ことばと文化のミニ講座

【Vol.64】 2012.7   三橋 正

日食は見ましたか? お祈りはしましたか?

日本での金環日食

2012年5月21日(月)、日本で日食(日蝕)が見られました。しかも、金環日食(金環食)。日食は、月が太陽の前を横切るために月によって太陽が隠される現象で、太陽の一部が隠れるのを部分日食(部分食)、月によって全部隠れるのを皆既日食(皆既食)、太陽のほうが月より大きく見えるために月のまわりから太陽がはみ出して見えるのを金環日食といいます。この金環日食が、日本列島の広い範囲で見られるのは、なんと西暦1080年以来の932年ぶりとあって、大いに盛り上がりました。科学雑誌や新聞などで特集が組まれたほどですので、事前に日食観測用メガネなどを購入するなどの準備をして観測した方も多いと思います。

明星大学での日食観測

私たち明星大学人文学部日本文化学科でも、有志により見学会を計画しました。大学の許可を得て、20号館の屋上に朝6時集合としましたが、当日の東京の天気予報は曇り。それでも30名もの参加者が集まりました。

明星大学20号館屋上から9階に教員研究室・日本部科学科図書室のある27号館を臨む
明星大学20号館屋上から9階に教員研究室・
日本部科学科図書室のある27号館を臨む
明星大学20号館屋上から明星大学天文台を臨む
明星大学20号館屋上から明星大学天文台を臨む
 
日食観測会に集まった有志
日食観測会に集まった有志

日食観測会に集まった有志

集合時間には晴れていたものの、次第に雲が厚くなり、日食の始まり(虧初)を確認することはできませんでした。それでも「日本文化学科」での観測ですから、普通の準備だけでなく、日本史上の日食に関する史料を持ち寄っていました。最初の日食記事である『日本書紀』推古天皇三十六年(628)三月一日条(推古天皇崩御の直前)を見て、これがアマテラスの天岩戸神話(あまのいわとしんわ)のもとじゃないかとか、そうじゃないとか議論したり、金環日食があったとされる承暦四年(1080)の源俊房(みなもとのとしふさ)の日記『水左記(すいさき)』十一月一日(西暦=グレゴリオ暦の12月14日)条に「雲りがちな空で予定の時刻になったが日食は見られない。午刻(うまのこく、昼頃)になって雲の間から日食を確認できた」と書かれているのを見て、記載が澹泊(たんぱく)でくやしいとか、この時のように晴れてきてほしい、などと語り合ったりしていると、何と本当に晴れてきたではありませんか。急いで観測用メガネをつけて見ると、日食が観測でき、大歓声がわきました。

月が太陽の内側へ完全に入り込み、最初に内側から接する瞬間から再び内側から接する瞬間までの「金環継続時間」(正確には第二接触から第三接触までの時間)は、東京では7時32分03秒から7時37分04秒までのわずか5分01秒でしたが、この間は薄い雲がかかっているだけで、それがちょうど自然のフィルターとなって、肉眼でも「金環」を確認できました。その光の具合は、自然光フィルターしか装着していないデジカメ(一眼)で撮った写真からもおわかりいただけると思います。

観測前、東京での食分は0.97だと聞いていたので、さぞかしピーク(加時)には暗くなるだろうと思っていたのですが、当日は曇っていたこともあり、光の変化はほとんど感じられませんでした。それもそのはず。欠けた部分の面積比は、食分ではなく、金環中の太陽と月の視直径比の2乗であり、今回の日食の視直径比は0.94でしたから、月によって隠された面積は88%に過ぎなかったのです。金環日食とはいえ、太陽面積の1割以上の光が届いていたので、空は思ったよりも明るく感じて当然だったのです。そして、それを皆で確認できたことが、大変有意義だったと思います。

2012年5月21日の金環日食(三橋正撮影)
2012年5月21日の金環日食(三橋正撮影)

日食と月食と陰陽寮

日食の観察だけではなく、私が担当する「日記・記録の中の日本」という講義では受講学生と相談して日食に関する記事を読み、「日本文化の中の日食と月食」を考えてみることにしました。

日本では、飛鳥時代から中国の暦を本格的に受容し、それによって日食や月食の予報が可能となりました。しかもその暦は太陽太陰暦で、月(年月日の月)は実際の月の満ち欠けに合わせるように作られていましたから、日食が起こるのは必ず朔日(一日)、月食が起こるのは満月となる十五日となっていました。

古代律令国家では、陰陽寮(おんようりょう・おんみょうりょう)が日食・月食の予報を具注暦(ぐちゅうれき、前年の十一月一日までに制作・進上する)に書き入れ、事前に天皇へ伝達し、当日の観測結果を「天文密奏(てんもんみっそう)」として報告することが義務づけられていました。日食・月食の当日は廃務(はいむ、天皇が政治を見ない)とされていましたが、これは「天皇」は中国の「皇帝」と同じ「天子」、すなわち天(宇宙、神)の子であるという天命思想(てんめいしそう)に基づいて、天体の変異は天皇(国家)に直結するとも考えられていたからです。ですから、日食・月食のような「天変」が不吉と判断されれば、災害などが起こらないようにお祈りをする必要もありました。

陰陽師は、日食・月食の予報と事後報告をして、それが合っていた場合にはご褒美をもらっていました。ただ、日本が受容した暦(貞観三年〈861〉以降は宣明暦)は中国でできたもので、もとから地理的なズレがあっただけでなく、時代と共に計算上の誤差が大きくなっていったので、多少の時刻の相違はあまり問題にならなかったようです。また、夜の日食や昼の月食は重視されませんでしたし、雨などで確認できないこともありました。

陰陽寮のライバル宿曜道

平安時代の後期(摂関期)、陰陽道に強力なライバルが出現します。新しい暦の技術を取り入れた宿曜道(すくようどう)です。宿曜道は、日延(にちえん)が天徳元年(957)に中国からもたらした符天暦(ふてんれき)による暦の計算や占などの術を受け継いだ僧侶(宿曜師)のグループです。最初は陰陽道に協力して具注暦の作成にあたったりしていましたが、次第に独自な活動をして貴族社会に進出ていきます。陰陽道との大きな相違は「ホロスコープ占星術」にあり、特に日食・月食に際して、一人一人にふりかかる災厄を予測し、それをはらう祈祷(読経や密教修法など)を提示しました。

「ホロスコープ占星術」とは、わかりやすく言えば星座占で、朝のテレビで「今日の○○座の運勢は?」などとやっているのと似ています。つまり、生まれた日時によって人の運命は宇宙の中のどこかと結びついているという考えです。宿曜道では、黄道付近の星座として 黄道付近の星座

という二十八宿あり、人の「本命宿(ほんみょうしゅく)」はそのどこかに定まっているとします。宿曜道以前にも「本命日(ほんみょうにち)」として生まれた年の干支(えと)と同じ干支の日にお祈りをする習慣はありましたが、宿曜道の説く「本命」は宇宙と関連づけられたのですから、強烈ですね。そして、実際に目で見えなくても、ホロスコープ上のシミュレーション(模擬観測)によって日食や月食の時間と場所を予測し、それが誰かの「本命」で起きればその人は「危ない」というのです。そんなことを言われたら、お祈りしないわけにいかないですよね。

宿曜師證昭の活動

このような活動を本格化したのは、證昭(証昭)であったと考えられます。證昭は、史料によって「證照」「澄照」「登昭」などとも書かれているので、ここでは「證昭」で統一します。
その様子を皆既月食が起こった長元四年(1031)の『小右記(しょうゆうき)』の記事から見てみましょう。日記の記主(きしゅ)藤原実資(ふじわらのさねすけ)は当時右大臣で、二日前(十三日)から「天の怪異をはらう」お祈りとして大般若経(だいはんにゃきょう)を転読(てんどく)させていました。七月の皆既月食が自分の本命宿である「女宿」で起こると予測されていたからでしょう。ところが当日(十五日)条に

月蝕皆既。虧初は酉七剋五十分、加時は亥初剋三十二分、復末は子一剋四十二分。 亥時に月虧初し、子時に加時、丑時に復末す。時刻は少し違った。けれども予報に合っていると言うべきだろう。

とあるように、予想では午後八時頃に欠け初め(虧初)、九時過ぎに最大の食(加時)、十一時過ぎに満月に戻る(復末)とされていたのが、実際には二時間も遅かったのです。それでも、「時刻は少し違っていた。けれども予報に合っていると言うべきだろう(時刻頗る違ふ。然而、勘文に合ふと謂ふべし)」と記していることは、興味深いですね。

宿曜師證昭はその二日後(十七日)に実資のもとを訪れて、次のように言いました。

「月食は女宿で起こると予測されていましたけれど、そこと次の虚宿を過ぎて(危宿で)食しました。女宿でしたら実資様の災厄が最も重かったのですが、他の宿で食したということは、重い災厄が降りかかるのを避けられたと言うべきでしょう。めったにないこと(希有のまた希有)です。危宿は天皇(=後一条天皇)の御本命宿で、その慎みは軽くありません。計算上の場所ではなく、天皇の御本命のところで皆既月食があったということは、とても恐ろしいことです。このことを天皇に申し上げてもらおうと、頭弁(とうのべん、蔵人頭で弁官)藤原経任様のところに行ったのですが、もう内裏におられるとのことで、帰ってきてしまいました。」

何と、證昭は、実資の運命だけでなく、天皇の運命にも言及し、それを報告しようとしたのです。これ以後、彼は陰陽道との共同作業をやめて、独自に暦を制作したり日食・月食を予測したりして、その正確さをめぐって対立するようになります。宿曜師は自立した宗教家として活動を始めたのです。そして、宿曜道が日食・月食にかかわる災厄を個々人の本命位との関係から説明したことで、天皇の運命も他の人の運命と同等に見られるようになり、貴族社会における個人意識を発展させたと考えられます。

日食・月食とお祈り

この講座のタイトルを見て、「流れ星に対するように日食でも願い事をするのか?」「しまった、やらなかった!」と思った人がいたかも知れません。むしろ逆で、日食・月食などの天変は「不吉」とされ、そこからもたらされる災厄を回避するために、お祈りが必要だったのです。天皇や上級の貴族たちは外出を避けて建物内に籠もり、その建物を藁(わら)で覆ってしまうこともありました。そこまで恐れていたのですから、自分で観測することはなかったでしょう。

天変のお祈りとして最も効果があるとされたのは、密教修法(しゅほう)です。宿曜道が活動を活発化させた摂関期から院政期(平安時代末期)には、密教修法がとても発展しました。本尊として仏や明王(みょうおう)の画像を掛け、その前に築いた壇(だん)で護摩(ごま)を焚(た)きながら、僧侶は口に真言(しんごん)を唱え、手は秘密の印(いん)を結び、一心不乱に祈ります。その真剣な姿からは、本当にマジカルなパワーが放出されていると感じられたことでしょう。

平氏の時代ですが、『玉葉(ぎょくよう)』嘉応二年(1169)七月一日条に、

今日、日食なり。現われるという説と現われないという説と両方あったとはいっても、なお、現われる時の例によって、お祈りがありました。高倉天皇は七壇の北斗法を行なわれ、(姉の)皇嘉門院藤原聖子と私(兼実)は金輪念誦(一字金輪仏頂の念誦ボロン)を修しました。結局雨が降ったので、日食があったかなかったかは確認できませんでした。

とあります。日食があるかないか、予測で分かれた時も、用心のために密教修法や念誦(ねんじゅ、真言を唱えること)をしています。特に高倉天皇のための修法は、北斗七星を一星ごとに神格化した七つの画像それぞれに壇(計七壇)を設けた迫力のあるものだったと想像されます。

奉仕した密教僧にご褒美があるのはもちろんですが、万が一、お祈りの効果がなくて不幸が起こってしまったら、と心配してしまう僧がいたかもしれません。また、『玉葉』建久九年(1198)正月一日条に、元日の日食について、天皇お祈りとして真言宗の仁和寺宮守覚法親王(しゅかくほっしんのう)が孔雀経法(くじゃくきょうほう)を行なうことになっていましたが、急に「触穢(しょくえ)」を理由に辞退し、代わりに天台座主(ざす)の弁賀が比叡山の根本中堂で七仏薬師法(しちぶつやくしほう)を修したとあります。この七仏薬師法はかつて弁賀の師匠である行玄が康治年間(1142~44)にやり、晴れていたのに日食とはならなかった(日食をなくした)ということで、たくさんのご褒美が与えられたという歴史がありました。ですから、この時の弁賀も、これをやっただけで偉いとされています。他方、辞退した守覚法親王は、触穢は嘘であったとの讒言(ざんげん)が後鳥羽天皇に伝えられ、天皇も気分を害した(天気不快)といいます。

この時代、陰陽道と宿曜道(及び算道)が日食・月食の予報の正確さを競っていただけでなく、お祈りの面でも互いに競合しながら験力(宗教的パワー)を向上させていたのです。

異文化を知ることの重要性

この他、鎌倉幕府が編纂された『吾妻鏡(あずまかがみ)』の記事を読んで、鎌倉将軍たちが京都の貴族たちと同じように対処していることも確認しました。そして、私たちが日食を単なる天体現象として観察しているのは、あたりまえではなく、異なる価値観・精神性による違った対応をしている時代があったことをより深く理解することができました。

同じ天体現象(日食・月食など)についても、時代・地域によってとらえ方は様々です。科学が発達すると、不思議さとそれへの恐怖が少なくなり、宗教的な行為に頼る人を見下すようになります。しかし、それでは異文化を理解することにはなりません。私たちと異なる価値観を有する世界を見る力を養う。これも歴史や文化を勉強することの大変重要な意義だと思います。

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