚構であると言えます。しかし、そのことについてはまた別の機会に論ずることにしましょう。)



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