ことばと文化のミニ講座

【Vol.49】 2010.9   青山 英正

土地から歴史を読む——武市半平太と坂本龍馬

「土地を読む」ということ

9月初旬、育星会主催の地区懇談会のため高知に行ってきました。育星会とは在学生の保護者によって組織される団体で、毎年この時期に地区懇談会というイベントを実施しています。これは、教職員が全国各地に出張し、保護者の皆様に大学の現況や就職活動についてご説明したり、また各学科の教員が個別面談をおこない、学生の成績・授業出席状況などをお伝えしたり、ご質問にお答えしたりするというものです。

とりわけ地方会場にお越し下さった保護者の方々からは、ふだん離れて生活しているお子様の、大学での様子を知る良い機会としてご好評をいただいていますが、教員にとっても、学生の意外な一面を保護者の方々からうかがうことのできる、たいへん有意義な企画です。また、これまでなかなか足を運ぶ機会のなかった土地に行けるということも教職員にとっての楽しみの一つで、今回私は、空き時間を利用して大河ドラマ「龍馬伝」で盛り上がっている高知市街を貸し自転車でめぐってみました。

陣内秀信氏の『東京の空間人類学』(ちくま学芸文庫、1992年)を読んで以来、ある土地を訪れた際には、「その土地を読む」のが私なりの楽しみ方になっています。陣内氏の上記の著書は、「建物にしても道にしても決してばらばらということはなく、ある文法によって構造化され、文脈をもって並んでいる」ことを教えてくれました。建物も道も、偶然そこにできたのではなく、太古の原地形や時代時代の信仰、政策のあり方などによって必然的にそこに配され、それが長い歴史の中で蓄積されて現在の都市を形づくっているというのです。その必然性、言い換えればその都市を形づくる「文法」を読み取ること、これが私の言う「土地を読む」ことです。

たとえばある寺院を訪れたとしましょう。たいていのガイドブックは、その寺院の歴史や著名な建物・仏像といった、いわゆる見どころについてならば教えてくれます。つまり、その寺院が「何」であり、そこに「何」があるのか、といった「何」に関する疑問には答えてくれます。しかし、その寺院が「なぜ他の場所ではなくここにあるのか」といった、「なぜ」に関する疑問については、ほとんど答えてくれません。学問という営みにとって、というと堅苦しく聞こえますが、要するに物事を立体的に理解し、楽しむためには、この「なぜ」の問いがとても大切だと私は思います。なぜ神社がここにあるのか、なぜここに墓地があるのか、なぜここであの有名な事件が起こったのか、などとまずは問うてみるのです。神社や墓地は、過去に生きた人々のうちのだれかが、「ここに神社を建てよう」「ここに墓地を作ろう」などと決断してそこにあるのですから、「なぜ」と問うことでその人々の思考に迫ることができるでしょう。また事件というものも、その歴史上の意味まで含めて考えれば、たとえそれ自体が偶発的なものであったにせよ、地形や政治・経済などのさまざまな条件が揃ってはじめて成り立つと考えられます。ある場所を訪れた際、このように「なぜ」と問うことで、その土地がだんだんと読めてきます。

高知の町の「文法」

図1:高知中心部マップ (高知市観光協会)
図1:高知中心部マップ
(高知市観光協会)

高知では、ガイドマップ(図1)片手に、坂本龍馬誕生地(図中A)と武市半平太(瑞山)の道場跡(同B)を訪ねました。 現在はどちらにも碑が立っているばかりで、パックツアーであればあわただしく写真だけ撮って立ち去るところかもしれません。しかし私は、その周囲を見渡し、また地図を眺めながら、「なぜ龍馬のような人物がここで生まれたのか」「なぜ半平太はここに道場を構えたのか」と考えてみました。そして、城下町の東西に分かれたこの両地点の隔たりが、かたや脱藩して薩長同盟成立に奔走した龍馬と、かたや土佐勤王党の領袖として藩の実権を握った半平太という、二人の気質や事績の違いを端的に知る手掛かりになるのではないかと思うに至りました。

それを説明する前に、高知の町がどのような「文法」によって形づくられているのかを見ておきましょう。言うまでもなく、高知は土佐の大名山内家の城下町です。現在の地に城が築かれたのにはいくつかの理由があります。まず、ここは高知平野のほぼ中央に位置しており、都市としての発展性が見込めます。また、鏡川と江ノ口川という二つの川に挟まれていて水利が良いだけでなく、その二つの川の間には大高坂山という小高い山があり、攻め落としにくく守りやすい地形(要害と言います)でもあります。江戸時代の城下町としては理想的な立地と言ってよいでしょう。

図2:天保元年高知之図
図2:天保元年高知之図

山内氏は、土佐に入国するとまず大高坂山に城を築きました。そして、その城を取り囲むようにして、直属の家臣団(上士)の邸宅を配置しました。これも城の防衛を考えてのことです。この上士層の邸宅が並んだ区域はさらに外堀で囲われ、「廓中」と呼ばれました。図1の青線で囲った部分がそれです。現在は外堀の大半が埋め立てられましたが、江戸時代末期の天保期の地図(図2)には、堀がはっきりと描かれています。

さて、図中のAとBという龍馬と半平太ゆかりの地を見ると、二人とも武士であるにもかかわらず、どちらもこの郭中から外れています。なぜでしょうか。実は、二人とも上士よりも格下の郷士という身分でした(後述するように、正確には半平太は白札という上士と郷士との中間の身分でした)。土佐藩では武士階級の身分制度が厳格で、郷士が郭中に居住することは許されなかったのです。江戸時代の高知の町は、地形という土台の上に身分制度という社会規範が重なって形づくられていました。

龍馬と半平太

ともに郭中には住めない武士であるという共通点に結びつけられて、半平太と龍馬は一時期たいへん親しくなります。半平太の結成した土佐勤王党に龍馬が署名したのも、こうした身分上の共通点があったからだと言えるでしょう。しかし、同じく郭外にあったとはいえ、Aの龍馬の生家は郭中の西のすぐ外れ、赤線で囲った上町と呼ばれる区域にあったのに対し、Bの半平太道場跡は東の外れでしかも緑の線で囲った下街と呼ばれる区域からも外れた場所にありました。この違いを読み取ると、彼らが後に別々の道を進むようになったことも理解できます。

まず龍馬の生家ですが、このあたりにはかつて奉公人町という町があったように武家奉公人の居住地で、のちに町人の雑居が認められた区域です。そして、坂本家はもともと才谷屋(さいだにや)という土佐屈指の裕福な商家が、武士の権利を買うことによって分家して立てた家でした。つまり、もともと城下近くに店を構えていた商家が、坂本家のルーツでした。龍馬が現代の株式会社に似通った組織とも言われる亀山社中を興したり、人の心にすっと入り込み、薩長同盟や大政奉還といった難しい交渉を成功に導いたりといった事績を残したのも、坂本家が武家的な誠実さを重んじる一方で、プライドに凝り固まらず機敏に潮時をはかる商家的な気質を残していたからだと思われます。

いわば、武家的なモラルと商家的なモラルを併せ持っていたところに龍馬のユニークさがあり、それは才知に走りすぎて破滅した同じ上町の商家出身の近藤長次郎とも、武士らしく忠誠を貫き通したがゆえに切腹することになった武市半平太とも異なる点です。また、本家の才谷屋は上士層へ金も貸していましたから、龍馬は、上士が表面上はどれほど威張っていてもその懐具合が厳しいぐらいことは見抜いていたはずです。彼が武士に対する幻想的な憧れを持たず、藩という組織の中で出世を望まずに脱藩という道を選び、日本中を奔放に駆け回り、浪人の身でありながら時に諸藩の首脳クラスと対等に渡り合ったのも、郭中に程近い場所にありながら郭中から外れている、いわば城と上士層との間の縦の硬直した関係を、第三者的な立場から横目で眺めることのできた龍馬生家の絶妙の位置が、龍馬という人物を育んだからではなかったかと私は考えています。

一方、武市半平太の家はもともと高知城下ではなく、現在の高知駅から南東に10kmほどの山村にありました。武市家は坂本家と異なり、豪農から郷士に取り立てられた家でした。つまり土地持ちです。また、半平太の数代前に、上士に準ずる白札(しらふだ)という身分にまで昇格していました。土地と濃密に結びつきつつ地道に数世代かけて身分の階段を昇りつつあった、それが武市家でした。そして、若くして当主となった半平太はいよいよ高知城下に転居し、図中のBに道場を開くのです。これは、明治以降の青年が東京に上り、一旗揚げようとする行動とよく似ています。自らの文武の才能を信じる若者が、代々の宿願を今こそ果たそうとする意気込みが感じられるのです。

しかし、半平太の前には身分の壁が立ちふさがっていました。半平太が道場を開いたBの地点は、郭中から遠く離れ、城下町の東の外れに位置しています。図中の緑の線で囲んだ下街という区域は商人の町でした。このことは地名からもうかがえます。たとえばこの区域にある境町・京町といった町名は商人の出身地を指しますし、紺屋町・細工町・材木町・八百屋町といった町名は、その職種の人々が多く住んだことに由来します。この下街のさらに東側の外れに、半平太は道場を構えました。要するに彼は、上士の居住区である郭中にも、商人の町にも入り込めなかったことになります。それでも下街のへりに接するかたちで、出来る限り城に近い場所を選んで住んでいるのが半平太らしさです。郭中にも商業地にも入れないけれども、ベクトルはまっすぐ高知城に向けられて、ぐいぐいとねばり強く食い込んでゆく。そして、その視線の先にはさらなる高みとしての朝廷が映っている。これが彼の思想と行動の特質でした。

半平太は打算抜きに、生まれながらの上士よりもいっそう強い忠誠を藩に対して尽くそうとしました。半平太は郷士を中心として土佐勤王党を結成しますが、龍馬のように脱藩はせず、藩の中枢に自分が立ち、土佐藩を勤王へと動かそうと考えました。前藩主山内容堂に結果的に見捨てられても、彼はあくまでも藩の中にとどまり続けました。早々に藩というものを見限った龍馬とは対照的です。図中のCは、半平太が切腹した牢屋敷のあった場所です。半平太の目指し続けた高知城天守閣からすぐに眺め下ろせる地点が、彼の最期の地であったとは何とも酷でありますが、しかしこれこそが半平太の望んだ人生だったようにも思われます。

龍自由民権運動を読む

さて、このようなことを考えながらガイドマップを眺めていると、図中のDに板垣退助の生誕地が、Eに後藤象二郎の生誕地があることに気づきました。二人とも、かの有名な自由民権運動で活躍した人物です。自由民権運動とは、額面通り受け取れば国民の自由と権利を要求する運動ということになりますし、高校でもそのように教わったかと思います。しかし、図を見ると一目瞭然であるように、この運動の先頭に立った板垣と後藤は、ともに郭中の出身、すなわち上士にほかなりませんでした。さらに言えば、実は二人は上士の中でもトップクラスの人物で、藩というピラミッド型組織の頂点に近い地位にいました。そして、身分の低い郷士層を中心に結成された武市半平太の土佐勤王党を弾圧したのは、まさしく彼らだったのです。このことは何を意味しているのでしょうか。そもそも、板垣や後藤にとっての「民」とはどのような人々を指していたのでしょうか。高知という土地の「文法」を読むことが、自由民権運動の新しい側面に光を当てる手掛かりになりそうです。

日本文化学科には「日本文化研究」という科目があります。これは文献にとどまらず、実体験を通じて日本文化を知るというものです。担当教員によって、古典芸能鑑賞や落語鑑賞、言語調査などさまざまなプログラムが用意されていますが、今年度担当だった私は、多摩という身近な土地を読むという実践を、文献調査と実地調査とを織り交ぜておこないました。身近な風景にも、その奥底にその土地なりの「文法」を持っています。それを体感的に知ることが出来れば、見過ごしがちな風景もそれ以前とは違った新鮮なものに見えてくるのではないでしょうか。

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