ことばと文化のミニ講座

【Vol.81】 2014.5   服部 裕

民族と人間~映画『ハンナ・アーレント』鑑賞雑感~

悪の「一般性」あるいは「特殊性」?

ドイツ人監督のマルガレーテ・フォン・トロッタが2012年に制作した映画『ハンナ・アーレント』を観た。

この映画は、ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント(1906年~1975年)がイスラエルで行われたアイヒマン裁判(1961年4月~12月)を傍聴し、その傍聴記を「ザ・ニューヨーカー誌」に掲載した経緯を描写している。人間の悪の実態に迫ろうとしたアーレントの哲学的分析は、しかしユダヤ人同胞から激しい非難をあびることになる。映画は、民族の問題としてではなく、人間の問題として真理を追究するために、自らの同胞に対して知的戦いを展開したハンナ・アーレントの孤独な姿を描いているのである。

そもそもアーレントはアイヒマンを擁護しようとしたわけでも、アイヒマンが犯した罪を軽減しようとしたわけでもなかった。アーレントがその傍聴記で訴えようとしたのは、歴史上類のない悪を行った人間の素顔が如何なるものであるかということであった。アーレントは、アイヒマンの素顔を分析することで、(誤解を恐れずに言えば)「悪の一般性」を明らかにしようとしたのである。アイヒマン裁判の傍聴記録をより詳細に論じた本のタイトル『イェルサレムのアイヒマン、悪の陳腐さについての報告』(1963年)には、悪は「悪魔」や「怪物」などのような特殊な人間に固有かつ本源的なものではなく、どんな人間でも取り得る行為であるという、アーレントの極めて深い哲学的認識が凝縮されている。

しかし、この「悪の陳腐さ(=一般性)」を主張するタイトルは、ユダ人同胞に極めて強くかつ否定的なインパクトを与えた。アーレントの「悪の陳腐さ」という哲学的理解は、歴史上比類ない民族迫害を受けたユダヤ人同胞には受け入れ難いものだったのである。多くのユダヤ人は、長い裁判傍聴記を詳細に読むことなしにこの表題だけを見て、アーレントの分析はナチス・ドイツに固有の「悪の特殊性」を否定するもので、その結果としてナチの悪を相対化するものであると断じ、彼女を「裏切り者」と決めつけた。

ナチス・ドイツによる想像を絶する迫害を経験した多くのユダヤ人にとっては、悪はナチという悪魔的な人間の所業であり、それはあくまでも特殊な人間、つまり「人間性」の枠を踏み外してしまった根源的に反倫理的な「悪魔」あるいは「怪物」の「本質」でなければならなかった。ところが、アーレントが裁判でのアイヒマンの証言から得たのは、「凡庸な悪は、根源的な悪とは違うの。あの悪は極端だけど、根源的ではない。深く、かつ根源的なのは善だけ」(※1)という理解だった。つまりそれは、悪はナチという「悪魔」あるいは「怪物」のような特殊な存在に宿るものではなく、「平凡な人間」が自らの判断を放棄し、ただ命令に従うことで「信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶」すれば誰でも犯す可能性のあるものであるということを意味している。さらにそれは、そもそもナチ的人間は「悪魔」でも「怪物」でもなかったし、根源的に悪魔的な特殊な人間など存在しないのかもしれない、ということを意味している。(ちなみに、アーレントはアイヒマンのなかにある悪を「理解する」ことは哲学者としての責任であるが、その「理解」が「許し」を意味するのではないと述べ、アイヒマンに下された死刑判決は[仮令イェルサレムでの裁判が完全に正当とは言えなくても]当然であるとも考えていた。)

以上のように、アーレントは決してアイヒマンを擁護しようとしたのでも、その犯罪行為を相対化しようとしたのでもなかったにも拘らず、多くのユダヤ人はアーレントの悪に関する哲学的理解を断固として拒絶した。否、彼女の主張はユダヤ人への裏切りであると断定したのである。そのなかには、かつての同士や親友もいた。彼らがアーレントの主張を拒否したもう一つの理由は、アーレントがユダヤ人指導者のなかにナチ協力者が存在したという「事実」を指摘したからだった。彼らは600万人の同胞を虐殺したのが単なる「平凡な人間」であるばかりか、一部の同胞の協力によってそれが実行されたという「事実」を認めることができなかったのである。

こに、悪に関するアーレントと多くのユダヤ人の解釈の違いが浮き上がってくる。先にも述べたように、アーレントが悪の所在を人間一般の問題として普遍的に理解しようと努めた一方で、未曾有の民族迫害を体験した多くのユダヤ人は、悪は根源的なもので、特殊な人間あるいは特殊な民族に固有のものと理解しようとしたのである。つまりそれは、その悪の領域には迫害を受けた民族である自分たちユダヤ人は決して含まれてはならないというある種の信仰と、それを脅かす認識への恐怖心の表れだったと言ってよいかもしれない。彼らには、未曾有の受難を経験した自分たちも同様の悪を行い得るということを認める強靭な精神力はなく、そうした勇気の不在を暴こうとする(かのような)アーレントの「悪の陳腐さ」という分析を受け入れることができなかったのである。イスラエルを建国したユダヤ人たちが、彼らの大義を掲げてパレスチナ民族に対して一部迫害的とも言える行為を犯してきた現実を想起するとき、悪は特定の民族(例えばナチス・ドイツ)に固有のものであり、ユダヤ民族あるいはある特定の民族とは無縁であると一体誰が言えるだろうか。(アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』のなかで、広島・長崎への原爆投下やソ連軍による「カティンの森のポーランド将校虐殺」なども明らかな戦争犯罪であると断じている。(※2))

「イスラエルへの愛は?同胞に愛はないのか?もうきみとは笑えない」と言って死の床で背を向ける親友のクルトに対して、アーレントは「一つの民族を愛したことはないわ。ユダヤ人を愛せと?私が愛するのは友人、それが唯一の愛情よ」と答える。また、自らへの非難に応えるアーレントの講義を学生と共に聴いた同士ハンスは、次のように彼女を詰り去って行く:「ユダヤ人のことを何も分かっていない。だから裁判も哲学論文にしてしまう/我々を見下す傲慢なドイツ人と同じだ。我々は大虐殺(ショアー)の共犯者なのか?」

アーレントは多くの同士や友人を失いながらも、悪に関する哲学的な思考を継続する。それは愛憎相半ばする師ハイデッガーの「我々は思考する。我々は考える存在だからだ」という理論を実践することであり、「悪の陳腐さ」の淵源が人間の思考の欠落にこそあるということを訴えるためでもあった。アーレントはアイヒマンに関する講義を、以下のように締めくくっている。

「ソクラテスやプラトン以来私たちは“思考”をこう考えます、自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう」

ハンナ・アーレントは悪の問題を民族の問題としてではなく、人間の、しかも「平凡な人間一般」の問題として捉えようとした。まさにこの一点に、悪に関するアーレントの思考の普遍性が凝縮されていると言えるのである。

新たな民族主義への警告

ハンナ・アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』よりまえに、『全体主義の起原』(英語版1951年、ドイツ語版1955年)と『人間の条件』(1958年)という大著を上梓している。いずれも人間の本質に迫ろうとした大作であると同時に、自らが生きた時代をも含む歴史的・政治的現実の根幹を明らかにしようとした哲学書である。例えば『全体主義の起原』は、ナチズムやスターリンのソ連邦の全体主義のメカニズムを解明するために、広く反ユダヤ主義の歴史や帝国主義国家の本質、さらには近代階級社会の崩壊にについて論じている。また、『人間の条件』は明らかにマルクス主義への批判的視座から、人間の行為を「労働」、「仕事」ならびに「活動」という概念に沿って分析することで、人間の本質に迫ろうとしている。というように、アーレントの複雑な思考を跡づけるのは、そうそう容易な作業ではない。その論述は非常に広範囲かつ深遠な政治哲学の世界を構築しているのである。そうしたアーレントの難解な哲学世界の一端を、トロッタ監督は見事に映像化したのである。

この極めて地味な「思考の映画」を制作したトロッタ監督は、民族と人間の関係とそのあり方を実に真摯な態度で表現していると言える。

フランス革命を契機として19世紀に成長した民族国家に究極の形を与えてしまったナチス・ドイツと軍国主義国家日本を、所謂先進諸国は第二次世界大戦で打ち負かすことによって、戦後、民族主義に基づく近代国民国家の理念を修正し始める。第一次世界大戦や第二次世界大戦のような大国間の全面戦争の基盤を成していた過度の民族主義を克服することによって、よりグローバルな国家と国際社会のあり方を模索し始めたのである。かつては互いに相容れない民族意識の下で覇権を争ったドイツとフランスが、互いに協力することによって民族国家の枠を越えるヨーロッパ連合(EU)を実現したのはその一例と言える。そうしたグローバル化の時代にあって、(東西冷戦という新たなイデオロギー対立とは別の次元で)民族主義は先進諸国間の対立というより、発展途上の国家や、新たに生まれ変わろうとする国家を建設する原動力として機能してきた。イスラエル国家を支える民族主義やソ連邦崩壊後の旧ユーゴスラヴィア内戦による古くて新しい民族国家の樹立、アフリカ諸国の民族対立、さらにはアラブ民族による先進諸国に対する(テロを含む)抵抗などが、20世紀後半の民族主義の中心を成してきたと言える。

そのように一度ローカル化したかに見えた民族主義は、今日ふたたび世界の大国で息を吹き返し、国際社会の新たな不安定化の要因になりつつある。ロシアによるクリミア併合も然り、中国の大国化とそれに対抗するかのような日本政府の右傾化も然り、フランスのような西ヨーロッパ主要国での右翼政党の勢力拡大もまた然りである。

映画『ハンナ・アーレント』がこうした新たな民族主義の勃興を意識して制作されたかどうかは明らかではない。しかし、過度の民族主義が人間を誤った方向に導くものでしかないというメッセージが込められているのは明らかである。異民族を排斥する「ヘイトスピーチ」が街頭で叫ばれ、インターネット上に自民族中心主義的な言葉が氾濫する日本社会の現実を目の当たりにするとき、わたしたち日本人も「考えることで人間が強くなる。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。」というハンナ・アーレントのメッセージを改めて受け止めなければならないのではないだろうか。


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