ことばと文化のミニ講座

【Vol.46】 2010.5   三橋 正

「仏教公伝」とは?ー仏教の伝来と日本の神ー

〈仏教はいつ伝来したか〉

日本に仏教が伝わったのは、古墳時代のことです。日本で最大級の古墳(個人の墓)は、応神天皇陵(誉田山古墳)・仁徳天皇陵(大山古墳)など5世紀の大王の前方後円墳です。それ以後も前方後円墳は造られますが、次第に規模が小さくなり、7世紀に消滅します。仏教はその中間にあたる6世紀に伝来したので、前方後円墳が消滅した理由の一つにもあげられます。

その仏教はどのようにして伝えられたのでしょうか?

日本への仏教の伝来は、百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典等を届けたという所謂「仏教公伝」であるとされています。その年次について『日本書紀』では欽明天皇十三年の壬申(五五二年)とし、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起(がんこうじえんぎ)并(ならびに)流記資財帳(るきしざいちょう)』では戊午(五三八年)とするなど異なる説があり、また『日本書紀』の記事に中国で長安三年(七〇三)に漢訳された『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の文章が用いられていることなどから、その信憑性が疑われています。内容についても、蘇我氏を中心とする崇仏派と物部氏中心の排仏派との闘争を強調するなど、物語としての潤色の跡を窺わせるところがあります。

しかし、年代の差違や文章的潤色はあるものの、欽明天皇の時に外交の一端として仏像などが伝来したこと、その時に諸豪族(大臣・大連)の存在が大きくて天皇一人で決断できなかったこと、それも一因となって対立が激化したことなどは、すべての史料に共通して記されていることで、史実をある程度伝えていると解釈して良いのではないでしょうか。

〈「仏教公伝」の内容〉

『日本書紀』に基づいて、仏教公伝記事の内容を要約すると、以下のようになります。

百済の聖明王(せいめいおう)が使者を遣わして、金銅仏一体、幡(はた)・蓋(きぬがさ)などの装飾品、そして経典を献上した。添えられた手紙には「仏教は如何なる願いも叶える最高の教えで、世界に広まっている。」と書かれており、天皇はそれを見て喜んだが、使者に「こんな素晴らしい教えは聞いたことがないが、自分では決められない。」と言った。そして、群臣に「西蕃が献じた仏は相貌端厳で、未だ曾てないものだが、礼すべきか否か。」と問うと、大臣である蘇我稲目(そがのいなめ)は「日本だけ礼しないのはよくない。」と言い、大連である物部尾輿(もののべのおこし)は「我が国家が天下に王となれるのは、天地社稷の百八十神に、春夏秋冬、祭拝しているからである。蕃神を拝めば国神が怒る。」として反対した。そこで、天皇は「宜しく情願の人稲目に付して、試しに礼拝させる。」と言い、蘇我稲目はその仏像を受け取って小治田(おわりだ)の家に安置し、懃に出世の業を修し、向原(むくはら)の家を喜捨して寺とした。その後、疫病が流行すると、物部尾輿と中臣鎌子は、その原因が仏像にあると天皇に奏上し、許可を得て、仏像を難波の堀江に流し棄て、伽藍に火を付けた。すると風もないのに天皇の大殿にも延焼した。

以後、蘇我氏と物部氏の対立が続いていくわけです。

〈なぜ、天皇は仏像を蘇我稲目に託したのか?〉

この中で、物部氏(および中臣氏)仏教受容に反対した理由に、日本は天地社稷の百八十神(ももあまりやそかみ)を四季ごとに祭祀しているとあることが注目され、在来信仰からの宗教的反発であると見なされてきました。しかし、この時代の祭祀について考えてみると、古墳に宗教的権威があったわけで、それを「天地社稷」といっているところに潤色の跡が見られます。また、8世紀に成立する「神祇令」で規定されるような年中恒例の祭があったとする考えもありますが、仏教が伝来した古墳時代に確認できる定例の祭儀は新嘗だけですから、先入観を排除して検討すべきでしょう。

従来の研究でほとんど取り上げられることはありませんでしたが、この「仏教公伝」記事で最も注目すべきは、欽明天皇が蘇我稲目に仏像を託して試みに拝ませることにしたという部分だと思います。このことは、『上宮聖徳法王帝説』に「志癸嶋天皇(しきしまのすめらみこと=欽明天皇)の御代、戊午年(五三八)十月十二日、百済国主明王、始めて仏像・経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆せしむる也。」とあることとも一致し、ある程度の真実を伝えていると思われます。そして、この一見奇異に見える仏像の礼拝を委託した天皇の態度に、この時代の祭祀形態と神観念が反映されてることを指摘したいと思います。

〈古墳時代の神と天皇〉

古墳時代の祭祀を復元するには断片的な史料しか残されていません。『日本書紀』推古天皇二十八年十月条は、その貴重な記事で、そこから古墳時代の「柱」祭祀が復元できることは、この講座の第一回でお話ししたとおりです。しかし、そこからは神の姿が浮かび上がってきません。そこで、崇神天皇(すじんてんのう)に関する『日本書紀』の祭祀伝承に注目したいと思います。
崇神天皇(和風諡号〈わふうしごう〉は御間城入彦五十瓊殖〈みまきいりひこいにえ〉天皇)は記紀の系譜上の第十代天皇で、北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣して大和王権の領域を拡大したとされます。それ以前の話として、神祇祭祀により国家を安定させて御肇国(はつくにしらす)天皇と呼ばれたともあり、このことから、実在の初代の天皇であったとする説があるほどです。崇神天皇陵とされる山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりおかのうえのみささぎ)は、三輪山の麓にある長さ二三七メートルの初期前方後円墳で、大和王権成立期の天皇(大王)の墓にふさわしく思われます。

さて、崇神天皇による祭祀の発端は、疫病が流行して民の半数が死亡したことにあります。『日本書紀』では、その翌年(崇神天皇六年)の条に「百姓流離」「背叛」について天皇が神祇に謝罪したところ、それまで天皇の居所内に天照大神(あまてらすおおみかみ)と大国魂神(おおくにたまのかみ)の二神を祭っていたこと、すなわち「同殿同床」が原因と判断され、その神威を畏れ、天照大神を豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に託して倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)に祭らせ、大国魂神については渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に託したが体調不良によって祭れなかったとしています。

七年の条にも、二月辛卯(十五日)に、国が治まらない理由を神浅茅原(かむあさじはら)で八十万神に問い、託宣により大物主神(おおものぬしのかみ)を祭るべきことが告げられ、後の夢で大物主神から子の大田々根子(おおたたねこ)に祭らせれば内憂外患がなくなると言われたこと、さらに八月己酉(七日)に、他の人々の夢でも、大物主神には大田々根子、大国魂神には市磯長尾市(いちしのながおち)が祭る者として指名されたので、大田々根子を捜し出し、占により物部連の祖の伊香色雄(いかがしこお)を「神班物者」とすることも決められたことが記されています。

そして、十一月己卯(十三日)条に、大田々根子・市磯長尾市をそれぞれ大物主大神・大国魂神を祭る主とし、その後で他の神々を祭って天社・国社などを定めたのです。  実際の祭は翌八年で、四月乙卯(十六日)に「大神之掌酒」を定め、十二月乙卯(廿日)に祭らせたとあります。

〈伊勢神宮の始まりと「委託祭祀」〉

これらの記事は、崇神天皇によって多くの祭らなければならない神々が見出され、それぞれに奉仕者が設定されていったことを伝えています。このうち、天照大神については、次の垂仁天皇の二十五年三月丙申(十日)条に、先の豊耜入姫から皇女倭姫(やまとひめ)に託され、伊勢の地で祠を立てたとあります。この伊勢神宮の創祀譚には「一云」として翌年十月甲子の出来事とする異説を載せるだけでなく、同時になされた大倭大神の祭祀について、託宣により最初に命じた渟名城稚姫命が痩せ細っていてできず、大倭直の祖長尾市宿祢に祭らせたとあります。

『古事記』に伊勢神宮創祀譚はありませんが、崇神天皇の段では、大物主大神について意富多々泥古命(大田々根子)を神主として御諸山で祭り、「天神地祇の社」を定め奉ったとし、三輪山伝説へと繋げています。垂仁天皇の段では、出雲大神へ物言わぬ皇子品牟都和気(ほむつわけ)を派遣する際に曙立王と菟上王とを副え、治癒帰京後、菟上王に大神の神宮を造らせたとあります。

これらの話をそのまま真実と見なすことはできませんが、それぞれの氏族の祭祀に関わる伝承がすべて創作であったとは思えません。少なくとも、それぞれの伝承に共通する要素は、大和王権による祭祀の方式を伝えていると考えられます。それは「委託祭祀」とでも呼ぶべき方式で、大和王権の大王(天皇)は、祭祀を必要とする神を見出し、祭祀の適任者を定め、それに託していたのだと考えられます。天照大神(伊勢神宮)へ皇女を斎王として派遣することについても、『日本書紀』にある伝承が『古事記』にないことの意味は別に考察されなければなりませんが、他の神々に対するのと同じ方式が採用されたのであり、皇室にとって特別なものとして残存したといえるでしょう。

〈特別な天皇親祭〉

一般に古代においては天皇(大王)が祭の中心にいたと解釈されています。確かに『日本書紀』では神武東征(神武即位前紀戊午年九月条)に、神武自らが丹生(にゅう)川上で天神地祇を祭っただけでなく、高皇産霊(たかみむすび)を「顕斎(うつしいわい)」して自分に憑依させ、道臣命を「厳姫」という名の「斎主」とする勅を下したとあります。また神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年三月条)には、皇后自らが「斎宮」に入って「神主」となり、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を「審神者(さにわ)」として祟をもたらす神を探り当て、祭ったとあります。しかし、前段で検証した諸例と比較すれば、これらの記述は大王(天皇)による親祭が特別なことであったことを物語っているといえるでしょう。

天皇親祭としては、後に大嘗祭へと展開する「新嘗」が重要で、一般に、弥生時代からの祭だとされています。ところが『日本書紀』を見ると、神代(記紀神話)を除いては、仁徳天皇の記事が初見となります。しかも、次の例である白髪(顕宗)天皇二年十一月の条では播磨国司山部連の先祖である伊予来目部小楯が赤石郡で「親しく新嘗供物を弁」じたことについて「一に云はく、郡県を巡行し、田租を収斂する也。」とあり、神を祭る儀礼ではなかったとも解釈できるのです。この点も含めて、「新嘗」の成立と変遷は慎重に検証すべきでしょう。

〈委託祭祀の系譜と仏教受容〉

以上のように、古墳時代における大和王権の祭祀形態として、委託祭祀が重要な要素を占めていたとするならば、仏教公伝で欽明天皇が蘇我氏に仏像を託して礼拝させたことも、その反映と見なされるでしょう。そして物部氏による反対も、他国からもたらされた神への反発であり、仏教に対する理解が伴われていたわけではなかったならば、あるいは「神班物者」としての職掌と深く関係し、この託宣など一定の手続きを経ていなかったことから起こったと想像されます。

従来から指摘されているように、仏像は「蕃神」「他国神」などと表現され、日本最初の出家者は司馬達等(しばたっと)のわずか十一歳の娘(善信尼)でした(『日本書紀』敏達天皇十三年条)。伝来当初の仏教は在来の神と同じ次元(神観念)で受け取られ、出家者(尼)にも伊勢神宮に対する斎王(斎宮)と同様に巫女としての性格を持たせていたことは間違いありません。すなわち、神仏の関係の歴史が混淆(同化)から始まり、その後になって、仏教に対する理解が進むにつれて、仏教からの独自性をも主張する神祇(神道)が形成されたと見るべきでしょう。その変化の過程については、古墳祭祀のもう一つの重要な要素である「柱」祭祀の復元からも窺い知れました。

委託祭祀が仏教受容に及ぼした影響は、聖徳太子の時代にも認められます。『日本書紀』推古天皇十一年(六〇三)十一月己亥朔条に、太子が諸大夫(まえつぎみたち)に「自分が持っている尊い仏像を、誰か恭拝しないか。」と言ったところ、秦河勝(はたのかわかつ)が進み出て「自分が拝む。」と言い、仏像を受け取って蜂岡寺(はちおかでら)を造ったとあります。このことは『朝野群載』(巻二・文筆中・縁起)所収承和五年(八三八)十二月十五日付「広隆寺縁起」にも記されており、その像こそ仏像の国宝第一号となった広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だとされています。聖徳太子はこの素晴らしい仏像を祭り続けなければならないとしながら、自らのもとに置かず、然るべき奉仕者を探し出し、託したのです。

もちろん、仏像だけではありません。『日本書紀』斉明天皇五年(六五九)是歳条に「出雲国造(いずものくにのみやつこ)に命じて神の宮を修厳せしむ。」とある出雲の熊野大社(=出雲大社)造立も、国造への祭祀委託の表われと見ることができます。

さらに律令祭祀における祈年祭・月次祭での班幣(はんべい)制度の源流もここにあるといえるのではないでしょうか。従来の研究では、班幣を国家(天皇)による在地祭祀権の統制のように捉える傾向が強かったように思いますが、委託祭祀の展開と見ることによって、新たな位置づけがなされることになるでしょう。

さらに、仏教と在来信仰との関係から「神道」が形成されてていく過程を検証する必要がありそうです。

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