ことばと文化のミニ講座

【Vol.78】 2014.1   三橋 正

「神道」の成立について

「神道」を何で「しんとう」と読むの?

神道が日本固有の宗教であることは、ご存じだと思います。でも、その成立や特色を海外の人にもわかるように説明できる人は、残念ながら多くありません。そもそも「神道」を「じんどう」という漢字の音読み通りではなく、「しんとう」と澄んだ音で読むのはどうしてでしょう?

この疑問は、すでに室町時代に出されており、良遍(りようへん)という天台宗の僧侶が応永二十六年(1419)に『日本書紀』の講義をした中で次のように答えています。

「しんとう」と清(す)んで読むのは、「直(すぐ)なる義」なのである。「直なる」とは、ただ「あるがまま」という意味である。だから、伊勢神宮の建築では(屋根を)茅葺きにしたり曲線を付けたりせず、また(神宝である鏡を収める)舟車を荘厳にしたり、衣服に模様を付けたりしない。また、神楽で太鼓や笛を鳴らさないなどのことの深義があることを、(秘説として)師匠から弟子へと伝承しなければいけない。

これは弟子の頼舜(らいしゆん)が筆記した『日本紀第一聞書』の冒頭「神道名字事」にあり、早くから中世神道の研究者によって取り上げられていましたが、特にオスロ大学のマーク・テーウン氏が「しんとう」という奇妙な読み方の初例で、教理的な神髄を象徴すると重視したことで再び注目されました。しかし、『日本書紀』の講義を始める最初の解説で取り上げられていることから、同時代の誰もが「しんとう」と清音で読んでいたと考えられ、そのような慣例ができて久しいと考えるべきでしょう。また、最近の学説では「神道」の成立を「伊勢神道」などの教理ができた中世(鎌倉時代以降)であるとする見解がありますが、思想面を中心にしてしまうと、日本人の「神道」信仰が説明できません。もちろん、近世の国学者や明治の国家神道によって作られたものでもありません。なぜなら、神社にお詣りをする日本人のほとんどが神の名前すら知らないでお祈りしますし、神職(神主)から教義を聞くこともないからです。

神道を理解するには、複雑で華美な様式を知りながらもそれを採用しないで古来の素朴な要素を大切に維持している「気持ち」に迫る必要があります。例えば、伊勢神宮では二十年に一度、新しく社殿を建て替える「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が行なわれていますが、その建築は神明造(しんめいづくり)という非常に単純・直線的な様式です。その装飾としては大棟上に交差した千木(ちぎ)と直角に並べた鰹木(かつおぎ)を屋根の上に載せるほかに部分的な金具がある程度ですが、非常に荘厳かつ神聖な雰囲気を醸し出しています。他の神社でも、出雲大社の大社造(たいしやづくり)、住吉大社の住吉造(すみよしづくり)、春日大社の春日造(しゆんじつづくり)、賀茂神社の流造(ながれづくり)、さらには大嘗祭の時に建てられる黒木(くろき)を用いた掘立柱の神殿など、いずれも素朴で古風な様式が維持されています。また、社殿の中には鏡が置かれる程度で、江戸時代以前には神像が安置されることもありましたが、それもほとんど拝まれるはなく、多くは明治の廃仏毀釈で破棄されてしまいました。むしろ、神社は森や山と一体化され、自然の中に「神」が感じられるようになっています。これは仏教の寺院に見られる複雑な様式や、華美で壮麗な仏像を拝むのと対照的です。

神道に見られる素朴さは、清浄かつ伝統的であることを想起させます。それを神道そのものと見なすことはできませんが、本質に迫るための不可欠の要素であり、そう感じ取る意識の源流を探ることで、「神道」の成立に迫ることができるのではないでしょうか。

原始信仰と「神道」の違い —「死」を扱わない特殊な信仰—

神道は、多神教とされたり、自然界のあらゆるものに霊魂を認めるアニミズムであるとされたりします。確かにそのような原始信仰的な要素は色濃く残っていますが、それだけで神道は説明できません。それは、イギリスの外交官として長く日本・朝鮮に駐在して『日本書紀』も英訳したウィリアム・ジョージ・アストン(1841~1911)が、明治三十八年(1905)にロンドンで刊行した『神道』で「神道は文字による記録を十分にもっている宗教のなかではもっとも未発達な宗教」であるが「組織された神官階級と念入りに作られた祭儀」をもつから「原始信仰ではない」と指摘した通りです。では、何が違うのか。それを解く鍵となるのが、「穢(けがれ・エ)」という考えや「祓(はらえ)」という儀礼にあります。

穢(触穢(しよくえ)思想)とは、死・産・失火(しつか)(不慮の火)を穢として忌(い)む穢規定のことで、肉親と死別した人だけでなく、葬式に参加した人、犬や猫の死体の置かれた部屋や出産の場にいた人も「触穢」とされ、祭に関わることが禁止されたのです。大祓(おおはらえ)はもと国家的な服属儀礼でしたが、清浄をもたらす禊(みそぎ)と混同され、今でも六月と十二月の晦日(最終日)に半年分の不浄をはらい、祭の前にも必ずしなければならない神社の儀礼となっています。これらは「神道」が純粋・素朴であるとイメージさせる最大の要素となっていますが、日本独自のものではなく、中国の祭祀制度や儀礼を受容し、その上で時間をかけて古代律令国家の責任のもとで形成されました。

最も重要な点は、人間(生命)に必ず起こる「死」を排除したところで「神道」が成立していることです。神職(神主)による神葬祭もありますが、それは江戸時代の末に仏教に対抗してできたもので、それ以前の神道は葬儀との関わりを忌避する姿勢を貫いてきたのです。これこそ世界の宗教と比較して最も特異な点であり、「神道」の形成については、この「死と関わらずに成り立つ宗教」となるまでの経緯を視野に入れて論じなければなりません。

「神道」形成の第一段階 —古墳と分離した神祇儀礼の成立—

「神道」が死を排除したところで成り立っているとすれば、その成立は古墳時代以前になかったことになります。日本列島で五世紀に築造の最盛期を迎えた大型の前方後円墳は、天皇(大王)などの陵墓として権力を象徴していただけでなく、宗教的な服属儀礼の場でもあったと考えられ、その時代に死・葬式を排除した「神道」があったとは考えられないからです。ところが前方後円墳の天皇(大王)陵は六世紀の欽明天皇陵が最後で、次の世代からは小型化して方墳・上円下方墳・八角形墳などとなります。この変化には、同時代に受容された仏教など大陸的な要素が大きく影響していました。そして七世紀になると、律令国家の形成と軌を一にして神祇祭祀が整備されました。ここから仏教(および道教)を受け入れながらも、国家意識と一体になって純粋化された「神道」が形成されていくことになるのです。

ここから「神道」の純化が「仏教」との対比のもとで進められていく過程を、四段階で説明していきたいと思います。

「神道」形成の第一段階は、天武天皇朝から『大宝令』編纂(701年)による「神祇令」の制定に至るまでです。古代律令国家により「天皇」号や「日本」国号の成立という国家的アイデンティティの形成に基づく法律・儀礼の整備が進められる中で、唐の「祠令」を参照しながら、「神祇」について初めて統一的な制度が確立されました。それが「神祇令」という日本の国家的宗教儀礼の大綱です。つまり、寺院整備など国家による仏教の推進がなされる中で、葬祭など死にまつわる儀礼と切り離された「神」の規定が整備されたのです。そこには斎(いみ)(潔斎)・祓など、中国の国家的祭祀規定や道教的な要素をそのまま取り入れたものもありました。また、この時代に重厚な寺院建築に対して素朴さを特徴とする神社建築が定まり、仏教受容の歴史を敢えて排除した『古事記』のような文献もできました。つまり、「神道」はこの段階から墳墓・葬祭や仏教など外来の要素を含みながらも、自覚的に「純化」を指向する性格を持ったのです。

「神道」形成の第二段階 —「穢を近づけると祟をなす神」の確立—

しかし、律令祭祀の実効性は疑わしく、八世紀(奈良時代)には試行錯誤が続きました。聖武天皇天皇朝における国分寺や盧舎那大仏の造立や、称徳天皇朝における道鏡政治などによる混乱もあり、神祇と存立基盤は危ういものだったのです。

桓武天皇の時代になって、服喪を「凶」として「吉」である神祇との混同を避けるなど「純化」が進められました。しかし、根本的な見直しと再整備がなされたのは、律令の格(修正法・追加法)・式(施行細則)が編纂され、唐制の研究をふまえた朝儀の整備が進められた平安時代前期です。

「神道」形成の第二段階は、『弘仁式』編纂(820年)から『貞観式』編纂(871年)までで、それまで実効性に欠けていた神祇祭祀が、「神祇令」の式(神祇式)を制定する作業によって実態に即応した確固たるものとなり、「神社への奉幣」を核とする国家的神祇祭祀の完成形が示されたことによります。つまり、神社が確固たる宗教的な祈願の対象として認識され、そこにまつられている神様に捧物をすることが「神道」の中心として位置付けられ、それに関する規定が整備されていったのです。

この中で、先の第一段階で「祠令」に基づいて「神祇令」に規定されていた「穢悪」という詞が見直されます。『弘仁式』では、「穢悪」に触れた者が関わってはいけないとされ、「人の死」に触れた場合は三十日間、「産」なら七日間、「家畜(鶏以外)の死」なら五日間、「産」なら三日、という日数が規定されました。それが『貞観式』では「穢」と言い換えられて、発生場所(甲)から人を介して別の場所(乙・丙)に伝染する「触穢」の規定にまで発展します。「失火」という火事などの不慮の日に触れた人も七日間の穢とされていますが、(それでは消火活動に支障を来たすため)伝染しないともされています。つまり、斎(潔斎)の実践が徹底する中で、厳密な「穢」規定ができたのです。そして、『延喜式』穢規定は、その最終形です。

これと並行して、大祓の儀礼も見直され、穢で祭ができなかったことを神に謝罪する「由(よし)の大祓」などが行なわれるようになります。ただ、注意しなければならないのは、穢は祓によって浄化されることはなく、一定期間は存続するということです。ですから、平安時代に穢が発生すると、祭をして良いかどうかの最終判断を天皇が下さなければなりませんでした。それを「定穢(じようえ)」と言います。

このような規定ができた背景に「穢を近づけると神は祟(たたり)をなす」という神観念が存在したことがわかります。日本人は自然災害などを神の祟と考えていましたが、この時代にその原因が「穢」であると見なされたのです。そこには、『古事記』や『日本書紀』の一書に書かれているイザナギという神様が死者の国である黄泉国(よもつくに)(夜見(よみ)国)から帰ってから祓をして汚穢(おえ)をはらったという「黄泉国訪問神話」の再解釈があったとも想像されます。けれども、「穢」の思想が神社の神の「祟」と結びついたのは、平安時代前期であったことを見落としてはいけません。

「神道」形成の第三段階・第四段階 —国家儀礼から信仰習俗・神社信仰へ—

第三段階は、平安時代中期の摂関期で、国家祭祀を遂行する責任を担っていた貴族たちが、それを自らの信仰と一体化させ、さらに神社への個人的な信仰を確立させました。大祓や穢の歴史を検証すれば明らかなように、民俗学が「太古からの一貫性」を強調してきたような「神まつり」の習俗は、実は国家儀礼が習俗化した姿であり、その過程における貴族社会の役割は重大です。ここまでの段階で、神道(神祇)、仏教、そして陰陽道などの俗信を使い分けるという「日本的信仰構造」も確立しており、この構造の上に、以後の日本宗教が展開することになります。

第四段階は、院政期以降で、祭以外の時でも祈願のために自由に神社に参詣する「神社信仰」が確立すると、多くの参詣者を受け入れるために神社が神職制度を整備させ、国家の枠を離れたところで神祇について説明されるようになりました。その様相は、大祓を神祇儀礼の中核と見なす『中臣祓訓解(なかとみはらえくんげ)』などの神道書や、穢について神社ごとの規定をまとめた『諸社禁忌(しよしやきんき)』が成立したことに顕著です(『諸社禁忌』については、本講座のVol.36を参照)。

このような歴史認識に立った時、「神道」は単なる民俗宗教ではなく、日本古代律令国家によって示された方向性と基盤の上に形成され、その後で民俗化したことは明らかです。「神道の成立」は決して一時代に限定されるものではありません。基本となる在来信仰に、時代ごとの特殊性や外来の要素が加えられる一方で、原始性を維持ししながら、少しずつ形を表わしてきたのです。「神道」はまさに数百年にわたって熟成された宗教文化であり、酒・味噌のような発酵食品にたとえて「成立」を論じるべきでしょう。

神社や中世神道説を中心に考える研究者の多くは、第四段階以降に「神道の成立」を当てはめます。、確かに個人が初詣(はつもうで)や百度詣などによる自由な神社参詣をするような、現代にも通じる「神社信仰」が形成されたのは院政期のことですし、「両部神道」「伊勢神道」のような名前を付けて呼ぶべき「神道論」の形成もそれ以降です。しかし、それはラベルのようなもので、売り物になった時点ととらえるべきです。より重要なのは、日本独自の発酵方法が完成された時期です。そう考えると、「神道」という宗教の体裁が整えられた時期として、神社への信仰と共に神観念に基づく「穢」規定が確定した第二段階の方が最も重視されるべきでしょう。そして、その「醸造」過程で最も責任を持つ立場にあったのが律令国家とそれを支える天皇・貴族社会であったのです。

諸宗教を使い分ける日本人 —日常生活は陰陽道、死後の世界は仏教—

平安時代前期は、弘仁・貞観文化という漢風(唐風)な文化が展開した時期です。天皇即位の儀礼などが唐風に改変され、天皇自らも漢詩を詠み、書をたしなみ、密教を受容するなど、あらゆる面で中国が意識されていました。すなわち、「神道」が「純粋性」を堅持する宗教として確立できたのは、「神祇」という単一の系譜しかなかったからではなく、一方で常に外来の文化を尊重して取り入れながら、一方でそれを排除する場面を設ける意識構造があったということになります。

信仰面でも中国の文化を日本的に変化させて定着させていきます。その一つが「暦に基づく信仰」です。暦(カレンダー)の作成方法と吉凶予測は中国から伝わりましたが、それらを記した具注暦(ぐちゆうれき)なしに平安貴族は生活できなくなり、日常生活の次元でも不吉を避ける消極的な行動形式を植え付けました。これが「暦に基づく信仰」で、これは具注暦を作成する陰陽道の領域となりました。現在の私たちも、友引の日に葬式をしないとか、結婚式には大安の日を選ぶとか、カレンダーを気にしなければならない風習が残っていますが、その源流は、やはり平安時代にあるのです(但し、六曜は江戸時代の風習で、平安時代にはもっと複雑なものでした)。

より重要なのが、仏教の日本的な展開です。天皇を中心に仏教への理解が深まり、自らの来世を託すようになったのです。それを象徴するのが「臨終出家」と言われる自らの死を目の前にして僧侶を招いて戒を受ける儀式の成立で、その初例は承和七年(840)に崩御した淳和上皇、または嘉祥三年(850)に崩御した仁明天皇と考えられます。その風習は摂関期の貴族社会に定着し、ほとんど誰もが死ぬ前に僧(の姿)になっていたいと考えるようになったほどです(臨終出家については、本講座Vol.11参照)。

貴族たちの来世は完全に仏教に託されたのであり、それが浄土教隆盛の最大の原因でした。そして、「出家」を「死」への旅立ちのパスポートのように見なす思潮がさらに進展し、院政期にはすでに死んだ者に対しても「死後戒名」を与えて出家をさせる「死後出家」を生み出しました。これが日本仏教特有の「葬式仏教」の誕生です。その起源は平安時代前期にあり、中期(摂関期)に信仰習俗化していったのであり、「神道」や陰陽道の形成・展開と軌を一にしています。

すなわち、神祇信仰の確立(「神道」の成立)・陰陽道の成立・仏教の日本化、そのいずれをとっても、平安時代前期に弘仁・貞観文化が展開する中で方向性が定まり、その路線に基づいて国風文化の形成と並行して習俗化され、現代の日本人にも通じる信仰として定着したのです。その中で、諸宗教を使い分ける日本的信仰構造が築き上げられました。諸宗教の棲分(すみわけ)けです。日本人は、それらをバランス良く情況に応じて使い分けているのであり、それぞれの宗教は、他との共存の中にあり、決して単一で一人の信仰を包括することはありません。これが他国で諸宗教が混在するあり方とは異なる、日本宗教独特の形態なのです。

「神道」の特殊性 —神道は純粋を保つ

「神道」は、自らの来世は完全に仏教に託され、日常的な禁忌は陰陽道に託されたことにより、日本人にとって最も崇高な次元にあると意識され、それを具現する信仰として創造されたと言えます。そのバランスの取れた宗教構造を作り出した平安時代の朝廷では、仏事に対して神事を上位に位置付ける思想が徹底されていました。それを「神事優先」といい、神の時空間から仏教の要素を排除する「神仏隔離」も実践されていました。  けれども、仏教や陰陽道を軽視していたのではありません。あくまで、それぞれを使い分けていたのです。この点が、人の一生を一つの宗教が支配している、キリスト教やイスラム教のあり方と根本的に違うのです。

信仰する側に宗教を自由に使い分ける権利があるという、ある意味で贅沢な宗教文化は、日本という島国の、王朝の交替なく比較的安定した国家・社会の内部で、朝廷・貴族社会主導により少しずつ姿を変え、現代の日本人の習俗に通じる信仰形態となって定着・継承されたことによって成り立ちました。再説になりますが、それは酒や味噌などが醸成されていくような、緩やかな変化が積み重ねだったのです。

「神道」が純粋性を保てたのも、この使い分けの構造の一画にあったからで、他の宗教との共存を前提とした純粋性であったと言えるでしょう。「神道」を正しく理解し、説明するためには、仏教や陰陽道のことも知って日本宗教の全体像を描き、それを海外の宗教文化と比較できるようにならなければなりません。これからも幅広い視野を以て勉強していきましょう。

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