ことばと文化のミニ講座

【Vol.47】 2010.6   前田 雅之

古典的公共圏とは何か

公共圏とは

公共圏、「これって何?」というのがこの言葉を聞いて思いつく最初の感想ではないでしょうか。公共といえば、公共交通機関から連想される私有ではない皆のもの、皆に共有されているものといった意味合いが普通想起されるものでしょう。しかし、ここには「公共」に「圏」なるものがくっついています。だから、一層のこと、何のことだが分からなくなるのでしょう。今回は、この言葉からはじめて、「古典的公共圏」という私が造語=命名した「公共圏」のことを考えてみます。

ドイツの社会哲学者にユルゲン・ハーバーマスという人がいます。たくさん本を書いており、どれも皆難解です。ある人は現代思想のチャンピオンだと言っていますから、きっと偉い人なのでしょう。私も偉い人だとは思いますが、彼の民主主義観にはどこかついて行けないところを感じております。それはともかく、この人に『公共圏の構造転換』という本(翻訳では『公共性の構造転換』、未来社、原著1962年、翻訳1973年、改訳新版1994年)があります。ハーバーマスを一躍学界・思想界のスターダムにのし上げた本であり、事実上の処女作(博士論文)です。

その本のなかで、ハーバーマスは、二つの公共圏を上げています。一つは、前近代的な「代表具現的公共圏(repräsentative Öffentlichkeit)」であり、もう一つが近代的な「市民的公共圏(bÜrgerliche Öffentlichkeit)」です。

のっけから、なにやら難しそうなことが書いてある、面倒だな、もう読むのをやめようかと思っている人がいるかもしれません。もう少し我慢して付き合ってください。なぜなら公共圏の問題は、私たちにとっても重要な問題だからです。

代表具現的公共圏の内実

二つの公共圏のうち、ここで議論するのは、最初にあげた「代表具現的公共圏」です。というのも、私の関心である古典や前近代と絡んでいるのがこちらだからですが、それにしても、「代表具現的公共圏」とはどんな意味なのか。まずもって、何が言いたいのか、皆目訳の分からない命名であり、誰がどうしたらこんな翻訳になるのか、不思議なのですが、まずは、原文から見ておきましょう。

原文のrepräsentative(ドイツ語)は英語ではrepresentativeとなります。このrepresentativeは通常「下院議員」の意味で用いられます。ええ、また混乱してきた?悪いがもうちょっとだけお付き合い下さい。なぜこの単語が下院議員の意味になるのか、ここから説明していきましょう。下院議員とは、ヨーロッパ議会では国民議会のことであり(上院は貴族の代表です)、「国民の代表」という意味です。これをとにかく押さえておきたいのです。

それでは、どうして「国民の代表」という意味になるのか。それを理解するために、この言葉を分解してみます。representative はre+present(ative)と分解されます。re=再び、present=現れる、そこにいる、存在している、出席しているという意味です。二つを合わせると、「再び現れる」という意味になります。そこから下院議員の意味になるのは、そう難しくありません。「国民が再び現れている」状態が国民の代表という意味であり、それを具体的に示すのが下院議員になるからです。国会でご活躍中の衆議院議員(これが日本の下院です)の人達は、皆さん国民の代表なのです。彼らを莫迦にすることは、自分たち国民を莫迦にしているのと同じだくらいの良識をここで養ってください。少なくともこの国も主権在民なのですから。

だが、「代表具現的公共圏」の「代表具現(repräsentative)」は下院議員のことではありませんし、国民を代表するという意味でもありません。いったい何を代表しているのでしょう。またまた混乱してきましたか。これについて、ハーバーマスは、以下のように述べています(重要なところには下線を引いておきます)。

たとえば国民や特定の委任者たちの代理という意味での代理は、主君の具体的現存にまつわる彼の権威に或る種の「威光」を与えるこの代表的具現の公共性とは、まったく無関係なものである。国君が聖俗の領主たち、騎士や高僧や都市を左右に侍らせるとき(あるいはドイツ帝国で一八〇六年までまだおこなわれていたように、皇帝が諸侯や直参伯爵や直轄都市や修道院長を帝国議会に召集するとき)、それはだれかほかの者を代理する代議員の集会ではない。君主とその議会がとりもなおさず国そのもの「であるのであり」、これを単に代理するものでないかぎり、彼らは或る特殊な意味において代表することができる。すなわち、彼らは、彼らの支配権を人民のためにではなく、人民の「前で」具現するのである。

どうです?お分かりになりました?やっぱりというか、とてつもなく面倒くさい言い方をしていますので、私なりに簡単にかつあっさり言い換えましょう。

池田理代子さんの名作コミック『ベルサイユの薔薇』(宝塚歌劇で何度も上演されました)の冒頭から少しいったところに、マリー・アントワネットとデュ・バリー夫人とが対立するシーンがでてきます。対立の中身は、デュ・バリー夫人が求めているのに、マリー・アントワネットは夫人に挨拶しないということです。「なあんだ、そんなこと、無視されてるだけじゃない」とお思いかもしれませんが、これが大問題なのです。結局、夫人は、手練手管を使ってマリー・アントワネットからの挨拶を実現させます。だから、この勝負、デュ・バリー夫人の勝ちとなったのですが、それでは、夫人にとって、どうしてマリーの挨拶が必要なのか、ここに「代表具現的公共圏」の秘密が隠されているのです。

夫人にとって自分になされるマリーの挨拶とはマリーという一個人の挨拶ではない、このことを最初に理解してください。挨拶とは、王妃マリーにまつわる、目には見えないが確実に存在する、フランスの威光が自分にも及んでいることの証拠なのです。再び言い換えてみましょう。つまり、マリーが挨拶によって代表するのは、いうまでもなく、フランス国民ではありません。マリーは国民の代表ではないからです。そうでなく、マリーの挨拶には、フランス国王ないしはフランスそのものの威光・栄光が意味されているのです。とすれば、夫人にとって、マリーから挨拶されることは、フランスに認められた、公認されたという意味になるのです。だからこそ、育ちが悪く愛人から貴族の妻の座を得た夫人にしてみれば、何が何でもフランスに認められなければならないのです。そこで、マリーに挨拶させるべく頑張ったということです。したたかながら、ある意味でけなげな態度でもありませんか。夫人にはこの生き方しかできないからです。

ここから、この「代表具現的公共圏」がどんなものか、おぼろげながらお分かりになってきたでしょう。日本のテレビドラマで言えば、『水戸黄門』にこれが典型的に示されています。ドラマの最後の場面です。格さんは印籠を掲げながら、

この紋所が眼に入らぬか~!こちらにおわすお方をどなたと心得る。おそれおおくも前(さき)の副将軍、水戸光圀(みつくに)公にあらせられるぞ!一同、ご老公の御前である。頭(ず)が高い!控えおろう。

と、皆に向かって叫びます。すると、そこにいる人間は一斉に水戸黄門に向かって土下座します。その後、悪の代表たる家老や廻船問屋(大概二人はグルですが)が退治されるという次第となりますが、見ているお父さんやおじいさんにとっては、日頃のフランストレーションを解消させることができる一等大事な場面です。このシーンのためにそれまでのドラマがあるといっても過言ではないでしょう。

だが、「代表具現的公共圏」の視点でこのシーンを見直すと、市井の「ご隠居」から天下の「ご老公」に変身すること、即ち、そこに紛れもない「前の副将軍、水戸光圀公」 こと水戸黄門(黄門とは「中納言」のこと、ちなみに副将軍なる言い方はありません)がその場に現れることによって、その場所が公共空間に変じてしまったことがお分かりになるでしょう。だから皆は土下座するのです。

水戸黄門がいることによって、通常の空間が制度的(身分的に秩序づけられた)公的空間に変わる。そうなるのは、言うまでもなく、水戸黄門が徳川幕府の栄光を代表する存在だからです。そこにいるのは、単なる「ご隠居」ではなく、徳川幕府の権威・権力そのものを示した「ご老公」なのです。だから、悪家老も土下座をして控えるしかないのです(たまに刃向かい、助さん・格さんにやられますけれども)。

こうした場面やこうした公的空間のありかた、これがヨーロッパのみならず、日本においても、というよりも、前近代文明社会(日本・朝鮮・中国・チベット・インド・イスラーム圏・ヨーロッパなど)の基本的なありようだったのです。ハーバーマスによれば、

代表的具現の公共性の発揮は、人物の諸属性—位章(印綬と武具)、風貌(衣装・髪型)、挙措(会釈と態度)、話法(挨拶と一般に様式化された語法)

要するに「高貴な」態度の厳格な作法に結びついている。この作法は中世盛期をつうじて、宮廷的な徳の体系となって結晶した。

ということにあります。位章・風貌・挙措・話法といったものが「宮廷的な徳の体系」となり、それらがきちんとできていない人は、一人前に見なされないのです。この辺から鋭い人は「品」なるものの本質が分かったかもしれませんね。品のよさ、上品とは、まさに「宮廷的な徳の体系」の「結晶」なのです。決して人格などを言っているのではありません。

古典的公共圏と和歌

ハーバーマスは上記の本では、明確に述べていませんが、教養も「宮廷的な徳の体系」をなしていました。だから、教養と品性は同根です。ヨーロッパ中世では記憶術が異様に発達しましたが、それは会話の節々にギリシャ・ローマ古典の一節をはめ込むためです。ある一節がはめ込まれて質問されたら、その答えも何かを嵌め込まなければいけない。よって、古典の著名な語句・台詞・詩は皆記憶しておかねばならなくなるのです。

お隣の中国では、宋代以降、科挙という官吏登用試験が制度化し、その試験問題が、『十三経注疏』(儒教の全経典とその注釈)の暗記、詩文の作成、書でしたから、官吏=士大夫になりたい人たちは、皆さん、十三経注疏と古代以来の主要な詩文を暗記しました。その結果、中国では、近代初頭まで古典文化が維持されてきたのです。古典の一節を手紙・詩・会話に引用するのは、彼ら士大夫にとってはごく当たり前のことであり、詩を自在に作れないと、おそらく士大夫の世界で生きることは難しかったでしょう。反面、一生科挙に受からず、悲惨な人生を送った多くの受験生、また、一九世紀以降、西欧に圧力に対して簡単に屈してしまったのも古典主義を守り続けた結果によることも否定できません。それを捨てた日本は近代化に成功しました。反面、古典まで捨ててしまいましたが。

そこで、前近代の日本ではどうだったかを見ておきましょう。延喜五(九〇五)年、『古今和歌集』が編纂されて、以後、永享十一年(一四三九)に完成した『新続古今和歌集』で五〇〇年以上に亙ってなんとか続けられて勅撰集の伝統が見事に物語っているように、科挙も高級官吏採用には使われなかった日本においては、和歌が教養・素養の基本となっていたと思われます。

軍記・語り物研究者である兵藤裕己さんは、以前、

『古今集』の勅撰とは、要するに貴族社会の共同化が天皇の名において一元的に規範化されたことを意味している。(「和歌と天皇」、『王権と物語』、青弓社、一九八九年)

と論じられました。これまたやや分かりにくい文章が、かなり凄いことを言っています。私なりに言い換えてみましょう。『古今和歌集(古今集)』の編纂によって、天皇—貴族体制が和歌を核において完成したということです。つまり、和歌が天皇—貴族体制を繋ぐ役割をしているのです。他のものでは駄目なのです。これによって、和歌ができないと、天皇—貴族体制に入ることが不可能になりました。

『古今和歌集』の頃は、天皇—貴族だけを和歌で繋いでおけばよかったのですが、後鳥羽院が三〇〇年後に編纂させた『新古今和歌集』の時代になりますと、今度は武家(武士)が東国に独自の政権(鎌倉幕府)を立てています。おそらく後鳥羽院はこれも兵藤さんがいうように、「本当の王はこの俺だ」というつもりで『新古今和歌集』を編纂させたのでしょうが、和歌=天皇—貴族という限定はもう不可能になっていました。実際に、後鳥羽院の忠実な和歌の弟子が頼朝の息子実朝であり、実朝に実際に和歌を指南したのが当代第一の歌人藤原定家だったのです。

さらにいえば、白河院が院政を始めた応徳三(一〇八六)年に完成した『後拾遺和歌集』仮名序には既に日本人なら身分の差なく誰でも和歌を読むと理念的に表明されていたのです。それが武士・僧侶が和歌を詠み出して具体化されていくというのが中世という時代であったと言ってもよいでしょう。

鎌倉時代の中期から後期にかけて、まさにモンゴルが襲来してくる直前の弘長年間(一二六一~六四)、鎌倉の地で、御家人後藤基政の編纂になる『東撰和歌六帖』なる私撰集が生まれます。現在はごく一部しか残存していませんが、春・夏・秋・冬・恋・雑の六部立で、おそらく二〇〇〇首以上の和歌が収められていたと思われます。歌人は京都から下ってきた貴族もいますけれども、原則、鎌倉・関東にいた武士たちです。また、執権を務めた北条家も多くの勅撰歌人を出しており、入集歌数では、貴族の最上位に位置する摂関家とそれほど変わりません。そして、室町期に到ると、遂に室町将軍が事実上勅撰集を編纂することになります。これを武家執奏といいますが、こうした事態など『古今和歌集』の頃には想像もできなかったに違いありません。

武士と共に和歌に熱中したのが僧侶たちです。醍醐寺では『続門葉和歌集』というやはり春・夏・秋・冬・恋・雑の六部立の私撰集が作られています。現在、失われた、僧侶編纂の歌集も多くあったことでしょう。勅撰歌人および入集歌数はおそらく北条家の数倍いたと思われます(僧侶の方が武家よりも貴族社会に近いというよりも、貴族社会そのものでもあるので、これは当たり前なのです)。私が調べてみたところ、六代将軍足利義教(一三九四~一四四一) が執奏した最後の勅撰集『新続古今和歌集』の恋部の一六%は僧侶が詠んでいます。僧侶が恋の歌を詠むのは、和歌が題詠となって、題を詠めばよくなったこと、即ち、歌人が自己をどんな立場にすることも可能になったことが大きいのですが、それにしても、和歌が僧侶の世界にも完全に馴染んでいたことがわかる事例ではあります。

私は、和歌によって、[院・天皇—公家(貴族)・武家(武士)・寺家(寺社・僧侶)]が結ばれた世界を「公(おおやけ)」秩序と命名しています。それぞれ職分・職掌・役割を異にした権力集団が和歌によって結ばれる。これが中世という時代から和歌が切り離されなかった最大の理由です。
足利家九代将軍である義尚(一四六五~八九) は、近江に出陣中、惜しくも二五歳の若さで亡くなりますが、異常なほど和歌を好んでいました。近江の陣中でも歌会を開いているくらいです。義尚主催の歌会に特徴的なことは、武将と貴族のコラボレーションになっていることでしょう。義尚の時代が始まった文明五年の二年後にあたる、文明七(一四七五)年に、貴族である甘露寺(かんろじ)親長(ちかなが)が主催した『公武歌合』(貴族と足利幕府の公事奉行人〈=官僚〉の歌合)はその意味で公武の出会いを象徴的に物語るものであったといえましょう。

それまで歌合や百首歌に将軍は入ってもそれ以外の武将はなかなか入らなかった、否、入れてもらえなかったのです。しかし、義尚の『将軍家歌合』(文明一四・一四八二年)などには武将が貴族と肩を並べて参加しています。武将が堂々と和歌を詠み、歌合にも参加する、これが、応仁の乱という大混乱を経た室町中期において達成した、和歌による公武一体化の実像だったのではないでしょうか。

ここで冒頭の「公共圏」に戻りましょう。私は、前近代日本、古典日本といってもよいのですが、現在、古代・中世・近世と呼ばれる時代において、公共圏なるものがあるとすれば、それは天皇・摂関・将軍を上位とする身分秩序を基本とする「代表具現的公共圏」であったと考えています。だが、「公共圏」はそれだけではなかったのです。和歌、そして、ここでは述べませんでしたが、古典(『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』)の教養を基盤とする「古典的公共圏」といえるものも「代表具現的公共圏」に重なりつつあったと確信しています。長く野蛮人扱いをされてきた武士も、古典的教養と和歌を詠む嗜みを身につけて、古典的公共圏の一翼を担うようになったのです。

だから、そろそろ朝廷と幕府の対立といった分かりやすすぎる理解というか、ステレオタイプの当て嵌めなどはやめてしまって、どうして和歌が滅びなかったのか、どうして和歌は明治という近代社会になると短歌と変わったのか、それらを新たに考え直してみる方が日本の文化・歴史を考える上で意味があるのではないでしょうか。

皆さんもこうした地平から和歌そして古典にアプローチしてみてください。きっと稔りある成果があるはずです。

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