ことばと文化のミニ講座

【Vol.57】 2011.7   前田 雅之

昔の人は教養があったのか。

いつも言われる若者批判を糸口にして

「今の若者は何も知らない、無知だ」、これは若者批判の際に用いられる、手垢に塗れた常套句です。これに類した言い方は、どうやら古代ギリシャにもあったようですから、いつの時代も中年や老人は同時代の若者を何も知らない、無知だ、と言い続けてきたということでしょう。

となりますと、いつの時代も中年や老人は物知りで教養があったのか、と言えば、これまた、何も知らない、無知な若者が年をとって中年なり老人なりになるのですから、いつの時代も、若者・中年・老人、つまり、あらゆる人間は何も知らない、無知だということになろうかと思います。この理解は、一応正しいと思っています。なお、ここで言う「一応」というのは、だいたいにおいてということであり、例外もあるかという期待を込めた用法です。

1993年は大凶作で米が足りなくなり、タイから緊急輸入しました。多くの人々は米屋さんに並んで米を買ったものでした。その時、米屋さんもなかなかしたたかで日本米だけを売らず、タイ米とセットで売っていました(そうしないとタイ米が売れ残るからでしょう)。私は米屋さんの前で店主と思われる老婦人の話に耳を傾けていました。

曰く「大変な時代になったね、まったく。」と。

だが、私はこのことばを聞いてやや疑問に思いました。彼女は、年齢からしておそらく戦後の食糧不足を経験しているはずです。「大変な時代がまた来たよ」と言うのなら、ともかく、はじめて来たような口ぶりに、私は、ああ、人間とは忘れる動物だ、だから、いつまで経っても賢くならないのだと痛感したものでした。

これを見る限り、いつの時代も老人・中年・若者はみんなものを知らず、無知だということになります。さらに、忘れるということを付け加えてもよいでしょう。

こうなってくると、だんだんと「人間=愚物」論に傾いてしまいそうですが、それでも、このような意見はありました。いや、昔は賢い人が多かった、と。これは、別段、私が言っているのではなく、多くの人がそう思っていたのです。というよりも、ギリシャ神話から儒教に至るまで前近代の主たる思想・宗教は、古代、太古が理想的な時代であり、聖人・賢者はそうした時代しか出ていないのです。ある種の進歩史観の原型を作ったとも言えるキリスト教とて、イエスの再臨という形でしか人間の救済はありません。これは起源=イエスの復活ということでしょう。言い換えれば、古代の復活なのです。古代や太古に偉大な時代があり、偉大な人がいたというのは、日本人のみならず、かなり普遍的な考えだったのです。我が日本近世が産んだ偉大な儒者荻生狙徠は、先王とよばれる聖人が儒学の道を作ったと言ってのけました。狙徠は、そこから、だからこそ、先王の言葉を正しく理解したら、我々は古代の理想国家を日本に作ることができる、と主張するのです。ここでも基本は古代であり、太古です。

それでは、古代・太古は偉大であり、また、賢人・聖人が多くいたのでしょうか。

旧制高校生は凄いか

当たり前ですが、こうした考え方は、理想として古代・太古をもってきただけであって、どんな時代でも愚者・賢人がおり、多くの人は周囲を見ながら、そして、自己の経験に基づいて行動していたはずであって、古代・太古が偉大であったことはなかったでしょう。これは昔と言い換えても同じです。

大学生の教養が低くなったと嘆く人が絶えません。戦前の大学は本科・予科(旧制高校)があり、それぞれ三年制でしたから、併せると六年もありました。今の学部+大学院修士や医学部と同じです。進学率はだいたい2%です。現代は50%を越えています。100人のうち2人、しかも、男子だけの時代と男女が50%以上大学に行く時代とを比較すること自体、ナンセンスというものですが、それでも敢えてしますと、学力は戦前の方があったでしょう。2%の選別された集団ですから、当然です。なにしろ、東京に旧制高校は、一高・東京高校・学習院・武蔵・成城・成蹊の六つしかなく、そこに通う生徒計3600人(一学年200×3×6)が帝国大学への入学を事実上許された人たちでした。その他、私立大学の予科、一橋大学の予科を加えても、せいぜい5000人といったところでしょう。この人数が一年から三年生までいれた全生徒数です。だから、明星大学だけで8000人もいる現代とはそもそも比較になりません。

とはいえ、厳しい入試を突破した旧制高校生の全員が高い教養をもっていたわけではありません。大学進学予備校は戦前の旧制高校受験予備校から始まりました。つまり、昔から上の学校を目指す生徒は、現代と同様に参考書片手に受験勉強をしていたのです。その時、ある旧制高校生(彼とします)が老人になって回想した文章を知ると、旧制高校生といっても、実は現代の大学生とあまり変わらなかったということが分かってきます。彼は、このように書いていました。

「僕のように、教科書と参考書しか読んだことのない中学生(五年制の旧制中学、現在の高校に匹敵する)にとって、保田君のように難解な文章で論文を書く人間はそれだけで驚きあり、畏怖の念を抱いた」

彼は、旧制高校卒業後、帝国大学の文科系で唯一入試があった東京帝国大学法学部(いわゆる東大法)に入学し、結局、大手の不動産会社の社長さんになりましたが、彼が驚いた保田君とは、昭和を代表する評論家であった保田與重郎です。早熟な保田は旧制高校(大阪高等学校)の頃から論文めいたものを書いていたのでした。とはいえ、ここで私が強調したいのは、論文めいたものを書いていた保田ではなく、教科書と参考書しか読んだことがない生徒のことです。こちらの方が数としてはずっと多かったのではなかったでしょうか。その根拠は、これもいい加減な物言いかもしれませんが、知的なものに興味を抱く人間の比率はいつの時代もそれほど高くないからです。彼はごく普通の、今で言う偏差値秀才であり、このような人々は他にも多くいたと思われます。偏差値秀才で一等目にするのはお医者さんですが、私は、知的な雰囲気を湛えたお医者さんを一部の精神科医の他知りません。東大法卒の官僚も少しは知っていますが、知的な人間はあまりいません。知的=高偏差値という「常識」はそろそろ捨てた方がよろしいかと思います。

そして、今度は称讚された保田の方に目を向けましょう。普通の旧制高校生を驚歎させた、保田の論文もどきは、現在の保田研究によって、だいたいが当時のそれなりの著名だった評論家の文章をかなりパクったものだったことが判明しています。敢えて保田を弁護すれば、明治以降、何かものを書こうと思ったら、パクリから始めるしかなかったようなのです。だからといって、保田の行為は褒められたものではありません。ともかく、そこから、かの保田だって、それほどたいした教養や知識をもっていなかったということが分かります。

こうしてみると、彼と保田との間に読書経験の差はかなりありながらも、それは言われるほど絶望的なものではないということになります。知への関心、ならびに、自己表現を通して自分をよりよく見せたい願望が保田の方が高かったことは確実ですが。

私はこのことを知って、旧制高校生の教養もそれほどではないと思うようになりました。はっきり申し上げて、現代のオタクの方が、間口は狭いが深い知識を持っていると思います。

それでは、それ以前の江戸時代、さらに中世はどうでしょうか。

江戸時代・中世の人は教養が深かったか。

数年前100歳で亡くなった祖父は政治家の批判が趣味のような人間でした。そして、必ず田中義一が最後の偉大な総理大臣だったとつぶやいていました。ちなみに田中義一といっても張作霖爆殺事件がらみで退陣した総理大臣だと知っているだけでたいしたものですが、それはともかく、祖父の発言を幼少期から聞いていた私は大人になって、その発言の多くが当時の新聞社説によっていることに気づきました。なんだ、彼は新聞で言っていることをオウム返しで言っていただけなのだ。保田とさして変わらないな、とも言えます。

だが、祖父はどうして新聞を読みそして影響を受けることになったのか。それは初等教育(尋常小学校・高等小学校)、中等教育(商業学校)を出て、きちんと文章を読む訓練ができているからでしょう。私は、暴論だと承知しつつ敢えて言えば、博覧強記の人間は江戸時代以降しか出現していないと思っています。それは、学校システム(江戸時代は塾・寺子屋)・書物(江戸時代以降、書物の多くは板本で出される商品となり、お金を出せば変えるようになりました)といった制度インフラが整備されているからです。中世に狙徠・契沖・宣長のような博識な人はいません。十数カ国語に通じてイスラーム思想をイランにおいてペルシャ語で教えていた故井筒俊彦は、ポマード製造業者の息子ですが、小学校・青山学院中等部・慶應大学予科・慶應大学という通常の学校システムで育ったのです。特別の教育を受けたわけではありません。

だから、最初にこう言っておきましょう。江戸時代には猛烈な教養をもった人がいたと。ならば、中世はどうでしょうか。畠山義総という武将がいました。16世紀初頭の人です。彼は若い頃、三条西実隆の源氏講義に参加して、源氏物語にすっかり魅入られ、能登の守護となっても源氏物語を学びたいという気持ちはずっと一貫していました。しかし、源氏物語のテクストは注釈書など周囲にはありません。そこで、彼が採った方法は、宗碩といった連歌師を通じて、実隆に書写を依頼するというものでした。むろん、大枚を払って入手するのですが、本屋もありません。宗碩を知らないと実隆へのコネをつけることもできないのです。義総はその後、注釈書も欲しくなり、実隆は結果的に『細流抄』という注釈書まで書く羽目になりました。これなど義総の向学心の成果と言ってもよいでしょう。

だが、考えてみてください。あなたが中世に生まれ育って、義総のような勉強できる環境があればともかく、それがなかったとしたら、おそらく字もろくに書けず、和歌・連歌など夢の又夢だったのではないでしょうか。だから、近代がいいとは言いません。近代の方が隠れていた才能や能力を導き出す比率が高いとだけ言っているのです(その代わり、どうやって生きたらよいか分からない人間も大量に輩出しました)。

そこから想像されるように、中世の人はそれほど教養があるわけではありません。しかし、中世を学ぶ人間として最後に、一言だけ申し添えておきましょう。古典(古今・伊勢・源氏物語)が全国に広まるのは中世からです。それは宗祇・宗碩といった連歌師が媒介したからですが、いくら連歌師がいたところで、欲しい人がいないと話は始まりません。室町期の半ばともなると、地方の守護から被官と呼ばれる家来衆まで古典をほしがり、勉強を始めています。連歌師は注文をとって、実隆あたりに書写させてそれをせっせと現地に運びます。このか細いけれども、着実な知の伝授があったからこそ、義総他、山口の大内氏などかなり古典的教養のある武将が出ましたし、近世以降、古典籍を収集する地方大名が現れる素地を作っていきました。やはり、中世は偉大なのです。

最後に、今時の若い者といった物言いは、昔若かった人が今の若者を見て心配と嫉妬がない交ぜになった感情の吐露だと思われます。言わないに越したことはありません。

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