ことばと文化のミニ講座

【Vol.72】 2013.5   服部 裕

小説『レ・ミゼラブル』 ~偉大なる近代人の物語~

ミュージカルと原作

去る5月19日、1年生全員と一緒にミュージカル『レ・ミゼラブル』(帝国劇場)を鑑賞してきました。1980年のフランス語版初演(パリ)以降、ブロードウェイでは87年からは何と16年間に亘ってロングランを続けたヒット作とあって、今般の再演もきわめて感動的な舞台に仕上がっていました。

折しも昨年はヴィクトル・ユーゴーが原作の小説『レ・ミゼラブル』を発表してちょうど150年、それもあってか映画版ミュージカル『レ・ミゼラブル』も公開されました。ジャン・ヴァルジャンの波瀾万丈かつ高潔な魂の物語は、150年を経た現在でも世界中の人々に感動を与え続けている証左です。

さてミュージカルは音楽(詞とメロディとハーモニー)の力によって、人間の魂のドラマを感動的に歌い上げてくれますが、原作の小説は(当然のことながら)ことばの力を以て登場人物の内面奥深くまで分け入り、魂の叫びを言語化してくれます。ミュージカルが歌の陰影の中に人間の苦悩や喜びを直観的に表現する一方、小説はときに明晰な、ときに修辞的な叙述によって、まるでルーペで覗き込むように魂の深奥に光をあてるのです。畢竟、原作の方がミュージカルや映画よりも、より複雑で分析的な省察を可能としますが、それはミュージカル版が原作よりも劣るということを意味するものではありません。両者は、その表現方法において、異なる二つの作品と評価すべきなのではないでしょうか。ミュージカルから受ける直接的な感動と、小説が読者の心中に静かに残す重厚な感動とは自ずと別種のもので、比較対照すべき性質のものではないのだと思います。

なぜ原作は長いのか?

以下本稿では、ミュージカルは観たが、まだ原作は読んでいないという人たちに是非とも原作を読んでいただきたく思い、小説『レ・ミゼラブル』が持つ歴史的価値について愚見を紹介させていただきたいと思います。

まず触れなければならないのは、なぜ本小説はあれほどまでに長いのかということです。いろいろな翻訳があると思いますが、岩波文庫版は全四冊、ページ数にして約2400ページという大長編小説です。(このとてつもなく長い原作のすべてを、3時間弱の舞台の脚本に凝縮するのは不可能というものです。)原作は大きく分けて二つの異なる叙述内容によって構成されています。一つは言わずと知れた、ジャン・ヴァルジャンの波瀾万丈な魂の物語であり、小説のストーリーを構成するものです。もう一つはジャン・ヴァルジャンが生きた王政復古(1815年)から1832年6月のパリ暴動に至るまでの時代そのものを、その前史としてのフランス革命及びナポレオン戦争等が持つ歴史的意義と理想に焦点をあてることによって叙述するという、言わば歴史哲学的な書であるということです。(この後者の要素をミュージカルに盛り込むことは、ほぼ不可能でしょう。)歴史哲学的な叙述には、ユーゴー自身の思想が直接的に投影されている訳ですが、同時に、例えば100ページにも及ぶワーテルローの戦いのような歴史的事実の描写は、悪漢テナルディエとマリユスの亡父ポンメルシー大佐の因縁を掘り起こす形で、間接的に物語の因果関係と結びつけられています。

このように、歴史哲学的叙述はさまざまな登場人物(例えばマリユスの祖父である王党派のジルノルマン氏や清貧な植物学者のマブーフ氏など)との関係で物語に結びつけられつつ、壮大な思想の書になっているのです。小説全体の半分近くは、この思想の開陳に費やされていると言っても言いすぎではありません。否、王政復古期の社会の惨状とそこに生きる「悲惨な人々(Les Miserables)」に光をあてて、1860年代にもなお続く古き時代を打破することで新しい民主的な時代を築くことこそ、本作品の主題だったと言えます。以下のとおり、ユーゴー自身による小説の序は、それを明快に言い切っています。

「(前略)下層階級による男の失墜、飢餓による女の堕落、暗黒による子供の萎縮、それら時代の三つの問題が解決せられない間は、(中略)そしてなおいっそう広い見地よりすれば、地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないであろう。」(岩波文庫版)

2月革命(1848年)による共和制を倒して独裁体制を敷いたナポレオン三世を非難したため、ユーゴーは亡命を余儀なくされます。そして、亡命生活の中で書き上げられたのが『レ・ミゼラブル』だったのです。1832年の6月暴動で共和制のために若い命を落とす若者たちの姿は、共和制を希求するユーゴー自身の化身と考えてもよいでしょう。ジャン・ヴァルジャンのおかげで九死に一生を得たマリユスは、まさにユーゴー自身の分身です。生き延びたマリユスがコゼットと共に、その後どのような人生を歩むのかについては一言も触れられていませんが、ユーゴーの両親の立場(父はナポレオン派、母は王党派)がマリユスの両親のそれと符合することなどを考えると、そう解釈して差しつかえないと思います。

いずれにせよ、政治家でもあったユーゴーが政治社会的意図を以て本作を執筆したことは間違いありません。そのためには、人間の深遠なる魂を描写するドラマチックな物語の一方で、時代を変えるための思想を克明に主張することが不可欠だった訳です。ここに、この小説がかくも長編になった最大の理由があると思われます。

近代人に課せられた課題

◇法の遵守

政治社会的な主張だけが主眼であるなら、ユーゴーはジャン・ヴァルジャンが辿った波瀾万丈な人生の物語を書く必要はなかったのかもしれません。物語の代わりに、思想や哲学だけを開陳することもできたはずです。もちろん生きた人間の姿の中に思想を描くことによって、それが抽象的な理論を超えて、血肉を備えた生きた思想になることを考えれば、ユーゴーが小説という文学的手法を採用したことは当然だったでしょう。しかし、もう一歩進んで考えると、作者は自らが理想とし、招来すべき新たな時代の担い手としての近代人にとって模範となるような生きた人間の姿を描きたかったからこそ、小説という手法を選択したのだということに気づきます。

ユーゴーがジャン・ヴァルジャンの魂を借りて描出しようとしたものは、自らの欲望のままに生きることで、他者ばかりでなく己自身をも害し堕落させてしまう封建的人間を否定し、自己の欲望を理性によって抑制することによって、己のみならず他者のためにも生きることを可能とするような自由な人間の姿だったのではないでしょうか。

パン一つを盗んだことで19年に及ぶ徒刑場生活を強いられたジャン・ヴァルジャンは、当初はひたすら不条理な社会を呪詛し、動物的な欲望のままにその日暮らしをする無知な人間でした。それはテナルディエとまったく同様に、自由及びその見返りとして要請される倫理観をまったく欠落させてしまっている、言わば奴隷的な心しか持ち合わせていない非主体的な人間です。それは、封建体制期の人間の典型であり、そうした人間は貧困による無知が生み出してきたと、ユーゴーは繰り返し述べています。

そんなジャン・ヴァルジャンは、天使のようなミリエル神父の慈悲と赦しに接して、まるで雷に打たれたかのように一挙に覚醒するのです。つまり、善き人間として生きようという悟りです。哲学的な用語を使えば、一瞬にして啓蒙されたということになります。まさに時代は啓蒙が現実のものとなろうとしていた時期だったのです。その最初の政治的表れはフランス革命でした。そして、革命以前の啓蒙主義者たちがことさらに無神論を標榜したにも拘らず、現実の人間の啓蒙はむしろキリスト教的な啓示のように魂を覚醒させたものと考えられます。(フランス革命の徒花かも知れませんが、ロベスピエールが「最高存在の祭典」という宗教行事を採用したのは、偶然ではなかったのだと思います。)

いずれにしてもジャン・ヴァルジャンは人間へ、否「近代人へ」と覚醒しました。ここで強調したいのが、「近代人へ」ということです。「近代人」とは、すでに上で述べたように、中世や絶対主義時代の人間とは異なる価値観を備えた人間です。中世的人間は善かれ悪しかれ他者に依存あるいは従属し(「奴隷的な心」)、そのため自らの行為に対して責任を取る必要などないと思い込んでいました。それは、権力者でも被支配民でも同じです。それに反して、「近代人」は自らの行為は自由な意志の発露であり、その結果に対しては自ら責任を負うという考え方を価値観の根本に置きました。フランス革命はそれまで抑圧されていた市民に自由と平等を与えましたが、同時に、自らの自由と幸福と同じように他者の自由と幸福も保障する責任を個々人に課したのです。人権宣言や憲法が自由なる個人の権利を保障すると同時に、憲法の下に制定される諸法律は人間が個人として遵守すべき責任を明文化した訳です。ですから法令遵守は極めて近代的な人間観であり価値観なのです。そして、その法の前に人はみな個人として平等となったのです。テナルディエは法令遵守とも人間の倫理観とも無縁な(近代以前の)封建体制期の無知な人間の典型として、啓蒙されたジャン・ヴァルジャンに対して対峙し、やがて駆逐されるべき存在なのです。

◇近代人に課せられた倫理観

覚醒したジャン・ヴァルジャンは善き人間として生きるために、官憲から逃れ偽名を使います。自らの覚醒をまだ自覚しきれなかった最後の瞬間に、彼は無意識のうちに放浪の少年ジェルヴェから5スーというはした金を奪ってしまい、警部ジャヴェールから執拗に追跡されることになってしまったからです。もう一度捕まれば、再犯として無期懲役の刑に処せられる。それが当時の法律でした。善き人間として生きることの証しとして、裕福になったジャン・ヴァルジャンは哀れなファンティーヌ(原語に近い響きならむしろ「フォンティーヌ」)の遺児コゼットを吾が娘として育てることを決意します。ところが、その矢先に別人がジャン・ヴァルジャンとして捕縛され、明日にでも徒刑場送りになることを知ります。別人が自分の代わりに裁かれれば、自分への追跡は終わり、コゼットを育てることができます。しかしそれでは、罪なき者に自らの罪を負わせてしまい、また新たな罪を背負い込むことになります。ジャン・ヴァルジャンは一晩中一睡もすることなく悩み抜いた末、法廷に赴き、自分が正真正銘のジャン・ヴァルジャンであると申し出るのです。

ここから本格的に、ジャン・ヴァルジャンの魂の物語が始まります。ジャン・ヴァルジャンはただ官憲の追及を逃れ、自分ひとりの安寧を求めた訳ではありません。真の意味で善良に生きることを目指したのです。それは自分以外の他者、つまりコゼットのために生きることでしたが、その前に他人の冤罪という大きな壁が立ち塞がったのです。まさにディレンマ!しかも、自分の身代わりとなっているのは、このうえなく無知な悪漢です。ここで初めて、ジャン・ヴァルジャンは近代人に与えられた試練に突きあたるのです。そう、近代人は法の遵守のみならず、個人としての倫理観(モラル/道義)も持たなければならないという試練です。コゼットを幸せにするという目的が如何に高邁なものであろうと、自分の身代わりの冤罪に目をつぶることは、法的以上に倫理的な意味で決して許されることではないということをジャン・ヴァルジャンは理解したのです。

ミュージカルでは描く暇がありませんが、実際にジャン・ヴァルジャンは捕縛され、無期徒刑囚としてツーロン港で修理中の軍艦の中で使役させられます。彼はその船の中で偶然起きた事故から水夫を救出した後、海中に飛び込んでまた官憲の前から姿を消すのです。偶然あるいは神が、ジャン・ヴァルジャンに善き人間として生きるチャンスを再び与えたと考えて良いでしょう。捕縛される前に森の中に隠しておいた巨額の金の一部を持って、ジャン・ヴァルジャンは惨めな生活を送っているコゼットを引き取るために、テナルディエ一家のもとへ行きます。そこから、ジャン・ヴァルジャンの追跡には、ジャヴェール警部の他にテナルディエも加わることになる訳です。もちろん、両者の目的はまったく異なります。ジャヴェールは法と正義を果たすため、テナルディエは金をせしめるためです。

コゼットを伴いパリに潜んだジャン・ヴァルジャンは、その後いくつもの危機に遭遇しますが、ことごとくそれらを切り抜けます。(ジャン・ヴァルジャンは、ある意味「スーパーマン」なのです!)すべては、コゼットへの責任感からのことです。そしていよいよ1832年の6月を迎えることになります。

パリの修道院で学び、美しい女性に成長したコゼットはマリユスと恋に落ちます。そして、そのマリユスが6月暴動に加担することで、ジャン・ヴァルジャンもバリケードの中で共に戦うことになるのです。しかしジャン・ヴァルジャンの目的は反乱ではなく、最愛のコゼットが愛するマリユスを救出することにあり、実際に傷ついたマリユスを担いパリの地下下水道へと逃げ延びるのです。

マリユスを救出することにも、自らを犠牲にして他者の幸福を追求する高潔な倫理観が表現されているのですが、それ以上にジャン・ヴァルジャンを善き生へと突き動かす倫理観が表現されているのは、バリケードの中で反乱学生たちに捕縛されたジャヴェールを密かに解放するところです。この警部ジャヴェールさえいなくなれば、自分の自由を脅かす者はいなくなると知っているにも拘らず、ジャン・ヴァルジャンは学生たちに殺されることになっていた警部を助けたのです。しかも、その後下水道から表に出たジャン・ヴァルジャンを待っていたのは、そのジャヴェールでした。ジャン・ヴァルジャンはそれを予想していたはずですが、ジャヴェールを助けたのです。

再びジャヴェールに捕縛されたジャン・ヴァルジャンには、もはや逃亡する意志はありませんでした。ただ、瀕死のマリユスをその祖父の家に運ぶ許可だけを警部に求めます。その後で、ジャン・ヴァルジャンは逮捕されるつもりだったのです。

ここで、近代人の倫理(モラル/道義)の主題はクライマックスを迎えます。ジャヴェールが追跡していたのは、法を守らない犯罪者だったはずです。ところが、その犯罪者は法をないがしろにしないばかりか、彼自身を追及する言わば自分の敵まで救出したのです。法の遵守だけが正義だと思い込んでいたジャヴェールは、法の枠を越えた人間の倫理の問題に、どうしても解を得ることができませんでした。答を得られないジャヴェールは茫然自失となり、これまで自分が信じてきた価値観を木っ端微塵に打ち砕かれます。しかし、彼はジャン・ヴァルジャンが獲得した善良な人間として生きるという近代人に課せられた倫理観を、自らのものにすることができませんでした。とは言え、これまで自分が無条件に依拠していた法的正義の規範が不完全なものであったということには気づかざるを得なかったのです。ジャヴェールの法令遵守の信念も、また近代人の理念でした。しかし、法令遵守だけでは近代人として不完全なのです。自由と平等という権利を勝ち取った近代人には、法令遵守と共に、法がカバーしきれない社会と個々の人間の領域において、倫理(モラル/道義)という大きな課題が課せられていたのです。残念ながらジャヴェールは、近代精神の片方、つまり法という制度的側面にしか到達できなかった不完全な近代人でした。しかし彼は、倫理の問題を前にした混乱の中で無意識のうちに、少なくとも自らの思い込みを疑うという、まさに近代人がもつべきもう一つの資質(懐疑)へと向かうのです。それは、中途半端ではあっても近代人だからこそできることです。だからこそ、その結末としての自死には、無念さと同時に大きな感動が伴うのです。ジャヴェールはその不完全性ゆえに、もっとも陰影の濃い、もっとも魅力的な人間の一人として立ち現われるのです。(今般の帝国劇場の演出は、このジャヴェールの魂の陰影を、彼の自死の場面で見事に表現しきっていました。感動!)

◇神格化された人間としての近代人

ジャン・ヴァルジャンの魂の物語は、まさにこの法と倫理を実現する完全なる近代人へ至る物語です。(ミリエル神父を叙述する本作品の最初の章のタイトルが「正しき人」であることを見れば、このユーゴーの意図は容易に理解できます。)天使がごときミリエル神父に与えられたチャンスを見事に生かし、イエスと見紛うがごとき自己犠牲を貫き通したジャン・ヴァルジャンの姿(マリユスを背負い地下下水道を進む章が「彼もまた十字架を背負う」と題されていることを見ると、作者自身がジャン・ヴァルジャンをイエスの姿に重ねていることがよく分かります)は、まさに人間が祈りだけでなく、自らの倫理的な生を通して神の領域に近づこうとした、近代精神の理想を体現していると言ったら言いすぎでしょうか。ひょっとしたら、近代の黎明期の人間の思い上がりかもしれませんが、近代人には自らをより崇高なものにしたいという欲求があったと考えられます。その表れが、人権意識であり、個人の尊厳を至高のものとする価値観でした。換言すれば、近代人は人間という存在を神格化しようとしたのだと思います。神により近い存在であるためには、より善良に生きなければなりません。ヴィクトル・ユーゴーはジャン・ヴァルジャンの魂の中に、近代人が目指すべき目標を示しました。そして、近代人の魂の成就を可能にするのが民主的な社会であることを、時代と社会を変革しようとした若者たちの抵抗の姿の中に訴えたのです。ユーゴーは一貫して、近代人としての民衆の幸福は文明の進歩によってこそ実現できると訴えています。それはユーゴーが、貧困こそが無知の元凶であり、無知によって人間は堕落すると考えたからです。その貧困を克服するのが近代的文明の進歩であり、その進歩を正しい道に導くものこそキリスト教的な愛に支えられた近代人の倫理(モラル/道義)である、と小説『レ・ミゼラブル』は私たちに語りかけてくるのです。

以上、小説『レ・ミゼラブル』の歴史的価値について考えてみました。ユーゴーの時代から150年を経た今でも、ジャン・ヴァルジャンやマリユスが求めたものは私たちが目指すべき目標であり、真理なのではないでしょうか。世界にはまだ至る所に、貧困と貧困故の無知と戦いがあります。ヴィクトル・ユーゴーが目指した理想は、まだほんのわずかしか実現されていないのです。みなさん、是非とも小説『レ・ミゼラブル』を読んでみてください。

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