ことばと文化のミニ講座

【Vol.50】 2010.10   田村 良平

能の演技~「型」の意義と伝承

能の「型」とは?

能をはじめてご覧になった方は、たとえそれがどんなに激しい演技を伴う曲目であっても、舞台に張り詰める緊張と、ただならない静けさに、等しく驚かれることと思います。その理由はさまざま考えられる中で、最も大きな原因は、能の演技がすべて厳格な「型」によって成り立っていることにある、と思います。

「型」の定義は複雑です。

演劇における演技とは、究極のところ、人物の心理・内面を表現する行為でしょう。能も演劇の一分野であり、能の「型」はその演技のありようを支える表現ですが、「型」とはただ人物の心理・内面を表現するだけのものではありません。心理・内面の表現を含みつつ、それ以外のさまざま……中には心理・内面とは無縁の、単に無意味な「動きそのもの」も多い……を、一定のスタイルに抽象された(多くは美的な)身体表現によって外形的に表現するもの、と一応は説明できるかと思います。

したがって、個々の「型」により、盛り込まれる意味の多寡も異なります。

たとえば、手を上げ、目のあたりに当てるようにする型を「シオリ」と称します。これは、必ず「泣くこと」を示す演技であり、他の意味は決して持ちませんから、この型の意味は単純明白です。

いっぽう、右手(多くの場合は扇を持つ)を前方に差し出しつつ進み、止まり、左足・右足と引きながら両腕を左右に大きく広げ、左足を右足に揃えるのに合わせて両手も元に戻す型を「シカケ・ヒラキ(サシコミ・ヒラキ)」と称します。これは、能で最も頻出する、最も基本的な型ですが、一定した意味を示す型ではありません。時により、詞章に応じ、さまざまな意味を持つのです。たとえば、正面に松の木があれば、それを指し示す型となります。「われなり」という詞章に合わせてシカケ・ヒラキをすれば自己存在を強調する型になり、さらには、ただ演技と演技の隙間を埋めるだけの無意味なサシコミ・ヒラキも数多くあります。

こうしたひとつひとつの型そのものは、ただ動くぶんには比較的単純で、型と型の推移や展開もそんなに複雑ではありません。ですから、「右手を前方に差し出しつつ正面に進み……」などと覚えなくても、そうした定型を「シカケ・ヒラキ」と記憶していさえすれば済みます。ですから、こうした個々の型の組み合わせで成り立っている能の演技全体は、言葉によって記録もし易いのです。

これは、能に比べて格段に複雑な動きで成り立つ近世の日本舞踊や歌舞伎などでは望めない、能だけの持つ特徴かもしれません。

世阿弥時代の能の「型」

型に関する現存最古の記録は、世阿弥(1363~1443年)関連の文書に記された断片さまざまの記述です。世阿弥の談話を子の観世元能が筆記した『申楽談儀』(1430年成立)は特に能の個々の演技について印象的な記録を満載、貴重です。

たとえば、山に捨てられて死んだ老女をシテ(主役)とした能〈姨捨〉後半、老女の精魂が出現し月光の下で舞う場面について、こうあります(以下、引用文の漢字・仮名遣いは適宜変更)。

「月に見ゆるもはづかしや」、この時、路中に金を拾ふ姿あり……向かへる人に扇を  かざして、月をば少しも目にかけで、かい屈みたる体にあるゆゑに、見苦しき也。「月 に見ゆるも」とて、扇を高く上げて、月を本にし、人をば少し目にかけて、をぼをぼ とし、し納めたらば、面白き風なるべし。

ここでシテは、傍観者であるワキ・旅人の目の前で舞っているのですが、世阿弥が言うには「月をば少しも目にかけで」、すなわち「空の上の月の存在に少しも注目せず」演技をするのは損だ、と教えています。つまり、この演技の部分で謡われる「月に見ゆるもはづかしや」を、月に対する恥じらいを主、旅人に対する恥じらいを従とし、双方に掛けて演ずると余韻があって得なのだ、というわけです。「路中に金を拾ふ」とは、「歩いている途中で偶然、黄金を拾う」という意味ですから、今で言う「濡れ手で粟のボロモウケ」のこと。「ただでさえここはウケやすい部分なのだから、型の扱いさえ工夫すれば、それだけ観客に感動を与えるのは簡単だ」というわけです。

「型」の固定化とその意義

能の型が固定化するのは江戸時代でした。江戸幕府によって保護・再編された能の世界は、家元制度の下、厳格な保守主義に傾きますから、流儀によって定めの型というものが家元(大夫)の権威とともに定着、自由な演技が厳しく制限されるようになります。

それに先立つ桃山時代にも、こうした傾向のきざしは見られました。いわゆる「型付(かたつけ)=文書に記録された能の演技書」が盛んに記されるのもこの時代からです。ちなみに、世阿弥時代には厳格な意味での「型付」は存在しませんでした。

これは、型そのものに権威が生じ始めたことに加え、能を演ずる層が拡大、素人を含めてさまざまなところで能が上演されるに従って、身体で覚え込むだけの「口伝」だけでは伝承が追い付かなくなったことが大きな原因といえるでしょう。

豊臣秀吉(1537~98年)はたいへんな能好きで、自身でも凝ってさまざまな能を演じたことはよく知られています。秀吉が愛顧し、その養子・秀次(1568~95年)への能の指南を命じたのは、金春流の素人役者ながら名手として知られた半僧半俗の武将・下間仲孝(1551~1616年)でした。仲孝はもともと秀吉に対抗して大きな軍事勢力を有した本願寺の坊官(事務官)です。幼少の頃から身体のみで覚える、本格のプロの芸であったはずはありません。したがって、金春座からの伝授をもとに自ら作成した能の型の記録は、自身にとって大切な備忘録として、当時類例のないほど詳細なものでした。

たとえば、仲孝の型の記録である『少進能伝書』のうち、能〈芭蕉〉の項を見てみましょう。

「誠を見えば」と脇を見る。「いかならん」と面を正面に直し、「思へば鐘の声」と  足を引き、「諸行無常」と聞き、「なりにけり」と面を入る。

ここは、中年女性の姿に変じた芭蕉(植物)の精が、地謡の「誠を見えばいかならんと、思へば鐘の声、諸行無常となりにけり。諸行無常となりにけり」に合わせて消え失せる場面です。当時の能の型を記す文書の中でも、上記引用は最も詳細な記述に属します。

これは仲高自身の必要と同時に、仲孝に能を学ぶ素人が、文書によって演技を学習しようとした要請にもよるもので、いわば能の参考書。前述したような能の型の単純さが、こうした演技直結の参考書の執筆を可能にするのです。

先述のとおり、江戸時代以降、能の演技の固定化と家元制度の権威化に従って、能は演者の自由に演ずることができなくなり、型付に従う以外ないという逆転現象が生じます。その流れの中で、型付は一種の秘書として伝承の核心に位置し、容易には公開されない文書に祀り上げられてゆきます。

こうした型付万能主義の結果、型付はますます詳細になる逆説が生じます。なぜなら、先ほどの『少進能伝書』をもういちど見て下さい。桃山時代当時としては詳細だとは言え、試しにこの文書どおり動いてみましょう。すると、おそらく十人十色の演技になってしまうはずです。

演技に自由さが許された桃山時代ならばまだしも、江戸時代にこれでは困るのです。型付を見るべき限られた者、みな同じ演技が再現できる必要があるのです。

次に挙げるのは、〈芭蕉〉同一部分の他の型付。これは江戸後期の筆写、ある流儀で現在も通用するものです。

「誠を」と左から脇へアシライ、少し出、「思へば鐘の声」と面少し下げ、左の足より正へヒラク。このヒラク時面下げるは鐘の声を聞く心にてはなし。次にて面引き上げる為にここは面下げると御申候也。「諸行無常」と面引き上げ正をキット見、ここにて鐘を聞くと御申候。「なりにけり」と面切ることなしに中入仕候也。

文書の流れで、この場面でシテが舞台上のどの位置に立っているかは確定できます。それさえわかれば、おそらく、ちょっとでも能を学んだ経験のある人ならば、動きそのものはこの型付で完璧に再現できます。能楽界で現在実用に供されている能型付は、先ほども述べたように、普通は秘され決して公開されませんが、実際はみなこの程度の詳細さを完備しています。また、それだからこそ、能の演技が一定の水準を保って保存されてきたわけです。江戸300年の間、能の型がいかに固定化し精緻になったか、こうした事柄からも充分に分かるでしょう。

「型」を演ずること・「型」を見ること

とはいえ、能は演劇ですから、伝承に基づく型をただ再現するだけでは、多くの場合なんの感動もありません。能のむつかしさ、面白さは、実は、固定的な型に演者それぞれがいかに生命を吹き込むか、にあるのです。その意味で、いかに詳細に記されていようと、型付はあくまで紙きれに過ぎないとも言えます。

はじめに触れた〈姨捨〉の能は、現在では秘曲として重んぜられ、プロの役者であっても誰もが演じられるものではありません。上演が制限される能ですから、それだけ型も固定しています。
平成21年(2009年)、当代を代表する能役者・梅若玄祥(1948年~)がこの能を演じ、きわめて優秀な成果を挙げました。私が感心したのは、20分以上にも及ぶ長大な序ノ舞の一部でした。

序ノ舞は多くの能でも舞われ、それぞれの能でたとえシテの性格がどう異なろうと、囃子の譜も舞の型もまったく共通です。ただ、〈姨捨〉は秘曲だけあって、全体が4プロックに分かれる中の3ブロック目=二段目に、「弄月」と称する、観世流〈姨捨〉の序ノ舞に限って挿入される印象的な型が見られます。

序ノ舞二段目冒頭、シテは舞台向かって左の角柱あたりで右手から左手へ扇を持ち替え、そのまま左に回り込んで舞台奥に進み、前を向いて安座、上空の月を見上げます。この見上げる型が「弄月」で、開いたまま左手に抱え込んだ扇に月を映すようにし、空と扇を交互に見込むのが風情あるものです。

ふつう、序ノ舞二段目で扇を左手に取ると、その手は下に下げてしまいます。が、玄祥は扇を左手に取り直したまま、その手を下げずに常座に行きました。ただそれだけのことですが、これこそ能の型の秘密というべき巧みな扱いだったのです。

玄祥は序ノ舞二段目冒頭で、やや上空を仰ぎ見るように、月に心を留めていました。そのあと、左手に扇を取り直します。とうぜん、ここでは直前の「月を仰ぐ」演技の余韻があります。そこで左手を下げてしまうと、どうでしょう。手を下ろすことによって舞に明確な段落が付きますから、その「余韻」も消えてしまいます。が、左手を下げずに保ったまま動き続けると、左手の緊張が持続し、「余韻」も消えずに続きます。左に回り込むのは「弄月」の型のためですから、この「余韻」と「弄月」とは、同じく「月への執心」という一点でつながります。さらに玄祥は、二段目冒頭から「弄月」、それを済まして立ち上がるまでの長時間、終始ほとんど面を動かさず、上空の月に面を向け続けていました。そこに立ち顕れたのは、孤独に死した老女が、死後の今も月に抱き続ける強い執心。そして、それこそ能〈姨捨〉の主題なのです。

以上の演技は、基本的に観世流〈姨捨〉の定型に則っています。が、部分部分で手をどうするか、面をどう扱うか、そこまで型付に指定されているわけではありません。いわば、玄祥は「型付の行間を読んだ」のです。決まった型の合間をどう埋めてゆくか、それによって能は活きもし、死にもするのです。こうしたことに気づいた時、誰しも能は実に面白い、深いドラマであると知ることでしょう。

演劇としての能を語るということは、あえて断言すれば、型を語るということにほかなりません。厳密な資料検討と、実地批評の眼と、このふたつが相伴わない限り、私たちの前に能の真実は姿を表わしません。

型あればこそ、役者の一挙手一投足までが芸術表現に昇華した古典演劇・能。長い歴史の中でその洗練の極致に至った過程と現在の姿を考えるにつけ、興味の尽きることはありません。

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