ことばと文化のミニ講座

【Vol.74】 2013.9   古田島 洋介

日本語に残る漢文の影 --漢文式表記をどう読むか?--

日本語は、今なお大量の漢語を用いている以上、意識すると否とにかかわらず、どうしても漢文臭さを免れがたい。「山登り」と書いて、さてはハイキング程度かと見くびられるおそれがあれば、「登山」と書き直すこともあるだろう。「人殺し」と記して、何やら露骨すぎると感じれば、「殺人」に改めることもあり得るに違いない。語感についてはさておくにせよ、この書き改めの作業それ自体は、れっきとした日本語から漢文への語順変換だ。

「山」に「登る」のだから「山登り」、「人」を「殺す」のだから「人殺し」。いずれも〈目的語+動詞〉すなわち紛う方なき日本語の語順である。結果として、「山登り」や「人殺し」が名詞に聞こえるのも、「登り」「殺し」など、動詞の連用形がそのまま名詞になるという日本語の性質そのものだ。日本語は、「頭打ち」だの「下調べ」だの、はたまた「立ち見」だの「島流し」だのと、動詞の連用形を使った名詞に事欠かない。

一方、「登山」や「殺人」は、動詞「登」「殺」の後ろに目的語「山」「人」を置く〈動詞+目的語〉の構成だ。誰が見ても日本語の語順に非ず、漢文つまり古典中国語の語順である。好みとあらば、我らが伝家の宝刀たる返り点と送り仮名を用いて、「登」(=山に登る)・「殺」(=人を殺す)とも読めるわけだ。もし「それでは名詞に聞こえない」との不平が出たら、送り仮名に小細工をほどこし、「登ルコト」(=山に登ること)・「殺スコト」(=人を殺すこと)と訓じておけばよい。漢文では〈動詞+目的語〉がそのまま名詞としても機能し得る。いわば〈climb a mountain〉〈kill a man〉が、自ずから〈to climb a mountain〉〈to kill a man〉に変身し、不定詞の名詞用法として働くようなものだ。

こうした個々の単語の次元であれば、ことさら漢文の何のと言挙げする必要はないかもしれない。何と言っても、日本人は漢語に慣れているからだ。馴染み深い「登山」や「殺人」を外来語だと考える向きはあるまい。いわんや外国語として意識することは皆無に近いだろう。我々にとっては、日本語の語順に則った「親知らず」も、漢文式の語順で記した「親不知」も、等しく「おやしらず」なのである。

けれども、さらに一歩を進めて、多少とも漢文と呼ぶにふさわしい字句になったとたん、いささか雲行きが怪しくなるのが現今の言語情勢ではなかろうか。日本語が陰にも陽にも漢文の残影を引きずっているにもかかわらず、お粗末きわまる漢文教育の結果、漢文に対する認識も知識も薄れてゆく一方なのが現状だからだ。むろん、ここで本格的な漢文の話を言い立てようとするわけではない。至って卑近ながら、なかなか侮りがたい漢文式表記について、若干の注意を促そうとするだけの話である。

ある程度の年齢になると、宴会の案内状なぞを受け取るようになる。「拝啓 皆様におかれては時下益々御清祥のこととお慶び申し上げます」などと形式張った挨拶で始め、「御多用中を誠に恐縮ではございますが、何とぞ御参会のほどお願い申し上げます」とでも結んで、日時・会場などを箇条書きしておくのが、宴会の案内状の通例だ。

ところが、時として、会場の案内が「於ホテル〇〇〇三階〈鳳凰の間〉」のごとく記されている場合がある。ホテル名「〇〇〇」は気にしないでいただきたい。「三階」は縁起の悪い四(=死)階を避けたのかという話柄も、ここでは無関係だ。室名「鳳凰の間」にも、こだわらないでほしい。問題は、冒頭の「於」をどう読むのかという一点にある。細かく言えば、ふつうは「於」をどう読んでいるのか、、そして、本来は「於」をどのように読むべきなのか、という二点こそが関心事だ。

小耳に挟むかぎり、大半の向きが、記された語順のままに「於(おいて)ホテル〇〇〇……」と読んでいるようだ。言うまでもなく、「おいて+名詞」では、日本語として体を成さない。しかし、一見して「於」が場所を示す字であると理解できる以上、意味さえわかればよいとなれば、日本語としての体裁なぞ気にかけず、とにかく便宜上「於」を「おいて」と読んでおくわけだ。これはこれで一つの便法だろう。万が一「〈おいてホテル〇〇〇……〉では、日本語になっていないではないか」と難じられたら、「〈於〉を〈おいて〉と読みつつ、実は頭のなかで英語の前置詞〈at〉や〈in〉に読み換えているのだ」と答えておけばよい。たぶん嫌われるだろうが、小理屈とはいえ、理屈は理屈である。

もっとも、日本語として体を成さないからには、「於(おいて)ホテル〇〇〇……」が正しい読み方でないことは明らかだろう。こうした字句の読み方について正誤を言挙げするのも気が退けるが、おそらく絶対にケチのつかない読み方は、これを漢文の感覚で受け取り、脳裡で返り点と送り仮名を付けた「於テ二ホテル〇〇〇三階〈鳳凰の間〉ニ一」すなわち「ホテル〇〇〇三階〈鳳凰の間〉に於(おい)て」だろう。これでもなお日本語として据わりが悪いと感じる向きは、さらに「於」の読み「おいて」をサ変動詞化して「於テス」とし、「……〈鳳凰の間〉に於(おい)てす」と読んでおけばよい。

同様のことが、道順を示した案内図において、鉄道を示す記号の両端などに見られる「至東京」のような表記にも当てはまる。これも「至る東京」と読んでいる人が大多数なのではないか。この「至」は、終着駅を表すというよりも、むしろ「方面」の意であるから、やはり「いたる」と読みつつ英語の前置詞〈for〉を思い浮かべているとの理屈も成り立つ。ただし、これについても、本来は頭のなかで「至ル二東京ニ一」と返り点・送り仮名を付け、「東京に至る」と読んでおくのが無難なはずだ。

実際には、「於」を省略しても十分に意味が伝わり、「至」の代わりに矢印を付けて「→東京(方面)」と記しても何か違いが生じるわけではない。二字の意味の軽さから見れば、読み方なぞどうでもよいとも踏み倒せるだろう。たとえ語順のままに「於て……」または「至る……」と読む癖があったとしても、それを書き下し文もどきに「於てホテル〇〇〇」だの「至る東京」だのと記す向きはあるまい。「於」や「至」を名詞に冠する漢文式表記は見慣れているからだ。

ところが、「於」あるいは「至」よりも、もう少し実質的な意味を伴う字の場合には、漢文式に記された字句の読み方を粗略にしていると、便法にすぎないはずの読み方が、そのまま書き下し文に身をやつし、珍妙な日本語となって出現することもある。その典型が「含」を用いた表記ではなかろうか。

巷間の書類では、たとえば大学を例にすると、「学生合計〇〇名(含留学生)」のような書き方がたびたび登場する。果たして、末尾の「含留学生」は、どのように読まれているだろうか。漢文式表記であると意識して真っ当に読めば、「含留学生」すなわち「留学生を含む」となるはずなのだが。

詳しく調べたわけではなく、また、ことさら調べる気にもならないというのが正直な気持ちだが、私の聞くところ、どうやら「含む留学生」あるいは「留学生含む」と読んでいる向きが大半を占めるのではないか。その証拠に、書類によっては、「む」を補って「学生合計〇〇名(含む留学生)」と書いてある場合も見かけるうえ、時として「含」を後方に付けて「学生合計〇〇名(留学生含む)」と記されていることもあるからだ。いずれも、意味さえわかれば十分、便法としての略式表記と言えばそれまでだが、まともな日本語かと問われれば、決して問題ナシとは言い通せまい。

「留学生含む」は、まだしもである。日本語で助詞「を」を省略することは珍しくなく、和歌の方面でも「読み人知らず」は『万葉集』の常套表現、それこそ「含む」を含んだ言い回しならば「波乱含み」とも言うからだ。それぞれ「読み人を知らず」「波乱を含む」意であることは疑う余地がない。もちろん、「読み人知らず」も「波乱含み」も、名詞だからこそ助詞「を」が省けるとの考えも成り立とうが、たとえばスポーツ新聞の見出しに「難敵倒す」と記されているからといって、助詞「を」が見えないことに腹を立てる向きはないだろう。「留学生含む」は、日本語としては許容範囲に入る字句だ。「含留学生」の訓読表現だとすれば、助詞「を」の脱落は明らかな誤りだが。

それに比べると、「含む留学生」のほうは、どう見ても日本語の体裁を成していまい。動詞「含む」の後ろに目的語「留学生」を置くとは言語道断、とうてい日本語の語順とは言いがたい。「含む」と記しつつ英語〈including〉を思い浮かべていると言っても、苦しい言い訳にしか響かないだろう。それならば、「留学生含む」の「含む」は〈included〉なのかという話にもなってしまう。また、「含む留学生」と書いて、実は漢文式表記「含留学生」をやわらげているのだとすれば、それこそ大きなお世話である。漢文式表記のつもりならば、のっけから「含留学生」とだけ記してくれれば十分、「含」についてだけ送り仮名を補うのは、まったく余計な措置にすぎない。おそらく、「含む留学生」は、日ごろ「於ホテル〇〇〇……」や「至東京」を語順のままに「於てホテル〇〇〇」だの「至る東京」だのと読んでいる便法を、そっくり「含留学生」にも当てはめ、さらに書き下し文もどきの日本語として記した結果に違いない。

要するに、「留学生含む」は、「含留学生」の訓読だとすれば助詞「を」が抜け落ちているものの、日本語としては許容範囲に収まる。それに対して、「含む留学生」は、「含留学生」の訓読としてはもちろんのこと、日本語としても誤りだ、ということになる。

想えば、かつて私立大学がこぞって入試問題の国語から漢文を排斥し始めたころ、某大学の入試要項に「国語(除漢文)」と記されているのを見たことがある。「漢文なぞ必要ありませんよ」との趣旨が漢文式表記で「除漢文」と書かれているのだから、ほとんど悪い冗談だ。いや、もしかすると真面目な冗談であったのかもしれない。「除漢文」を「除漢文」すなわち「漢文を除く」と読める受験生ならば、すでに学力は合格水準、改めて漢文の試験を課すまでもないとの意図だったのか。やはり大半の受験生は「除く漢文」と読んでいたのだろうが。

御関心のある向きは、周囲のさまざまな文書やら書類やらに漢文式表記の字句がないか、常に注意してみてはいかがだろうか。それを周囲の人々がどう読んでいるかに聞き耳を立てるのは、なかなかの一興だ。いささか悪趣味とはいえ、日本語における漢文の残影を偲ぶよすがとなるに違いない。

ちなみに、将来、もし日本人が日本語と英語の二重言語話者(バイリンガル)になったとすれば、この一文に記した英語への読み換えも、あながち笑い話ではなくなるかもしれない。「於ホテル〇〇〇……」の「於」を〈at〉や〈in〉に、「至東京」の「至」を〈for〉に、「含留学生」の「含」を〈including〉に、そして「除漢文」の「除」を〈except〉に読み換えて受け取れるようになれば、日本人のバイリンガルぶりも半歩は堂に入ったものと言えるだろう。もっとも、それが実現したあかつきには、誰も「含留学生」とは書かず、端(はな)から「incl. 留学生」とでも記すようになるのだろうが。

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