ことばと文化のミニ講座

【Vol.40】 2009.9   田村 良平

皇室と能楽~近代の能・狂言の始発~

平成21年11月12日は今上天皇御即位20年の記念日とて、その前後一年間にわたりさまざまな祝賀行事が執り行われています。案外知られていませんが、古典藝能の中でも能楽=能・狂言は、明治初期に文字どおり存亡の危機に晒された過去がありました。これは、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)には決して見られなかった事態です。そして、この危機を救った最も大きなきっかけが、天皇家=皇室の人々の、能楽愛好の風潮でした。このことは、能・狂言の、藝能としての特殊なありようを示す象徴的な事実のように思われます。

ここでは、以上のことがらをめぐって、能・狂言が経てきた近現代への転換の道筋を、簡単に考えてみたいと思います。

明治初年の能楽衰退と復興

武家の生活に欠かせない儀礼藝能=式楽(しきがく)として、江戸時代を通じ幕府に手厚く保護された能・狂言。これを担う能役者たちは、1868年の徳川幕府崩壊=明治維新を迎え、一挙に生活苦に晒されます。その直面した苦難は、現代吹き荒れるリストラの嵐以上の激しいものでした。

江戸時代に能役者筆頭の家格を誇ったのは、観阿弥・世阿弥の藝系を伝え、初代将軍・徳川家康の絶大な愛顧を受けた観世大夫(現代で言う「シテ方観世流家元」)で、その禄高は年に250石。この表面だけを見れば、幕府直属の武士の中では比較的軽い経済力のように見えます。が、能役者は、年間を通じて臨時収入の機会に事欠かない藝人です。舞台出演や素人への稽古指導、そのほかさまざまな局面での度重なる謝礼金や心づけ(チップ)の額は馬鹿になりません。また、幕府に直属する者は(すべての能役者がそうだったわけではありませんが)、他方で多くの大名家にも出入りし、別途その扶持(固定給与)を受けることも許されていました。したがって生活はまことに豊かで、実収入は禄高に数倍するものでした。例えば、武家より上の身分である公家(貴族)の生活を考えた時、天皇に近侍して日本最高の家柄を誇る五摂家の中でも、鷹司家の禄高は年に総額わずか1,500石に過ぎなかったのです。能役者たちは、表面でこそ武士に準ずる立場とはされたものの、深層では「河原者の猿楽役者」、卑しいものとみなされていました。貴族のように身分にふさわしい体面を整える必要もなく、高級武士のように多くの家臣を抱える必要もなく、高価な装束類も将軍家・大名家などから下賜された能役者たちは、扇一本を携えて自分の藝さえ磨いていれば済む身軽な立場ですから、生活するには充分以上の経済力を保持していたと言えます。

明治維新を迎え、最後の将軍・徳川慶喜は、初代家康ゆかりの地・駿府(静岡)に隠棲します。この時、忠誠を誓う数多くの幕府直属の武士たちが、慶喜に従い静岡に移住しました。が、幕府という組織そのものが消滅した今となっては、これはまったく収入の当てのない悲惨な選択。同時に、時代の急変に伴い、武士たちに支えられた能・狂言そのものが世間から一挙に忘れ去られ、「家で謡を謡っているだけで、外から石が投げ込まれる」ほどの反感まで受けるようになったと言われます。観世大夫はじめ静岡に移住した能役者たちは、まさに目も当てられません。数百年にわたり幕府あるいは大名家から受け続けていた禄はむろんなく、舞台出演や稽古指導による潤沢な収入も絶たれ、かと言って能を演ずる以外は何も才覚はありませんから、数年も経たぬうちにたちまち困窮。ついには伝来の面・装束を売り払い、藝を捨て、家そのものも絶え果てる結果となった悲劇も数多く見られました。

その中で、静岡に赴かず、江戸=東京にとどまって、貧困に耐えつつ能を捨てなかった少数の役者がいました。その代表が、初世・梅若實(52世・梅若六郎。1828~1909年)です。

観世大夫の配下に属するツレ(助演役者)の家柄・梅若家に養子に入った實は、もともと能とは無縁の金融商の出身だったためか、世間の動向を読む鋭い目をもっていたのみならず、先祖代々が能に携わってきた役者たちから迫害ともいえる嫌がらせを受けながらも断乎として挫けない、旺盛な反骨精神を持った人物でした。藝の力量も抜群だった實は、禄を失って困窮し、能を見る人すらいなくなっても、自宅の粗末な板の間を舞台に見立て、紋付袴姿で平然と舞い続けます。さらには、困窮のどん底とも言うべき明治4年(1871年)、梅若家発祥の地である丹波篠山を領有していた旧大名・青山家の江戸藩邸にあった正規の能舞台をたいへんな苦労の末に買い入れ(江戸城中や大名屋敷、大寺院に設ける本格の舞台に比べて、能役者が私宅に持つ稽古舞台は略式が普通でした)、藝道ひとつで身を立てる気概を示しました。江戸末期に隆盛を誇ったシテ方・宝生流の宗家で、名人として知られた宝生九郎知榮(1837~1917年)でさえ、生活苦のあまり能を捨て去り、当時は田舎だった板橋に引っ込み農業で細々と暮らしていたのに比べれば、實の気骨のほどが知れましょう。

英照皇太后の東下と華族能隆盛

『青山仮皇居御能図』画:楊州周延 明治11年(1878年)版
『青山仮皇居御能図』
画:楊州周延 明治11年(1878年)版

明治11年7月5日、英照皇太后の居所・青山御所の能舞台の舞台びらきを描いたもの。 大判3枚続きの著名な錦絵。 画題は、当日4番目に演じられた能〈正尊〉(シテ:初世梅若實)の前場である。 画面中央、舞台に最も近い椅子に後ろ向きに腰掛けた軍服の男性が明治天皇。

大正天皇即位饗宴用仮設の宮中能楽堂
大正天皇即位饗宴用仮設の宮中能楽堂

総面積は約1,081㎡(327坪)。
大正4年12月7、8日の祝典演能のほかは、翌年4月29日に正式演能が催されただけで、 同年8月6日より取り壊され、建物は華族会館(鹿鳴館の後身)に下賜された。

英照皇太后は孝明天皇の后で、明治天皇の母(実際には義母)に当たります。皇太后が京都から東京・赤坂に居を移したのが、明治5年。すなわち、梅若實が能舞台を購入移築した翌年でした。この英照皇太后がたいへんな能楽愛好者だったことが、能楽界起死回生の一因となります。

梅若實は浅草・隅田川の厩橋にほど近い新造の舞台で毎月のように公開能を開催し、普及し始めたばかりの新聞にも絶えず告知を出していましたから、当時やはり東京にとどまり演能を続けていた金剛流宗家・金剛唯一(1815~1884年)と並び、力量実力ともに目立つ存在でした。江戸に集中していた優れた能役者たちの至藝を心ゆくまで楽しむことは、京都以外に住んだことのない英照皇太后の心からの希望であったに相違ありません。が、東京には梅若實と金剛唯一の二人以外には、満足に活動できるシテ役者はいなかったのです。

当時新たに定められた特権階級・華族の身分に属した者の大半は、大名または公家の当主でしたから、その教養や娯楽の多くは、明治維新以前に深く慣れ親しんだ能・狂言に拠っていました。世相が次第に安定する明治6年(1873年)以降、専門から離れていた専業の能役者に代わる形で、昔から素人として稽古を積み相応の藝力を持っていた華族たちが能の舞台に立ち、半公開の公演が行われることが増えてきます。数年前までは人々が道端で土下座をする前を行列で悠々と通り過ぎた「お殿様」たちが、今度は観客の前に立って藝を披露するのです。考えてみればこれは奇妙な、面白い現象です。

こうした風潮の頂点が、明治9年(1876年)4月4日から6日の三日間、維新の功労者として国家最高の権力を握っていた岩倉具視邸にて連日行われた、英照皇太后・明治天皇・皇后(昭憲皇太后)を招いた天覧能でした。大庭園に仮設された能舞台で華族たちが舞う能に加え、梅若實が一切を取り仕切って東京残留の能役者をかき集めて出勤させたこの催しは大成功に終わり、以後、頻繁に催された天皇臨席の宴には必ず能が演じられる例が確立しました。天皇も皇后も、皇太后に劣らず能好きだったのです。この岩倉邸天覧能の翌月の5月18日、英照皇太后は14代将軍徳川家茂の未亡人・静寛院宮(和宮)に招かれ、その邸でやはり梅若實の演ずる能〈草紙洗小町〉を見ていますから、皇太后の能楽愛好熱は相当のものだったことが知られます。その後、赤坂から青山に移った英照皇太后は、招かれて見るだけでは飽き足らず、ついに明治11年(1878年)、自らの御所内に正式な能舞台を設け、これ以降は専門の能役者たちの名演・名技を心ゆくまで楽しむまでに至ります。

明治9年の天覧能は、それまで存亡の危機あった能楽が、皇室や華族にとって不可欠の豪華な社交接待に格好の古典藝能として、華々しく復権した一大転機でした。

天覧能を仕切った梅若實は、これ以降すべての能役者の代表のように見なされました。賢明な實は、家元でもない自分に能役者たちの反感が集まるのを避けるかのように、家柄・藝力ともに申し分のない宝生九郎を復帰させて味方に付け、この両人が中心となって近代の能楽が復興します。その背景には、皇室と緊密に結び付き、その深い愛顧を受けることによって、存亡の危機に瀕する過去の遺物から公的に認められる偉大な藝術へと一挙に飛躍的発展を目指そうとした、初世・梅若實の鋭い「読み」があったのです。

大正以後の皇室と能楽

江戸時代には天皇即位の大礼に伴い、祝賀の能が催されるのが例でした。明治維新の混乱期にはそれが省かれましたが、大正4年(1915年)、昭和3年(1928年)、さらに平成2年(1990年)、それぞれの即位礼に伴う饗宴で、能が演じられたのはあまり知られていません。ただし、その規模は次第に縮小しています。

大正大礼の際は、わずか2日間、それぞれ1時間半づつという極めて短時間の能楽の催しのためだけに、東宮御所(後の赤坂離宮・現在の迎賓館)を設計した当時最高の建築家・片山東熊(1854~1917年)による、驚くべき豪華な施設が臨時に建設されました。宮城(皇居)の饗宴会場の庭に、仮設とはいえ総檜造りの能舞台。これをやはり檜造りの建物ですっぽりと覆い、天井は極彩色の花丸を描き込んだ桃山様式の格天井。目もくらむ豪華な大シャンデリアを何基も吊り、緋色の毛氈で包んだ客席を巡らせた、まさに壮麗な小劇場でした。これが現代の平成大礼の際は、皇居内ではなく赤坂のホテル・ニューオータニ宴会場を借り、ただ簡単な敷舞台を設けただけの準備でしたから、その落差は歴然としています。

天皇が能好きだった時代には、皇后もまたしかり。大正天皇の后・貞明皇后、昭和天皇の后・香淳皇后は、それぞれ謡をたしなんだといわれます。また、貞明皇后には、自作の詞(もとは琴歌)に宝生流の節が付けられた小謡〈千代のかざし〉があります。これは、昭憲皇太后が日清戦争の苦難を偲んで詠んだ詞に初世・梅若實が節を付けた小謡〈平壌〉(明治28年作曲)に倣ったものでしょう。香淳皇后には自作の謡はありませんが、自身謡うことはたいへん好きだったらしく、昭和天皇第一の側近で謡の素養のあった侍従・入江相政が皇后の謡う観世流の謡の相手をしばしば勤めた様子が、『入江相政日記』に幾度も出てきます。ただし、それ以降は皇族たちの能愛好の風潮は次第に低下。ピアノやハープに練達し、時折オペラに足を運ばれる現皇后陛下には、そうしたことは聞きません。

また、天皇家には「能カルタ」という独自の遊び道具があります。これは能の曲名だけを漢字と仮名で取札と読札に書き分けた単純なもので、200一組と500枚一組との2種。御歌所(宮廷専属の和歌管理所)寄人・阪正臣の筆跡による明治時代の遺品と伝えられます(角川書店『宮中歳時記』)。明治時代の能のレパートリーは全部で200番強でしたから、500の曲名を揃えるには当然ながら上演されないマイナーな演目も含めねばならず、その意味でもかなりマニアックな能趣味が反映されているわけです。昭和天皇はこれを好み、〈皇帝〉〈常陸帯〉といった得意の札を取り逃がさなかったそうで、遊びの実態は先述の『入江相政日記』にもしばしば記されて、能が宮廷生活に浸透した文化であったことが偲ばれます。現在の皇室でこうした古風な遊びが残っているものか、昭和天皇が好んだように皇族たちに相変わらず好まれているか、これはよくわかりません。

能は既に、天皇家の庇護を受けずに繁栄を極めている現状ですから、こうした過去のことはどうでもよいように思われますが、ここには古典藝術が権力の庇護から一般民衆の支持を得て存続する形態に変化した歴史が映し出されています。と同時に、伝統的な文化のよりどころと目されている天皇家が、大正以降急速に能と距離を置いたことの意味を考える必要があるのですが、その背後には、短い字数ではとうてい語り尽くせない、皇室と伝統文化との複雑な関係が秘められているように思われます。

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