ことばと文化のミニ講座

【Vol.83】 2014.7   前田 雅之

伝統の作られ方

ロッカーの出で立ちから

「伝統」とは、通常は、あるべき文化・立ち居振る舞い・観念であり、まさに正統の意味である。だが、既にそのものは失われているけれどもあこがれ慕う対象といった喪失感を伴ったものも伝統の中には含まれる(失われた伝統として)。どちらにせよ、概ね、プラスの意味で使われることが多い。

それでも中には、戦前の日本で屈指のエリート養成校であった旧制第三高等学校のモットーは、聞くところ、「伝統を破壊することが三高の伝統である」というから、伝統は正統ないしは権威であるが故に、破壊するに値する対象だということなのだろう。だが、これは大前提として伝統の正統性を認めた、言わば、ちょいとしたおちょくり、揶揄でもあったし、その背後にはこれを口にする旧姓高校生の傲岸なエリート意識が貼りついている。だから、素直にその発言を受け入れられない(いやらしいのである)けれども、これに類する正統的なものに対するおちょくりは今でも場所を変えて様々なかたちで行われているはずである(いきすぎると、九〇年代に流行したポストモダンのように、すべてが無価値とする考えが横行する)。

今から45年以上も昔になる私の高校時代、大部分の生徒にとって好きな音楽と言えば、欧米のロックかビートルズのごとき欧米ポップスであった。そんな時、多数派につくのをよしとしないのか、マイナー三グループが発生した。各グループ間はほぼ非干渉・無関係ながら(勝手にやっていたということである)も、それぞれジャズ・クラシック・演歌のいずれかをこよなく愛し、少数派であること(=今でいう「おたく」)を誇りとしていた(演歌部門で言えば、森進一を三〇曲三番までそらで歌えるというのはなかなかのものだろう。なお、この手のマイナー人間が他の高校にいることは大学に入学してから知った。マイナー願望は普遍的か)。

私自身は、と言えば、主流・少数派こもごもどのグループにも属さず、当時一部に流行っていたフォークソング(直訳すれば、「民衆の歌」だが、「民謡」ではない、言ってみれば、ポップス風演歌だろうか。岡林信康が教祖だった。七〇年の学生運動の影響で反戦歌が多かった。それを変えたのが吉田拓郎と井上陽水である)などが好きだったが、それはともかく、ここは主流派ロックに的を絞ると、西欧のロッカーたちは、どうして髪が長く痩せていて、かつ、極度に目立つ派手な、言ってみれば、けったいな恰好(=ファッション)を身に纏っているのかが、かねがね疑問だったのである。なぜなら、音楽さえよければ、姿形はどうでもいいと思っていたからだ(とはいえ、演歌歌手、フォークソングのシンガー・ソング・ライターもロックには及ばないが、独特のファッションを身につけているが)極端なことを言えば、紋付き袴、あるいは、力士のスタイルでロックを演奏してもよいではないか、と思っていたのだ。

その後、伝統の問題を考えていくうちに、ある時、ロックファッションの秘密がほぼ分かったのである。それはこういうことである。ロックを生んだイギリスは、今も貴族やお金持ちを中心とする上流階級が社会の主要部門を握っている階級社会である(ビートルズのように、たくさん税金を納めると貴族になれる社会である)。故に、日本で言えば、中卒であるダイアナ妃(貴族出身のくせに、なんとも珍しいが)やヴァージングループのブランソン会長は庶民から人気があるのである。上流階級にいる人たちは、紳士(ジェントルマン)・淑女(レディー)と言い換えられ、男性の場合なら、TPOに応じて、スーツ・タキシード・モーニングといった正統的な服装を身につけ、上品な振舞いと言葉で社交の場に参加する。好きなスポーツも大衆が好むサッカーではなく、ラグビー・クリケット・ゴルフなどであったりする。

イギリスを代表する文芸批評家テリー・イーグルトンの『アメリカ的、イギリス的』(河出書房新社、なお、岩波書店から出ている『文学とは何か』は、文学理論の基本書として、その方面に興味のある向きは必読書である。それが無理なら、これをパロディーにした筒井康隆『文学部只野教授』〈岩波現代文庫〉くらいは読んでおきたい。但し、内容はやや下品である)は、彼の鋭い毒舌と分析で抱腹絶倒間違いない名著だが、こんなことが書かれていた。イギリス人は見た目でほぼ相手の階級の推測ができ、一言しゃべるとほぼ完全に分かるという。他方、アメリカ人はさっぱり分からないらしい。たしかに前の大統領など田舎のいいおっさんという風体であった。
とすれば、ロッカーのファッションは、イギリス紳士・淑女および彼らの正統的文化・態度に対する反逆的表現であることが容易に推測できるだろう。ロックとはもともと反逆の音楽なのだ。音楽自体もクラシックという正統に対する反逆である。ともかく、分かりやすい譬えで言ってみると、正統=紳士・淑女対異端=ロッカーの構図である。

もう一つ加えておくと、異端とは正統があってはじめて成立するということだ。中世ヨーロッパにおいて、普遍性を意味するカトリックに逆らった宗派が異端となったのである。だが、残念ながら、日本にはイギリスのような紳士・淑女はいても、上流階級といった存在は、敗戦と戦後改革でほぼいなくなった(偉い人たち、お金持ち、権力者はいるが、彼らは上流階級ではない)ので、日本にはイギリス的な意味での正統は存在しない。となれば、正統もないのに、勝手に異端の格好であると考えている日本人のロッカーはイギリスの真似をしているだけだ、ということになる。

おそらく、本来の意味が失われて、ロックスタイルというファッションが全世界的に広まったためだろうが、やはり、これは滑稽ではあるまいか。ドラえもんやピカチュウと異なり、ほとんど話の中身を知らないのに、ミッキーマウスを愛し、かの遊園地に繁く通う行為と同じく、戦後日本の無思想性・無節操性の一例とも言いうるだろう。

伝統の起源

それでは、イギリスの紳士・淑女の正統的振舞いはいつごろ生まれたのだろうか、大昔からか。実は、これはそれほど古くないのだ。おそらくビクトリア朝(一八三七~一九〇一年)あたりが起源かと思われる。早い話が近代社会になってから生まれたのである。そして、「伝統(tradition)」という言葉もほぼ同じ時代に誕生した。

伝統を意味するtraditionの原形は、ラテン語のtraditioであるが、これは手渡し(デリバリー)という普通名詞であり、今で言う「伝統」の意味はない。traditionが今の「伝統」の意味をもつのは、権威あるOED(オックスフォード英語辞典)によれば、19世紀に入ってからである。なぜ19世紀なのか。これは近代社会が本格的に展開しだしたのが他ならぬ19世紀であり、世界的に見れば、それまで世界のなかで一等力があった大清帝国(中国)やオスマン帝国(トルコ)に代わって西欧(英仏)が世界の覇権を握るようになったのが19世紀だったのである。たとえば、アヘン戦争から始まる大清帝国の半植民地化、17世紀に設立された東インド会社がインドを完全な植民地にしていったのが19世紀である(インドは19世紀後半にビクトリア女王を君主に仰ぐ大英帝国の一員となる)、と考えると分かりやすいだろう。

人類のそれなりに長い歴史において、中世から近代へ移行していった19世紀ほど激しい変動に見舞われた時代はなかった。近代社会は、フランスを例にとると、フランス革命のスローガンであった「自由」・「平等」・「友愛」(これらはあくまでスローガンであって、今でもフランスの官公庁にはラテン語でうやうやしく掲げられてあるが、「自由」と「平等」の両立は不可能であるように、三者を同時に成長させることはまずもって不可能である。イーグルトン風に言えば、イギリス人にとっての「夢」(dream)=「妄想」(illusion)である)によって、それなりに人々は中世に較べると、自由になった。貧しい労働者はいるけれども、自由を奪われた奴隷がいなくなったのが近代社会である。国民国家(=途中から植民地帝国)と資本主義(=途中から帝国主義)経済によって、経済・軍事・科学技術・教育・文化といった広い分野で前近代には見られない広がりと発展がみられ(故に西欧が世界の覇権を握ったのだが)、過去に存在したさまざまな文化・精神・習慣などが急速に失われていった時代、これが19世紀の近代社会というものであった。

そうした時、多くの人々は、失われていくものに対して、何か意味づけしたくなるのである。そうしないと過去と断絶されてしまうからに他ならない。そのような時、時代を超えて「手渡される」(=継承される)という意味を込めた「tradition」(=伝統)という単語が誕生したのであった。それとほぼ時期を同じくして、紳士・淑女の服装や振舞い、紳士・淑女の服装や振舞い、テーブルマナー、言葉遣いから始まって、文化遺産、古い文学などを「伝統」という言葉で表現するようになり、それはよいもの、上流、そして、正統的なものとなったのである。ちなみに、古典(classics)のclassとは、言うまでも階級の意味であり、上流階級の読むもの、親しむものが、ヨーロッパにおいて、本来、古典というものであった。

ところで、漢字の「伝統」という言葉はどこで生まれただろうか。それは日本であると断言できる。漢字の本家である中国には「伝統」という単語はもともとない。とはいっても、『魏志倭人伝』には「伝統」という表現はある。だが、それは、「統を伝ふ」と読み、まとまった意味をもつ単語ではない。しかも、日本の王の継承を論じたくだりで出てくるのである。

traditionに相当する「伝統」という言葉を作ったのは明治の日本人である。彼らは、西欧の同時代の文章から、19世紀的な意味をもつtraditionと出会い、それを「伝統」と訳したのだろう。それまで日本には伝統という言葉は中国同様になかった。だからといって、伝統に近い意味を持つ言葉や態度がなかったわけではない(古典籍や骨董品などといった古いものを尊び、古風なものを慕うのは、近世の日本人の考え方の基調であった。国学もその一つである)。ちなみに、現在の中国では、「伝統」は日本と同じ意味で使われている。清朝までの中国をtraditional China(伝統中国)と呼ぶのは、ほぼ世界的な傾向である。

作られたものとしての伝統

日本における「伝統」が西欧起源なら、「古典」(classics)も概ね西洋起源である。江戸時代の代表的な国学者である本居宣長(一七三〇~一八〇一年)は『玉勝間』で「古典(イニシヘブミ)」といったが、この言い方は宣長からであり、それ以前には、六国史や『太平記』に中国の古典的書物を意味する言葉としては出てくるが、今でいう古典文学という意味はない(なお、宣長は天文学などについては西欧の学問に触れていた)。こちらも明治以降、国文学なる学問を芳賀矢一が始めたことと絡んでいるだろう(彼は国文学の根幹に文献学を置き、ためにドイツに留学したのである。日本の古い文学の研究方法は、なんと当時の先進国であったドイツからもたらされたのである)。

以上から、伝統とは、近代になって過去の文化や精神が次々に失われていったが、それらへの哀惜の念が反転して、今度は正統に押し上げられたものである。言い換えれば、過去のものを失っていくと、人間や人間によって構成される様々な集団はアイデンティティー危機に陥ってしまうのである。根無し草になるということだ。それを防ぎ、我々は偉大な過去としかと繋がっているのだという思いが伝統なるものを作り上げたのである。だから、伝統とは作られたものである。イスラーム過激派と呼ばれる集団も彼らの考えるイスラームという伝統にとにかく忠実でありたいと思う人たちによって構成されており、アメリカの福音派、イスラエルの超正統派と、危険度はさしおいて、原理主義的な態度としては同様の人たちである。

だが、ここで勘違いしないでいただきたいのは、作られたものとしての伝統だからこそ、価値があるということである。人間がおこなってきたもので、自然に生まれ、自然に続いたものなど一つもない。あらゆるものは、作られたものなのだから、そうとも言えるが、それだけではない。

徂徠の「道」論

江戸時代で一等頭がいい人は誰か、と聞かれたら、私は、荻生徂徠(一六六六~一七二八年)か、新井白石(一六五七~一七二五年)だ、と答えることにしている(残念ながら宣長は入らない。理想の上司と聞かれたら、これは徂徠が仕えていた柳沢吉保となるだろう)。その一人である徂徠は、宋学(=朱子学)を批判して古文辞学なる儒学の一派を打ち立てた人物だが、彼がこんなことを言っている。儒学で言う「道」とは天然自然にあったものではない、先王と呼ばれる理想的な君子が作りだしたものであると(『弁道』、「先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり」)。

道徳や倫理、あるべき生き方を示す言葉である「道」が実は作為の産物だったというのは、当時においては驚きを以て迎えられたはずである。人には疑問をもたずにそう思っていること(ヨーロッパの哲学では、「ア・プリオリ」という、吉本隆明が「共同幻想」と呼ぶものもこれに近い)がかなりどころか厖大にある。たとえば、親は子供を愛するものだとか、人を殺すのはよくないとかもそうである。だが、子供を殺す親は少ないけれども存在するし、世界中で毎日かなりの人間がさまざまな理由で殺されている。そのような行為に対して、「道」から外れているというのは簡単であり、原則的に正しいのだが、そのように言い主張する人は、実のところ、「道」そのものをあまり考えていないのである。ということになっているから、ということで納得しているだけである。通常はそれでよい。

たとえば、なぜ人を殺すのはよくないと、理窟で説明していくと仕舞には破綻するからである(蚊は殺してもよいが、人間は駄目なのは、人間が蚊よりも価値があるからか。だったら、その価値とは何か。蚊だって生きる権利と事情があり、それは人間とさして変わるまい。だから、殺すことの意味と根拠を徹底的に考えていくと、訳が分からなくなるはずである。その意味で、反捕鯨団体が言う、利口だから鯨を殺すのは駄目だというのは理窟になっていない。体のよい、日本人差別の感情が底辺に流れているのではないか)。とにかく駄目だ、と強制的に教え込むしかない(倫理の根元は理窟や論里で説明できないものである)。

そのような時、徂徠は、「道」は先王という人間が作り出したとあえて考えることによって、まず、儒学から通俗的な道徳・倫理性を追放し、その代わりに核としての政治(=天下を安んずる道)を抽出した。次に、中国の先王が作ることができたのであれば、我々日本人も作ることができるはずだと考える。そして、中国人のように漢文を中国語風に読み、その意味も中国古典のコンテクストにおいて確定していく(そこには文献学的厳密さと徂徠の狙いというか野心が混合=融合しているが)。そうして、彼は、江戸時代の日本を理想の古代中国のような国にしたいと考えるのである。むろん、そんなことは実現しなかったけれども、前近代の人間で徂徠ほど、「道」という伝統的な価値を作られたものであると捉えて、それを今度は我身のものにしようと考え抜いたのはいない。伝統はこうしてみると、融通無碍、自由自在であり、我々は伝統をおのがものとして実践しうるのである。

最後に、難解な『荒地』という詩で現代詩を変えてしまったT・S・エリオット(一八八八~一九六五年)はこんなことを言っている。新しい文学が定着するとは、それが伝統の中に組み入れられたことである、と。前衛的な詩をものしながらも、エリオットは保守思想の持ち主であり、伝統なるものと革新なるもの(新しい文学)を対立物と考えないで、どこかで革新なるものが伝統なるものと一体化する場を夢想していた。

このように言うエリオットの伝統も、やはり作られたものだろう。そして、それは、新しい文学に価値を賦与する、目には見えないが、あるべき過去の総体である。ある新しい文学がしばらくして消えてしまったら、これは伝統に拒絶されたとエリオットなら考えるのである。エリオットの伝統もお定まりの固体的存在ではない、新しい文学とも取り込んでいく自由と包容力をもっているのだ。むろん、取り込まれない、即ち、定着しない作品は黙って消えろと言っているのだろうが。
伝統は作られる。しかし、徂徠やエリオットほど積極的に意味付け、捉え返しをしなくても、人間は誰しも作られた伝統ないしはそれに近い起源なるものがないとふらふらして落ち着かなくなるのである。

そこから、改めて伝統なるものを考え直してみてはいかがだろう。これは日本文化学科に入学した者の運命だと言っておきたい。

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