ことばと文化のミニ講座

【Vol.59】 2011.11   青山 英正

ほどくぼ小僧の話——生まれ変わった勝五郎

死後の世界

わが明星大学は、東京都日野市程久保というところにありますが、この程久保にまつわる、不思議な話があります。この話は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって世界中の人々にも紹介されました。

江戸時代後期、19世紀の初めのことです。程久保村(現在の多摩モノレール「多摩動物公園駅」の近く)に藤蔵という男の子がいました。藤蔵は、6歳の時に疱瘡《ほうそう》という病気にかかり、急死してしまいます。しかし、それから12年後、中野村(現在の八王子市東中野。現在の「大塚・帝京大学駅」の近く)に住んでいた勝五郎という8歳の少年が、兄弟に、「自分は、この家の子に生まれる前は、程久保村の藤蔵だった」と言い出したのです。

藤蔵の家と勝五郎の家は、明星大学のキャンパスを挟んでほぼ対照的な位置にあります。距離にして5km程度、しかも現在の中央大学キャンパスあたりの山を越えなければなりません。子どもの足で誰にも知られずに村を往復し、なおかつ12年も前に亡くなった藤蔵のことやその家族の事情を聞き出して来るというのは考えにくいことです。

この勝五郎の話に驚いた家族がさらに問いただしてみると、彼は、知るはずもない藤蔵その人やその両親についてだけでなく、なんと死後の世界まで詳しく語り始めました。勝五郎によると、息が絶える瞬間は何の苦しみもなかったそうです。そして、自分の体が棺桶に入れられるときに魂が飛び出し、棺桶が墓地に運ばれてゆく際、その上に乗っていたと言います。「其の桶を穴へおとし入れたるとき、其の音のひびきたること、心にこたへて今もよく覚えたり」(平田篤胤『勝五郎再生記聞』岩波文庫)

勝五郎の話は、このように具体的でした。彼は、葬送のあとで自分も家に戻ったものの、人に話しかけても誰にも聞こえなかったこと、白髪を長く垂らした黒い服を着たおじいさんに誘われて、花がたくさん咲いたきれいな野原に行って遊んだこと、家で両親が話しているのが聞こえたこと、お供え物を食べることはできなかったけれど、温かな湯気はおいしかったこと、しばらく遊んだ後、例のおじいさんに、「あそこの家に入って生まれ変われ」と言われて現在の家に生まれたことなど、次々と語ってゆきます。

勝五郎の話が決して出まかせでなかったことは、翌年、前世の両親に会いたがる勝五郎を程久保村に連れて行った時に確かめられました。勝五郎の言ったことは、藤蔵に関する事実と何から何まで合致していたのです。それだけでなく、勝五郎は、昔は向かいの煙草屋の屋根はなかった、あの木もなかった、などといったことも指摘し、皆をますます驚かせるのでした。

江戸時代の世界像

古今東西、生まれ変わりの話は多くあります。私も小学生の頃、アメリカのケネディ大統領がドイツで生まれ変わったという話を読んだことがあります。日本の古い説話集である『日本霊異記』や『今昔物語』などにもこうしたいわゆる再生譚は見られます。言うまでもなく、死後の世界や生まれ変わりなど、現代科学の観点からはとうてい認められないでしょう。私も、勝五郎の不思議な話の真偽を論ずるつもりはありません。

ただ考えたいのは、当時この話がどのように理解され、意味づけられたのか、そしてその背景にはどのような事情があったのか、という点です。たんなる偶然の一致と見るのか、宗教的な意味づけをするのか、心理学的な解釈を施すのか、といった違いから、その時代や地域の文化的特性が浮かび上がってくると思われるからです。

「ほどくぼ小僧」として評判を呼んだ勝五郎は、江戸に呼び出されて取り調べを受けましたが、その供述に矛盾は見つかりませんでした。すると、当時の学者の中から、この勝五郎に強い興味を寄せる者が多く現れました。国学といって主に日本古典の研究をしていた平田篤胤《ひらたあつたね》という人物もその一人です。勝五郎の話が広く知られるようになったのは、この篤胤が『勝五郎再生記聞』という本にまとめたおかげです。

なぜ、篤胤は勝五郎の話に興味を持ったのでしょうか。あらかじめ断っておくと、江戸時代後期は、それなりに合理的思考・科学的思考の広まっていた時代でした。識者の間では、大地が球形であり、自転しながら太陽の周りを回っていることも、すでに知られていました。中でも篤胤は、地動説をはじめとする西洋科学の知識も十分に身につけた、当時最高の学者の一人でした。そんな篤胤が、なぜ勝五郎の語る一見非科学的な話にひかれたのでしょうか。それは、逆説的ですが、実は彼が科学的知識を身につけたからこそだったのです。

西洋から入ってきた科学は、それまで日本で信じられてきた仏教的・儒教的世界像が事実にそぐわないものであったことを暴いてしまいます。精密な天体観測の結果を見れば、仏教や儒教が前提としていた天動説はもはや成り立たず、地球が太陽の周りを回っていることは明らかでした。しかしその一方で、西洋の科学も、篤胤ら当時の日本の学者にとっては世界を説明するのに不十分なものに映りました。確かに科学は、今この世界で起こっている現象、たとえば天体の動きを観察してそこから法則性を導き出すようなことにはたけていますが、ではそもそもなぜ太陽や地球は今のような姿としてあるのか、どのような過程を経てこの世界は今のような姿になったのかといったことについては説明してくれないではないか、と篤胤らは考えたのです。

世界の誕生から今ここに生じている現象までを首尾一貫した論理で説明すること、それが篤胤らの目指したことでした。東洋的な世界像が西洋の科学と出会うことよって19世紀初頭の日本に生じた世界像の空白、それを埋めるべく、篤胤らは科学的な成果を踏まえた新たな世界像を打ち立てようとしたのです。

ですから、篤胤の方法は、ある意味きわめて実証的かつ合理的でした。ただし、それは自然科学的というよりも、むしろ人文科学的な意味においてであったと言えるかもしれません。彼は、世界の誕生の過程が、『古事記』を始めとする日本の神話に、断片的ながらも正確に記述されていると信じていました。そこで、それらの断片を互いに補い合って、篤胤が信じるところの本来の日本神話(篤胤はこれを「古伝」と呼びます)、すなわち世界誕生の過程の《真実》を復元すべく、古今東西のさまざまな文献を縦横無尽に駆使し、なおかつ西洋から伝えられた科学的な知識や、古来受け継がれてきた日本人の儀礼や風習などと照らし合わせてゆきます。

要するに篤胤が行ったのは、科学的な知識、聞き取りといった民俗学的な調査、それに世界各地の神話同士の比較といった方法を混ぜ合わせた、ある意味実証的と言えなくもない日本神話の解釈でした。そして、興味深いことに、彼の示した世界像には、死後の世界も含まれていました。この世に生死という事実がある以上、ちょうどこれまで仏教がそうしていたように、この現象について説明することは不可避であると考えたのでしょう。

平田篤胤の霊魂観

冥府と云ふは、此顕国《うつしくに》をおきて、別に一処あるにもあらず、直ちにこの顕国の内いづこにも有なれども、幽冥《ほのか》にして、現世《うつしよ》とは隔たり見えず。(平田篤胤『霊の真柱』岩波文庫)

篤胤によれば、人が亡くなっても、その魂はどこか遠いいわゆる《あの世》に行くのではありません。死者の魂は《この世》にとどまっていて、生きている者のすぐそばで、衣食住さえ備えて生活しているのです。また篤胤は、生きている者の目には死者の姿が見えないが、死者からは生きている者の姿が見えると言い、たとえるならば、明るい場所から暗い場所の様子は見えないが、暗い場所から明るい場所の様子はよく見えるのと同じことだと説明します。

死後の世界についてのこうした考え方は、死者が穢れた現世を離れて極楽浄土に往生するという仏教的な考え方とは異質なものでした。にもかかわらず、日本各地で、とりわけ農村部を中心に受け入れられていきます。それは、当時の日本人に、篤胤の唱える霊魂観をすんなりと受け入れるだけの素地があったからでしょう。日本文化学者であった柳田國男は、『先祖の話』(昭和20年)の中で、「日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持を、抱いていた」と述べ、次の四点を日本的な特徴として挙げています。

第一には死してもこの国の中に、霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけでなしに、いずれか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難でないように思っていたこと、第三には生人の今わの時の念願が、死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、さらにふたたび三たび生まれ代って、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。

つまり、死後の世界や死者がすぐ近くにあり、また何度も生まれ変われるという感覚を、日本人は持っていたというのです。もちろん、こうした霊魂観が日本のすべての地域で、古来変わらずにあったとまでは言い切れません。しかし、たとえば亡くなった幼子を墓ではなく屋敷の隅に葬り、早い生まれ変わりを願う習俗もありますから、死後の世界に親しみを感じ、また死者の再生を信じる度合いは、他の文化よりも高かったのかもしれません。

篤胤の思想が当時の社会で大きな力を持ったのは、まさしくこうした、日本の人々が多かれ少なかれ抱いていた霊魂観をすくい取った上で、古典研究と天文学の成果も組み合わせて《世界はどのようなものか》《われわれはどのような存在か》といった根源的な問いに対する《合理的な》解答を与えてくれたからだと考えられます。そして、篤胤にとって勝五郎こそは、自身の理論の正しさを裏づけてくれる何よりの生き証人だったのです。

願いとしての再生譚

勝五郎が本当に藤蔵の生まれ変わりだったのか。今となっては誰にもわかりません。ただ重要だと思われるのは、この話が本当かもしれない、本当であってほしいと信じる人々が、この話の周囲に存在していたという事実です。

藤蔵の家族は、藤蔵が勝五郎として生まれ変わったという話を積極的に信じようとしたでしょうし、平田篤胤も、自己の理論を証明するまたとない実例として勝五郎の体験談を捉えたことでしょう。それだけではなく、篤胤は早くに亡くした最愛の妻織瀬への思いもあったのかもしれません。藤蔵と同じく6歳で娘の露姫を亡くした池田冠山という元大名も、勝五郎の話を聞きにわざわざ中野村を訪れています。このように勝五郎の話には、それを積極的に信じようとする聞き手がいました。

対話とは話し手と聞き手との共同作業です。聞き手がいなければ話はそもそも生まれませんし、聞き手が話し手の話をはなから否定してしまえば、話はその場かぎりで消滅してしまったはずです。実際、勝五郎の話は、氏神と思えるひげの白いおじいさんの登場など、あまりにも篤胤の理論に即しすぎているきらいがあります。ですから、勝五郎の再生譚は、話し手と聞き手との共同作業として紡がれたと言っても過言ではありません。さらに言えば、篤胤によって書き留められた『勝五郎再生記聞』を読み、それを信じた読み手たちも、こうした共同作業の一員として加えることができるでしょう。いわば、死者を身近に感じようとし、その再生を信じようとする当時の人々の思いこそが、勝五郎の話を生み出し、流布させたのです。私が重視したいのはこの点にほかなりません。

シンガーソングライターである中島みゆきの「時代」(昭和50年)という曲に、「今日は倒れた旅人たちも、生まれ変わって歩き出すよ」という印象的なフレーズがあるように、科学が発達した現代にも、こうした霊魂観は根強く残っているように思われます。ここで、もう一度柳田國男の言葉を紹介しておきたいと思います。先ほど紹介した『先祖の話』は、第二次大戦末期の昭和20年に書かれましたが、次に引く「魂の行くえ」は同24年、すなわち柳田の晩年であり、また無数の者が国土で、あるいは遠い戦地で命を落とした戦争が終わった直後に書かれた文章です。死者たちへの哀悼の念と、自身もまもなく迎えるであろう死への期待に近い思いとが混じり合った、ほとんど柳田の願いの吐露ともいえる一節です。

日本を囲繞《いにょう》したさまざまの民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。ひとりこういう中において、この島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その反映と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。これが誤ったる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人が決めてよい。我々の証明したいのは過去の事実、許多《きょた》の歳月にわたって我々の祖先がしかく信じ、さらにまた次々に来る者に同じ信仰を持たせようとしていたということである。 (中略) 魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるゆえか、私には至極楽しく感じられる。

勝五郎は明治2年、55歳まで生きました。現在、藤蔵の墓は高幡不動尊の境内に、勝五郎の墓は八王子市柚木の永林寺にあります。
藤蔵の墓

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