ことばと文化のミニ講座

【Vol.66】 2012.10   前田 雅之

藤原俊成の古典意識

藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい、「としなり」とも)という歌人がいます(一一一四—一二〇四)。俊成の息子はかの藤原定家(ふじわらのていか、「さだいえ」とも)であり、鎌倉時代から南北朝を通じて勅撰集を編纂してきた二条家・京極家という和歌の家の祖に当たる人物です。

俊成の功績として、まず挙げるべきは『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』の撰者であり、次に、中世を代表する歌論書である『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』の執筆、そして、『六百番歌合(ろっぴゃくばんうたあわせ)』の判者(はんじゃ、左右どちらの歌が優れているか判定する役)といった歌壇での活躍(四十の歌合判詞を執筆)となるでしょうか。とにかく、当代一の歌人として圧倒的な尊敬と権威をもっていた人物でした。『詞花集(しかしゅう)』以来、勅撰集に入集(にっしゅう)した和歌は、ぜんぶで四一八首ですから、中世を通じて息子の定家と並んで最も重んじられた歌人です。本人の家集として出家直後の六五歳ごろにまとめた『長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)』(四七九首)があります。当時にしては例外的な長命である九一歳でなくなりましたので、実際に詠んだ歌の数はかなりのものに昇ったはずです。

俊成は『源氏物語』について、きわめて印象的な言葉を残しています。それは『六百番歌合』にある以下の言葉です。

十三番 枯野 左勝 女房(後鳥羽院)

見しあきをなににのこさむくさのはらひとへにかはる野辺の気色に

右 隆信

しもがれの野べのあはれを見ぬ人や秋の色にはこころとめけむ

右方申云、くさのはらききよからず、左方申云、右歌ふるめかし。

判云、左、なににのこさんくさのはらといへる、えんにこそ侍るめれ。右方人草の原難申之条、尤うたたある事にや、紫式部歌よみの程よりも物かく筆は殊勝なり。そのうへ花宴の巻はことにえんなる物なり、源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり。右、心詞   あしくは見えざるにや、但、常の体なるべし。左歌宜し。勝と申すべし。

「判云」以下が俊成の言葉(判詞)です。この二つの歌は、「枯野」という題で詠まれています。どちらがよいかを判定するのが判者たる俊成の仕事です。結論は、女房(歌合では院・天皇は身分を隠して「女房」と記されます)とされる後鳥羽院の「見しあきを」歌の勝ちとなりました。通常、院・天皇は歌合では勝つことになっているので、この結果にはそれほどの驚きはありませんが、問題は勝った理由です。俊成は判詞で後鳥羽院歌の「くさのはら」にひどく反応しています。

まず、「左の歌(後鳥羽院歌)は、「なににのこさむくさのはら」と言っている、これは艶(優美)でございます」と讃めています。そして、判詞の前に「くさのはらききよからず」(「草の原」は聞きにくい、あまり聞いたことがない)とした「右方」の難陳(双方の方人がそれぞれ相手の歌を批判したりひょうかしたりすること)に対して、「「右方」の人が「草の原」を非難するのは間違っている。紫式部は歌人以上に物語を書く能力が優れている。加えて、『源氏物語』「花宴」の巻はとくに優美なものである。ああ、『源氏物語』を読まない歌人は遺恨(遺憾・残念、もっと言えば駄目だくらいの意味)のことだ」と嘆くのです。

皆さん方は、どうしてここで唐突に『源氏物語』が出てきたのか、不思議に思ったでしょう。種明かしをしますと、『源氏物語』「花宴」巻にこのような歌があるのです。

(朧月夜)

うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ

この歌がでてくる直前には、光源氏が朧月夜内侍(おぼろづきよのないし)に「なほ名のりしたまへ。いかで聞こゆべき。かうてやみなむとは、さりとも思されじ」(やはり名乗りなさい、お名乗りにならないなら、どうしてご様子を伺うことができますか。といっても、このまま終わってしまうとは、あなたもお考えではないでしょうが)と言う場面があります。簡単に言えば、源氏は朧月夜内侍を口説いているのです。それを受けての朧月夜内侍の歌であることをまずはご承知おきください。

女は、源氏の誘惑に対して、このように、歌で応えます。つらい身のままで世の中からふいと消えてしまったら、あなたは、私が名乗らなくても、私が葬られている草の原までお訪ねになることはないでしょうね、と。

この歌の直後、地の文では「と言ふさま、艶になまめきたり」(と言う様子が、優美でやさしい感じである)」とあります。

女の歌は、恋のはじまりの段階によく出てくる歌です。男に対して、あなたって、あたしのことを本気で好きなわけではないでしょう、と相手の本心を捜る意図がこの歌にはあります。それにしては、女の歌の内容は、死ぬなどと表現的にややオーバーなのですが、『源氏物語』の地の文では、「艶」であると讃められています。当意即妙な受け答えがよしとされたのかもしれません。

ここで、俊成の判詞に戻ります。ここには、たしかに「艶に」という言葉がありました。俊成は、後鳥羽院の歌を「えん」と讃め、『源氏物語』「花宴」は「ことにえん」であると言っています。それはこの場面を指すと見てよいでしょう。つまり、俊成は、後鳥羽院の歌から『源氏物語』「花宴」のこの箇所を思い起こして、おそらく後鳥羽院も同様にこの場面から「見しあきを」歌を詠んだに違いない、と考えたのです。それから一歩進んで、「『源氏物語』を読まない歌人は駄目だ」というように、基本的教養としての『源氏物語』が知らない歌人を批判する言葉が出てくるのです。

以来、俊成のこの言葉は一人歩きをして、歌人であるなら、『源氏物語』の素養が不可欠であると思われるに至りました。だが、歌を詠んだ当人である後鳥羽院は、本当に『源氏物語』から「見しあきを」歌を詠んだのでしょうか。まずは、この歌を解釈することから始めてみましょう。

見しあきをなににのこさむくさのはらひとへにかはる野辺の気色に

歌の内容は、見た秋をいったい何に残したらよいのだろう。花が咲いていた草の原もまるっきり変わってしまった野辺の景色のなかで、というものです。花が咲き誇っていた草の原も「枯野」の題通りに、今ではすっかり枯れ果てている。だから、かつて見た秋の美しい風景はどこにも残っていないと言うのです。

さて、この歌と『源氏物語』「花宴」の「うき身世に」の歌とでは、「草の原」が共通しますが、強いて言えば、「ひとへにかはる」と「やがて消えなば」と意味的に近いことは言えるかもしれません。とはいえ、和歌の天才である後鳥羽院であっても、『源氏物語』の「うき身世に」歌から、「見しあきを」歌を思いつくことはかなり大変なことでしょうし、仮にできたとしても、想像を絶する飛躍を要したことだと想像されます。

としますと、後鳥羽院が何に拠ってこの歌を詠んだのでしょうか。困りましたが、こんな時、『源氏物語』の影響下で生まれた『狭衣物語』巻二冒頭にある歌に目を向けてみますと、別の視界が開けてきます。

尋ぬべき草の原さへ霜枯れて誰に問はまし道芝の露

「尋ぬべき」歌は「草の原」「問はまし」とありますから、『源氏物語』「うき身世に」歌から想起されて詠まれたものでしょう。しかし、大きな違いもあります。それは「霜枯れて」という言葉が『狭衣物語』の歌にはあることです。そして、この「霜枯れて」が後鳥羽院歌と深くつながっていくことにお気づきになりましたか。

私は、後鳥羽院は、『源氏物語』よりも、『狭衣物語』の「尋ぬべき」歌を見て、「見しあきを」歌を詠んだと思います。その理由は、やはり「霜枯れて」という言葉です。これが歌の題である「枯野」とそのままつながっていくからです。

とすれば、俊成はどうして『源氏物語』をこの歌の本歌と言ったのか、という新たな問題が出てきます。俊成が『狭衣物語』の歌に気がつかなかったというのが一等わかりやすい答えですが、これではおもしろくありません。私は、「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」と高らかに言い切っている俊成の態度から、俊成の別の狙いを考えてみたくなっています。

それは、『源氏物語』という古典を重視せよという俊成の強い主張です。『源氏物語』が古典、言い換えれば、皆が知っておかなくてはいけない権威のある書物となったのは、実はそう古いことではないのです。安元元年(一一七五)に三八歳で亡くなった世尊寺伊行が『源氏釈』という注釈書を残していますが、これが『源氏物語』の最初の注釈書です。古典とは注釈のある本のことと、以前、この場(ミニ講座)でも書いたことがありますが、『源氏物語』の成立がだいたい寛弘五年(一〇〇八)前後とされていますから、最初の注釈が出るまで最低約一六〇年くらい経っています。つまり、その間は読まれることには読まれたが、注釈書が作られるほどは重視される本でも、権威のある本でもなかったということを示していると言ってよいでしょう。

ましてや、『源氏物語』から七〇年前後経ってから成立した『狭衣物語』となると、読み物としては、かなり読まれて(当時、読むことは書き換えを含みますから、書き換えられて)しまい、定家の時代には、基準となるテクスト(証本・定本)が作られなかったほどですが、『狭衣物語』も決して上記で言う古典ではなかったのです。

だが、『源氏物語』の方は、俊成に至りますと、彼は堂々と『源氏物語』を顕彰するようになるのです。とすれば、「源氏見ざる歌よみ」云々の言葉は、言ってみれば、『源氏物語』古典化宣言となりましょう。

この頃、俊成は別のところで、こんなことも言っています。著名な俊成の代表歌に

夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなりふか草の里

という歌があります。この歌を俊成は、『慈鎮和尚自歌合(じちんかしょうじかあわせ)』の中で、『伊勢物語』一二三段に基づいて詠んだことを告白しています。

それまで、古歌と言ったり、古物語などとぼやかして言うことはありましたが、俊成になると、そうではなく、正しく『源氏物語』や『伊勢物語』と作品名を言うようになる。この違いは存外大きいと私は見ています。なぜなら、そこに、ぼんやりとした古典意識ではなく、はっきりとした明確な古典意識が窺われるからに他なりません。俊成は、『伊勢物語』・『源氏物語』は古典であり、今後和歌を作る上で一等大事な源泉なのである、だから、皆も勉強して己の素養とせよと言っているのです。

俊成の息子である定家は、『古今集』・『後撰集』・『拾遺集』という三代集のみならず、『伊勢物語』、『源氏物語』(青表紙本)の校訂本(定家本と言います)を作りました。他にも『更級日記』や三巻本『枕草子』の校訂本も作っていますが、そのなかで、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』の校訂本を作ったことは、父の意志を継いで、古典の核になる書物を整備し、これこそが読むべき古典的書物なのだと決めようとしたことを如実に示していると思います。以後、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』(加えて『和漢朗詠集』)が日本の代表的な古典となっていったのです。

してみると、古典というものは最初からあるわけではないのです。俊成・定家のように権威のあるだれかが高らかに古典を重視せよ、これが古典だ、古典を知らないと駄目だと主張し、周囲の人がそれを受け入れることによって、古典が作られていくのです。俊成の行為は、その意味で画期的だったと言えましょう。日本において、古典と和歌によって、院・天皇の下に権力のある集団(公家・武家・寺家)が繋がれていくのは、おそらく後嵯峨院の頃(一二五〇年前後)だと考えていますが、その先駆けをしたのが、俊成であり、定家ということになります。

最後に、どうして俊成は『源氏物語』『伊勢物語』を古典として仰げ、と叫んだのでしょうか。おそらく、ある起源的書物を持たない限り、我々は漂流したままになって根無し草になってしまうという危機意識がそこにあったのではないでしょうか。俊成の生きた時代は、長く平和だった時代が終わり、保元・平治そして治承・寿永の内乱が勃発するという戦乱の時代でもありました。そのような時代に生きるには、明確な基準がいる。それが古典ということです。古典さえあれば、我々は過去と今をつなぐことができる。つまり、アイデンティティーを確保することができるのだ、と俊成は考えていたのでしょう。俊成にとって、古典とは、生き、活動する原点にあるものだったのです。

あなた方にはなにか基準や寄る辺はありますか。

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