ことばと文化のミニ講座

【Vol.58】 2011.10   内海 敦子

言語を記述する方法

前回(vol.48)の講座では、言語調査の最初の段階について書きました。どんな言語を調べるにしても、まず行うことは、他の言語の影響を受けにくい基礎語彙(体の名称、親族名称、基本的な動作を表すことば(動詞)、基本的な状態を表すことば(形容詞))の収集をすることです。ほとんどの場合、このときに同時に質のよい録音をとります。

音の研究をするときに、重要になるのは「国際音声字母」と呼ばれる文字です。英語ではInternational Phonetic Alphabet、略してIPAと言います。これは、私たちにもなじみのあるローマ字を改良して、原則として地球上のどの言語の音声も記述できるようにしたものです。見慣れない文字もあります。たとえば、日本語にもある音ですが、/ʔ/という文字があります。これは声門閉鎖音といって、喉にある声門を一旦閉じ、開けることによって出す音です。日本語において、ある文が母音で始まるとき、たいていこの声門閉鎖音が発音されています。「おはよう」の「お」の前とか、「あっ、今日が締め切りだった!」などというときの「あ」の前には声門閉鎖音があるのが普通です。それぞれ/ʔo/、/ʔa/とIPAで書くことができます。このほかにも、たくさんの記号がありますが、/s/や/t/など、普通にローマ字で使用する記号もあり、習得しやすくできています。全部で母音を表す三十ほどの記号と、子音を表す七十数個ほどの記号がありますが、それだけではとてもすべての音声を書ききれないので、補助記号がたくさんあります。それでも、私が調べた狭い範囲の言語の中に、これらの記号では対応できないものがありました。ですが、あまりにも特殊な音声は、注釈をつけつつIPAの中で一番近い音のものを使用して対処するのがほとんどの研究者のやり方だと思います。

音声を調べるときに必要なことは、なんと言っても良い耳です。生まれつき、音声の微妙な違いに気づく敏感な耳を持っている人もいますが、普通の人はそうではないので、訓練を受けて良い耳を育てていきます。フィールドワーク(現地調査)で言語調査をする人たちは、大抵、大学あるいは大学院の「音声学」の授業でこの訓練を受けます。そうしない限り、IPAを使いこなして言語を記述することはできません。この訓練は、聞き取りだけでなく、発音にも多くの時間が割かれます。研究者自身がきちんと発音できないと正確に聞き取ることはできません。また、聞いただけでは確信が持てないので、研究者が発音したものをその言語の話し手に「その発音でいいですよ」というお墨付きをもらうことによって、確実な音声記述につなげるのです。ですから、フィールドワークで活躍する研究者や、「音声学」といって言語の音声の研究を行う分野の研究者は理論的には地球上のすべての言語の音声が発音できて聞き取れるのです。このように音声を聞いたまま正確に記述するのが「音声学」と呼ばれる分野の第一段階です。

そうは言っても、特別才能のある人でない限りは、研究者の聞き取り能力はその人が育った言語、いわゆる母語の影響を受けており、偏りが見られるのが普通です。日本語だけで育った人が、英語を勉強するときに‘l’(IPAでは[ɭ]と表記され「硬口蓋側面音」と呼ばれる)と‘r’(IPAでは[ɹ]と表記され「硬口蓋近接音」と呼ばれる)の区別がつかないことはよくありますね。これら二つの音は、音声学的に言うと、かなり異なるメカニズムで発音される全く別の音なのですが、どちらも日本語にはありません。ですから、日本語話者がこれらの音を聞くと、日本語の中で一番響きの近い音、「弾き音」と呼ばれる/ ɾ/(ラ行の子音)と同じだと思ってしまうのです。日本語を話すときは英語の‘l’と‘r’に当たる音を発音していないのだから区別できないのは当たり前ですよね。

ところが、日本語の話し手が発音しているにもかかわらず、違いの分からない音というのがあります。先ほど挙げた声門閉鎖音はその例で、/ʔ/の音はほとんどの人が日常的に発しているのにもかかわらずあるかないかによって「意味の区別が行われない」ために、存在しているかどうか普通は気づかないのです。たとえば「おはよう」というときに、最初の「お」を/o/と発音しても/ʔo/と発音しても、意味に違いは生まれません。こういった音の違いに関しては、鈍感なものです。もう一つ、例を挙げます。東京方言などの日本語の話し手は[dz]と[z]を発音しわけています。「ざっと」「ぜせい(是正)」など、ザ、ズ、ゼ、ゾの音が語頭にある場合は舌は上あごにくっついていますので、IPAでは[d͡z]と書きます。ところが、それらの音が「かざかみ」「しぜん」のように、語中にある場合は舌は上あごにくっついていません。IPAでは[z]と書く音を発音しています。東京の人はこれらの音を自然に発音し分けています。それなのに、二つの音の違いを聞き分けることができないのが普通です。これも、[dz]で発音しても[z]で発音しても、意味の違いが生まれないために意識して聞き分けることがなく、違いが分からないのです。

言語調査をするときは、このように、話し手自身が気づかない音を聞き分けて、記述し分けるだけではなく、「違う音声なのに同じ音だと話し手が認識している」ということにも気づかなければなりません。言い換えると「ある言語の話し手が同じ音だと認識している、いくつかの音声からなるグループ」がある、ということです。このあたりの分析を行うのが「音韻論」と呼ばれる分野なのです。

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