ことばと文化のミニ講座

【Vol.60】 2012.1   元本学科教員 上原 麻有子

日本哲学と世界

本学には哲学を専門に教える学科がありませんが、今回は、「日本哲学」をテーマに取り上げてみようと思います。というのも、私の研究している分野が日本哲学であるからなのですが、もう一つの理由は、この度、英語の日本哲学雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・フィロソフィー(Journal of Japanese Philosophy)』が刊行されることになったからです。そして、この国際雑誌の編集チームには、香港とアメリカの研究者4人と私が入り、日本人の私が編集者の代表を務めます。

では、まず簡単にこの雑誌の紹介をさせてください。香港の林永強さんと張政遠さんの発案により始まったものです。二人から「日本哲学研究は大切なのに、よく知られていない、もっとその意義を認めてもらいたい」という声が上がり、「では、日本哲学の専門誌を作ろう」と動き出したのです。頑張った甲斐あり、アメリカでは大手の出版社、ニューヨーク州立大学出版(SUNY Press)が、出版を引き受けてくれることになりました。創刊号は2012年秋。査読付きのすべて英語による論文と書評で構成される、年一回刊行の雑誌です。林さんと張さんは、英語に堪能ですが、ネイティヴ・スピーカーが編集に入ることは必須ですので、ジョン・クランメルさんとカーティス・リグズビィさん(書評担当)も加わり、編集では大いに活躍してくれることになります。その他、編集委員には日本を含む東アジア、そしてヨーロッパ、アメリカの30名以上の研究者が入っています。

このミニ講座で、雑誌の紹介、というか宣伝をさせて頂くために、雑誌を作ろうとした背景についてお話しなければなりません。それは、林さんと張さんの「日本哲学研究の意義をもっと高めたい」という思いに端を発しているわけですが、何しろ、この分野を専門とする学術雑誌は、これまで存在しなかったという事情があります。「哲学」といえば西洋起源の哲学を一般には考えるでしょう。ところが、東洋の中国哲学とインド哲学はすでに認知されているのです。日本哲学は、海外の大学でも専門の学科として構成されているところはないようですし、日本国内でも専門学科がある大学や大学院は非常に少ないようです。しかし、日本哲学に関心を抱き勉強する外国人は少しずつですが確実に増えているように感じます。日本の哲学者も、もちろん自分の国の伝統から生まれた哲学には常に注意を向けているのです。さらに、そのような海外の研究者による成果は「日本の知的伝統の中で哲学的思考を練り直したいと考えている日本の若者の間で、ますます積極的に受け入れられつつある」[1]のです。

日本哲学という専門を大学や大学院で深めても、それを専門として教える教育機関、研究機関がない。折角、専門の研究者になってもそれを社会に還元できるような場所がない。どうも、日本哲学は悪循環に陥っているようです。難しい概念や理論もたくさん含まれているかもしれませんが、一方で、人間が生きる上でとても豊かな知恵を授けてくれる。日本哲学の魅力は十分にあると思うのですが。だからこそ、海外の研究者にも、日本語を勉強し、日本語で書かれた難解な哲学書を読む努力をする人が増えているのではないでしょうか。『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・フィロソフィー』は、このような背景のもと、現在、おそらく世界で一番多くの人々が理解できる国際語としての英語で、日本哲学を紹介することにより、微力ながら、日本と世界の教育機関、研究機関の注意を集めてゆくことを目標としています。

では、次に「日本哲学」とはどんな学問なのかということについて、少し考えておきましょう。ギリシャに起源を発する「哲学」は、ギリシャ語でφιλοσοφια、アルファベットではphilosophia(フィロソフィァ)と表記されます。そして、字義通りにいうと「知を愛する」を意味する言葉です。「哲学」と命名されることになるこの西洋の言葉が初めて日本に伝えられたのは、おそらく16世紀末~17世紀初めの、イエズス会によるキリシタン関係の出版物においてでした[2]。この学問を本格的受容するようになったのは、やはり明治以降のことです。フィロソフィァを翻訳して「哲学」という学問名を作ったのは西周(にしあまね)(1829‐1897)です。フィロソフィァが、諸学の上に立つ学であると理解し、これに相当する東洋の学である「理学」をその訳語に当てようとも考えた人も多かったようです。「理学」とは中国の宋代に起った新儒学の一名です。西も理学を大いに参考とし、また批判しながら哲学を理解するよう努めましたが、結局、「理学」をフィロソフィァの翻訳とはせずに、「哲学」という新語を作り、それが今日まで使われ、さらに中国や韓国にも受容されたのです。

しかし、この東洋の学問である理学が実践的であるのに対し、西洋の哲学は思考法が合理的でしかも理論的であるところが、明治の日本人にとってはとても新鮮に映ったのでした。日本文化に根付く思考法や、より厳密な学、宗教としての理学、仏教などの東洋思想は、西洋哲学と対比してごく一般的な言い方をした場合、それほど合理的ではないと思います。つまり、東洋思想は、言語によって厳密に思考を表現しようとするよりも、むしろ「言語否定する思惟」[3]であるのです。西洋哲学的思惟は、一つ一つの事柄を徹底的に「論証」してゆく方法を取り、これには絶対に言葉が必要です。ところが、例えば日本語は、それも近代化し西洋の言語に倣った思考法が影響する以前の和語や漢文などの日本語においては、西洋的思考からすれば、限定が足りず含みが多く、したがって曖昧だと思えてしまうのです。また、「東洋哲学」という表現を用いたとしても、「実際に、東洋哲学は東洋哲学史以外のものではない、それの歴史的文献的研究以外のものは事実上存在しなかったし、現在も存在しない。今日においても日本では「哲学」は実質的には西洋哲学である」[4]と、日本哲学の分野を代表する哲学者の一人である下村寅太郎は、1965年の論文でこう述べています。

もし、西洋起源のフィロソフィァとしての哲学が拠り所とする思惟のみが、正当な哲学だと決めてしまうなら、東洋思想などは哲学と認められなくなります。この点をどう考えるかが、まさに「日本哲学とは何か」という問題にもかかわってくるのです。

さて、下村の「日本では「哲学」は実質的には西洋哲学である」という言い方は、少し注意しながら受け止める必要があります。「日本哲学」という分野などあり得ないという、否定的な態度を取っているわけではないのです。明治の哲学者たちの多くは、西洋哲学を受容に甘んじるだけでなく、「東洋哲学」と西洋哲学を統一した観点から哲学を考えようとしました。下村は先程の引用と同じ論文の少し先で、次のように説明しています。

「東西の思想を打って一丸とする」という明治の哲学者の理念が単に表面的な折衷から内面的原理的に深化され、自覚される過程が日本の哲学の発展にほかならぬ。この問題は日本の哲学が単なる受容の段階から包容の段階に至り、それの原理的反省、自覚に至るべきものである。同時に日本人の思惟の仕方の独自性の論理的基礎づけの問題に連なり、それにおいて初めて哲学が日本人の哲学となり、真に主体的な哲学となることである[5]

冒頭でふれましたが、近年、日本哲学を研究する海外の哲学者たち、あるいは、自らの伝統から生まれた日本哲学を見直そうとする日本の哲学者たちが注目する哲学の一つの代表は、京都学派と呼ばれる学派ではないでしょうか。西田幾多郎(1870‐1945)の哲学が、その京都学派の思想的基盤を形成しています。西田の生み出した、日本あるいは東洋の伝統的思惟に根差した論理は、「絶対無の論理」と呼ばれています。しかし、西田は西洋哲学をギリシャ古典から同時代の哲学まで広く研究しながら、東洋あるいは日本の思想に欠けている論理性というものを追求しました。単なる直観的なものだけでは、哲学とは呼べない。そこで西洋哲学の論理的思考によって東洋哲学的なものの捉え方を一つにしようとしたのです。このオリジナルな哲学は、今、静かな動きではありますが、西洋を中心とする、海外の一部の哲学者に影響を与えていると思います。西洋の哲学を批評し、十分に分析しながら、仏教などの東洋哲学を思わせる概念や表現の説明が論文の中に展開されています。難解な部分も多いのですが、それゆえに外国の哲学者は、新しい思考法を探り当てようと真剣に西田哲学に入り込んでゆくのではないでしょうか。

各国語への翻訳も、まだ十分とは言えませんが順調に進んでいます。西田の最初の哲学書は、『善の研究』というもので、1911(明治44)年に出版されました。『西田幾多郎全集』(岩波書店)に所蔵されているほか、手軽に読める岩波文庫版もあります。そして、今の時点で、7か国語で9つの翻訳、英語(1960年および1990年年)、中国語(1965年および1984年)、ドイツ語(1989年)、韓国語(1990年)、スペイン語(1995年)、フランス語(1997年)、イタリア語(2007年)が刊行されています。そして、『善の研究』は昨年、2011年、刊行100年記念の年を迎えました。2010年12月に京都大学で記念の国際シンポジウムが開催されました。その他、2011年7月には西田哲学会の年次大会が西田幾多郎記念哲学館(石川県かほく市)で、また9月にはドイツのハノーヴァー近郊にあるヒルデスハイム大学でも、それぞれ記念国際会議が開かれました。

『善の研究』からよく引用される、この書の主要の考えを表す箇所は以下の通りです。

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。ここでこの引用の解説をすることはあえて避けて、読者のみなさんに『善の研究』を読み、少しでも日本のオリジナルな哲学がどのようなものであるのかを見つけて頂ければと思います。

このような、一般に日本人にもあまり知られていない日本の哲学が、ミニ講座を読むみなさんたちの知らないところで、ゆっくりと、しかし確実に世界に開かれているということを強調して、今回のお話を終えたいと思います。最後に、Journal of Japanese Philosophy (ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・フィロソフィー)創刊号に向けての広告を以下に掲げてきますので、英語で書かれていますがどうぞご覧ください。


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