ことばと文化のミニ講座

【Vol.75】 2013.10   前田 雅之

明星本『正広自歌合』をめぐって

正広という歌人

皆さんは正広(しょうこう)(日比(ひびの)正広とも)という歌人をご存じでしょうか?ほとんどの人は知らないと思われます。私の授業でも一二度触れた記憶がありますが、詳しく述べたことはありません。これは皆さんだけではなく、日本中で正広を知っている人は、大学院以上の和歌文学研究者、中世文学研究者だけに限定されるかと思います。簡単に言えば、室町期のマイナーポエットです。しかし、今回は、この歌人を取り上げます。というのも、正広の歌集が日本文化学科と深い関係を持っているからです。

最初に正広の生没年を押さえておきましょう。応永十九(一四一二)に生まれ、明応二(一四九三)年に亡くなっています。八十二歳(当時は数え年なので、満年齢よりもだいたい一歳ほど高くなる)です。当時においてはかなりの長寿の人だと言ってよいでしょう(昔の人にも長寿の人はままいました)。にも関わらず、家柄や家系は不明の人物です。家柄・身分は尊ぶ時代のこと(これをそれほど尊ばなくなったのが現代という時代です)、正広は当時にあってはやや基準から外れた人物ということができます。正広の伝記については、稲田利徳先生のご研究(一三〇〇頁を優に超える大著『正徹の研究 中世歌人研究』、笠間書院、一九七八年、他には先生が執筆された『和歌大辞典』の「正広」など)が何よりも一等詳しいので、これから述べる正広・正徹に関する記述はほとんど先生のご研究に拠っています。我々が研究できるのは、このような偉大な先達がいるからです。これは皆さんもしかと胸に刻んでください。先達を尊べと。

この時期、やはり家柄・家系が不明な著名人に宗祇(そうぎ)がいます。宗祇は連歌師として活躍したばかりか、当時における文化人の代表とも言える三条(さんじょう)西実(にしさね)隆(たか)に近づき、地方の守護・武将などと実隆の連絡役もやっていました。具体的には、地方の守護・武将から古典籍(『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』など)の書写依頼を宗祇が受けて、実隆に伝え、今度は実隆が書写して宗祇に渡し、宗祇の手を経て地方の守護・武将に渡るというシステムを宗祇が完成したのです。このシステムは、宗祇没後も、宗祇の弟子である肖柏・宗長らに受け継がれていきます。

こうした書物の書写依頼→書写→書物の到来という一連の過程において、お代というかお金が動いたはずですし、それによって実隆の家計は大いに助かったものと思われますが、実隆がどのくらいのお金で書写したのか、また、仲介に入った宗祇にはどれだけの取り分があったのかは、残念ながら分かっていません。実隆の日記である『実隆公記』には、もっていた『源氏物語』を売り払ったときの値段は出ていますが、この手の数字は一切記されていません。書く必要を認めなかったということでしょう。

やや横道に逸れましたが、ここで押さえておきたいのは、室町期、とりわけ、応仁の乱(応仁元年・一四六七~文明九年・一四七七)勃発以降、京都の古典文化は宗祇といった連歌師らを通じて地方に伝播していったということです。そして、連歌師宗祇の役割を歌人正広が果たしていたと言えます。正広は地方の守護大名などを巡っていたのです。正広は師である正徹の教えを守って連歌は詠みません(他方、宗祇は和歌も詠みます)。宗祇と正広、連歌と和歌の違いがありながら、共に家柄・家系がよくわからない、言ってみれば、正体不明の人間が活躍し、彼らが古典文化・和歌を地方に伝えていく、そういう時代が応仁の乱以降の日本にやってきた、これはこれまでになかった新しい文化情況であると言ってよいでしょう。

さて、正広は一三歳の時に、室町期の代表的歌人である正徹(しょうてつ)(永徳元年・一三八一~長禄三年・一四五九、七九歳)の弟子になりました。正徹自身も備中国小田氏出身とされますが、家柄や家系ははっきりしない人です。だが、一四・五歳の時は、京都の冷泉派の月次会(つきなみかい)に出入りし、その当時歌人としては高く評価されていた今川了(りょう)俊(しゅん)の弟子となってみっちり修行を積み、その後、了俊没後、出家を遂げ、正徹となって、将軍のみならず、細川・山名・畠山・斯波といった守護大名、連歌師(心敬・智蘊ら)、冷泉・飛鳥井などの公家歌人たちも交流しています。つまり、正広の幅広い行動の先駆けには師・正徹がいたということです。

正広は、正徹が亡くなる長禄三年まで三五年間あまり、正徹に仕えました。その後、正徹が開いた招月庵を継ぎました。つまり、和歌における正徹派を継承したということです。日本の学問・芸道(芸能)は、原則的に師資(しし)相承(そうじょう)で伝わります。先生(師)が弟子に伝え、弟子が次は先生(師)となって新たな弟子に伝える。これを師資相承と言いのです。今のように学校が整備されていません。ですから、このような師弟関係がなければ、学問・芸道(芸能)は伝わらないのです。そして、師の学問・芸道(芸能)が一派を立てると、今で言う「学派」が形成されます。

和歌で言えば、二条家に淵源を持つ二条派がその代表ですが、当時、二条家は滅んでおり、東常縁から古今伝授を受けた宗祇が三条西実隆 (さんじょうにしさねたか)および肖柏に古今伝授をして、二条派正統(ということ)になっていました(その後、古今伝授は三条西実隆→公条(きんえだ)→実枝(さねき)→細川幽斎→智(さと)仁(ひと)親王→後水尾院と伝授されていきます)。

他方、正徹は今川了俊(いまがわりょうしゅん)の弟子ですから、学派としては、元々冷泉派です。冷泉家は今日も続く唯一の藤原俊成→定家に源を持つ歌の家の一つですが(家の祖は冷泉為相、その後、為秀が継ぎ、いずれ正広の時代に上冷泉家・下冷泉家に分裂する)、了俊は足利家の血を引く、南北朝を代表する武将(後代の今川義元とは同族ながら、了俊は分家筋)ながら、歌人としても著名でした。つまり、文武両道の人だったということですね。正徹は了俊の弟子となり、その弟子が正広ということです。ということは、正広は了俊の孫弟子ということになりますが、歌の面から見ると、圧倒的に正徹の影響を受けていると見てよいかと思います。

正広の師に対する敬愛の念はとてつもなく深く、師が没してから一四年経過した文明五年(一四七三)、師の家集『草根集』を編集しました。その後も書写・抄出されていったようですが、『私家集大成』に収められている書陵部本では、全十五巻、総歌数一一二三七首という、個人家集としては最大級の規模となっています。正広の名は、本人の和歌でというよりも、『草根集』編纂によって今日知られているといって過言ではありません。しかし、彼の和歌もなかなかの質と量を備えています。そこで、本学と関係する正広の歌集に話題を転じましょう。

明星大学本『自歌合』

正広は、師である正徹が招月庵=松月庵を受け継ぎますが、正徹には及ばないという意味合いで『松下集』という家集を残しています。完本は国会図書館所蔵全六巻(写本)だけです。この本は透写本といって、親本の上に薄様(薄い楮紙)を置き、上から直接に透かし写した本です。極めて忠実に書写されます。字形から判断すると親本は正広自筆か、それに近い筆かと思われます。全三二四四首もあります。この六冊目に『松下集 二』と題簽があり、「自謌合 三百六十番  次第不同」という内題をもつ自歌合が収められています。これがここで問題にする歌集です。

明星大学本『自歌合』

まず、「自歌合(じかあわせ)」なる一風変わった歌合から説明していきましょう。「歌合」とは、歌人が左右に別れて歌を競い合うゲームです。ところが、「自歌合」とは自分の歌を左右に別れて戦わせるというものです。やや自閉的な感じがしないわけではありませんが、西行『御裳濯河歌合』(判者、藤原俊成)、同『宮河歌合』(判者、藤原定家)が「自歌合」の始まりであり、新古今時代には、『慈鎮和尚自歌合』(判者、藤原俊成)、『後京極殿(九条良経)御自歌合』(判者、藤原俊成)、『定家卿百番自歌合』(判者なし)、『家隆卿百番自歌合』(判者なし)、『後鳥羽院自歌合』(判詞 藤原家隆)とそれなりに盛んになりました。当時を代表する歌人である西行・慈円(慈鎮)・良経・定家・家隆・後鳥羽院が自歌合をしているということは、これがある種の正統的行為になったことを思わせます。そして、当時の歌壇の大立て者である俊成が多く判者を務めていることも自歌合の立ち位置を示しています。なかでも、『後鳥羽院自歌合』は、後鳥羽院が隠岐配流後に、自歌を二十番に番いして、家隆に判詞を乞うたものです。後鳥羽院は、隠岐にいても、『新古今集』の再編(隠岐本)を行うなど最後まで和歌への志はなくなりませんでした。後鳥羽院は自分だけが自歌合をもっていないことがずっと気になっていたのではないでしょうか。

その後、自歌合は、鎌倉後期、伏見院の皇后であり、院同様に京極派の重鎮であった永福門院の『永福門院百番自歌合』があるほかは、行われなくなりました。ところが、応仁の乱以降、突如、自歌合が盛んになってきたのです。おそらく原因は、後土御門院主唱による大規模な古典籍書写、宗祇の古今伝授、実隆の旺盛な書写活動と連動したものでしょう。つまり、古典復興の一環だということです。理想的な時代としての定家の時代を後代の人間がまねをすることによって再現しようとしたのではないかと思われます。

主な「自歌合」をあげておきますと、『慈照院殿(義政)御自歌合』、『豊原統秋自歌合』、正広の後では、『十市遠忠自歌合』、『細川左京大夫(高国)自歌合』、『道堅自歌合』、『素純自歌合』などがあり、江戸初期の『貞徳自歌合』まで続きます。そうしたなかでも正広の『自歌合』は、「春秋」・「夏冬」・「恋雑」の六部立、それぞれ一二〇番ですから、全部で七二〇首の大規模なものでした。おそらく自歌合では最大級のものではないでしょうか。

明星大学人文学部日本文化学科(当時は日本文化学部言語文化学科)が正広『自歌合』(以下「明星本」という)を神田の著名な古書店から購入したのは二〇〇〇年とのことです。学芸員養成課程において、本物の資料を材料として使わせるという意図であり、それ自体極めて立派な行為ですが、この本のすばらしさは正広の自筆だということです。室町期の自筆本はそれだけでも決定的に貴重です。自筆である証拠は、他に残る正広の字から確認できます。明星本には奥書があり、ここにはこうあります。

あふけとも清き巌の松か本

   はかなやつゐにふる葉をそ

      かく

文明八年七月日    正広(花押)

明星大学本(奥書)

この歌にある「清き巌」とは、正徹の字(あざな)である「清巌」のことですから、正徹その人を意味します。そして、「松か(が)本」が『松下集』同様に、正広自身のことを指しているでしょうから、この歌の意味は、仰ぐけれども、正徹先生の松の根元に過ぎない私としては、情けないことに、とうとう「ふる葉」(旧歌)を集める(歌の「かく」は西行の「諸共に散る言の葉をかくほどに」『山家集』九二九番歌と同じく、かき集めるという意味)ことになってしまいました、というものでしょう。かなり、遠慮がちながら、偉大な師である亡き正徹に捧げたのがこの「自歌合」ということでしょう。

だが、正広は決して自分の「ふる葉」を集めるだけでは満足できなかった人のようです。正広『自歌合』の最も古い写本は、文明五年の奥書日付をもつ、大谷大学図書館本(大谷本)です。これは、どういうわけか、正広の花押が削り取られていたりして、なかなかもって因縁めいた本なのですが、字は明星本に似ています。つまり、正広自筆の可能性があるということです。両者を比較してみると、面白いことが分かります。大谷本の表記を明星本で改めている箇所がままあるのです。つまり、正広は、大谷本から明星本を写す際に、推敲して字句を改めているということです。具体的な指摘は差し控えますが、正広は、自分の自歌合をよりよいものにするために、本文をいじくっているのです。

そして、これが国会図書館本『松下集』「自謌合」となると、また、字句がいじくられています。こちらは奥書がありませんから、親本がいつ書かれたかは分かりません。『松下集』所収の一等新しい歌が明応二年(一四九三)という正広没年なので、それまでに書かれたことは間違いないでしょう。推測ですが、『松下集』という自分の生涯の詠作を集めた家集を編纂する過程で再び手を入れたのではないかと思われます。

この過程にも私は今の『松下集』の前の段階、そして、後の段階などさまざまな字句の変化が見られます。すべてが正広の手になるとは思えませんけれども、正広という人は、自分の歌でさえも、常に推敲し、字句を改め続ける歌人だったということは言えるのではないかと思います。クラシック作曲家のブルックナーに似ていると言えば、言い過ぎでしょうか。

明星本『自歌合』の広がり

明星本には同じ本文をもつものが三種類あります。その一つが仙台の伊達文庫本です。藩主伊達吉村が記した奥書によれば、この本はもともと稲葉侍従正通の所蔵本だったが、借り受けて写したとあります(日付は元禄十一年・一六九八 七月十七日)。それでは、どうして吉村は正通に『自歌合』を借りることができたのでしょうか。これには実に簡単な答えがあります。吉村の叔父が正通だったという事実です。吉村の母が正通の姉という関係です。吉村は、叔父からかの本の話を聞きつけて、貸してくれと頼んだのでしょう。吉村は、伊達文庫の中核を構築した文人大名でした。

また、島原の松平文庫と祐徳稲荷文庫にも同じ本があります(厳密に言えば、祐徳稲荷本は松平文庫本の写しですが)。松平文庫を構築したのは松平忠房(まつだいらただふさ)であり、島原の乱の後、福知山から移ってきました。忠房も吉村に負けない文人大名ですが、江戸にいるときは、儒者である林鵞峰(羅山の息)のサロンに出入りしていたのです。そこの常連が稲葉正通(いなばまさみち)だったのです。正通はその後老中になった幕府の重臣ですが、おそらく好学仲間として正通と忠房は親しくなったのでしょう。二人の名前は、鵞峰の『国史館日録』に出てきます。

それならば、祐徳稲荷本はどうなのか。これは祐徳稲荷がある鹿島鍋島藩の鍋島直条(なべしまなおえだ)と忠房の関係を見れば、容易に答えが出てきます。忠房の甥が直条であるという事実だけ言っておきましょう。正通・吉村と同じ関係です。祐徳稲荷文庫については何でもご存じの井上敏幸先生によれば、二人で本の見せ合い、貸し合いをしていたようです。いい時代だな、とは思いませんか。

以上、明星本を見るだけでも、江戸初期の大名間における書物の移動の様相がお分かりになったかと思います。書物とは読むだけのものではない、それを持ち、共有することで人間同士の交流の証であり、もっていることだけでその人間のグレイドを上げることができる魔法の小箱のようなものでした。

今回は、明星本の中身に一切入ることができませんでしたし、他の本についても言及できませんでしたが、この本を探るだけでも、中世から近世にかけての文化のありようが分かってきませんか。こうした重層的な文化的の伝授・享受・伝播、これが日本文化の厚みでもあるのです。

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