ことばと文化のミニ講座

【Vol.39】 2009.8   青山 英正

日本人は二重まぶたをどのように見ていたのか

顔は文化研究の対象になりうるのか

整形疑惑がささやかれていたミュージシャンについての傷ましいニュースが、先月来マスコミによって盛んに報道されてきました。一方、そんなこととは無関係に、日本ではプチ整形なるものが相変わらずブームであるようです。プチ整形とは、メスを使わずに、美容のため主に顔面に対して行う外科的施術とでも言えばいいでしょうか。そして、そのプチ整形の中でも人気の高いのが、一重まぶたを二重に矯正することなのだそうです。寡聞にして二重を一重に矯正してもらったという事例は耳にしないので、現代の日本人の大半は、二重まぶたを美と認識し、二重でないことを欠点と捉えていると考えてまずはよさそうです。

さて、整形といえば一般的には医学ないしファッションの範疇(はんちゅう)に属すと考えられています。顔のつくりそのものに着目するならば、それは遺伝の問題として生物学か人類学かの範疇に属すと言えるでしょう。しかし、無限の多様性を持つ人間の顔のうち、ある時代にある集団が、いかなる箇所をいかなる基準によって評価するのか(あるいはしてきたのか)、といった問いの立て方をするならば、これは文化研究の立派な一課題になりえます。

というのは、この問いは、ある時代のある集団が人間の顔をどのように意味づけたのかという問いにほかならないからです。人間は、古くから川の流れや山の姿に何らかの意味や価値を見出し、それらを体系化し、世界観として織り上げてきましたが、ちょうどそれと同じ具合に、人間は自然の産物である自らの顔の造作にもさまざまな意味を見出し、それらを体系化して、容貌に関する価値観を形成しました。化粧や整形手術というものは、ある文化において理想とされる容貌へと、自らの容貌を近づけようとする営みと言えるでしょう。その意味で、化粧も整形も文化的な行為です。

文化、と聞くと我々がすぐ思い浮かべるのは、文学、美術、建築、芸能などかもしれません。日本文化に触れるにはどうすればいいかと聞かれれば、たいていの人は、日本文学を読み、劇場、神社仏閣、博物館に行くことを薦めるのではないでしょうか。しかし、日本文化は、より身近な場所にもあります。たとえば、衣食住といった日常生活にまつわるさまざまな事物も立派な日本文化の一部をなしています。さらに言えば、私たち自身の何気ない行動や考え方、そこにも日本文化を理解する通路があります。ですから、例えば、どのような顔が美人(あるいは美男)か、どのような服を身にまとい、どのように化粧をするのかといった、一見学問とは何ら関わりのなさそうなことであっても、そこから日本人の身体観や美的価値観といった、重要な文化的問題がかいま見えるのです。

ここで気をつけなければならないのは、〈日本人の身体観・美的価値観〉などと言った時に、それがあたかも過去から受け継がれ、また将来へと受け継ぐべきものだと考える必要はないという点です。「日本人はこのようなものの考え方をしてきた。だから我々もそのように考えなければならない」といった物言いがされることがありますが、文化とはそもそも常に変化し続けるものです。日本文化も、たしかに過去から現在にかけていくらかの要素を継承してきたとはいえ、しかし100年前の日本人と現在の日本人との間にさえ、ほとんど異文化と思えるほどのギャップが、しばしば見つかります。

カルチャーショックという言葉を、よく耳にすることがあります。それまで当たり前だと思っていた行動やものの考え方が、異文化体験をすることによって決して当たり前なんかではなかったことに気づくこと、とでも定義しておきましょうか。このカルチャーショックに近い感覚を、私も19世紀の日本文化について調べる際にしばしば得ることがあります。わずか数世代前の日本人が、自分と全く違うものの見方をしていた、と知ることは、ある意味、異文化体験以上にショックです。しかしながら、そのショックからすぐに、次のような好奇心が頭をもたげてきます。それは、過去と現在との間に見つかった大きなギャップが、ではどのように埋められて現在のような価値観が形作られてきたのか、というものです。このことが明らかになると、現在の我々が正しいと思い込んでいる価値観が決して絶対的なものではなく、歴史の中で形作られてきたものにすぎないこと、しかも、それが想像以上に最近のことであり、したがって、またすぐに変化しうるものでしかないことが見えてきます。そして、これまで自分を縛りつけていた価値観から解放される爽快感を味わうことができるのです。

今回はその一例として、日本人が二重まぶたに何を読み取り、それをどのように評価してきたのか、そして、その評価がどのように変化してきたのか、という問題を取り上げてみようと思います。これは、直接には昨今のマスコミ報道や、7月に本学科主催で行われたロバートキャンベル先生の講演会「漢詩文と日本人——言葉から生まれた絵画、絵画から飛び出した言葉」が肖像画と詩作との関係について触れられていたことに触発されたテーマですが、私が担当している講義「文化交流論」で前期に扱った「美人観」の問題にも通じ合います。

女性の二重まぶた

日本では、二重まぶたのことを、古くは「二皮目(ふたかわめ)」と呼んでいました。室町時代に編まれた蘇東坡(そとうば)詩の注解書『四河入海』(しかじっかい)に、次のようにあります。

上戸ノ酒ニヨイテ、目ヲトロリトシテ、フタカワ目ニナリテ、目ボシヲチラスヲ、眼花井ニ落ト云也

これによれば、酒に酔ってとろりとなった目つきが、「フタカワ目」ということになりましょう。その二皮目が一時的なものではなく常の状態であれば、しかもそれが女性であれば、これは色っぽい目つきという以外の何物でもないでしょう。実際、江戸時代には、二重まぶたは概してそのように捉えられていました。江戸時代前期に刊行された浮世草子『新色五巻書』(元禄11年刊)には、宮芝居の女舞の顔が、「情(なさけ)らしき二皮目、鼻筋通りて卑しからぬは壺口」、つまり色っぽい二重まぶたに、鼻筋が通り、かわいらしいおちょぼ口と表象されていますし(ちなみに、江戸時代はおちょぼ口が美人の要素でした)、同時期の雑俳書にも、

したたるや尼に成ってもふたかは目(『西国船』元禄15年刊)

ふさぎては猶しほの有るふたかはめ(『昼礫』元禄8年刊)

などとあります。尼になってもしたたるような色っぽさがある、と詠んだのが前者で、後者は、目をつぶってもしおらしい愛嬌がある、というものです。

こうして見ると、二重まぶたは少なくとも醜ではなく美の一要素として認められていたことは間違いなさそうですが、全面的に肯定されていたかというと、必ずしもそうとばかりは言い切れないようです。『新色五巻書』の二重まぶたの女は、江戸時代卑しい身分とされていた芸人ですし、「尼に成ってもふたかは目」というのは、出家して煩悩を捨て切ったはずの状態と、にもかかわらず性的な魅力がなおあふれ出てしまっていることとの落差を詠んだ句ですから、女性の美を単純に礼賛したものではありません。同じく「ふさぎては」の句も遊女を詠んだとおぼしく、色気に満ちた句です。つまり、二重まぶたは、コケティッシュな(=男の気を引くようななまめかしい)性的魅力を表すものとしてあり、主に玄人筋の女性に見出されるものとしてあったと言えそうです。

写真1
写真1

その見方を裏付けてくれるのは、江戸時代中期に刊行された人相鑑定書『本朝人相考』(安永2年刊)です。同書の「大(おゝい)に出世する女相」(写真1)のくだりには、「眼ちいさからず、細く長く二かは眼なれどもいやしく見へず」、すなわち眼は小さくなく、細く長く、二重まぶたであってもいやしくは見えない相が良いと記されていますが、気になるのは「なれども」という逆接表現です。「大出世」の相ですからもちろん瑞相には違いないのですが、二重まぶたというものが、一歩間違えればいやしく見えかねないことが、ここで暗に示されていると考えるべきでしょう。そして事実、同書の「奸淫(まおとこ)の女相」すなわち浮気性の女の目は、「二皮目也」と、はっきりと書かれています。

このように、近代以前の女性の二重まぶたは、性的魅力を醸し出すゆえに、一歩間違えれば卑猥になりかねないものと捉えられていたと言えるかと思います。ついでに述べておくと、その魅力も、現代風のいわゆる〈目元ぱっちり〉の大きな目には感じられなかったようで、あくまでも「細く長く」という切れ長の目が理想とされていたようです。江戸時代後期の化粧指南書にも、「目は……りんとつよきがよし。然れども、あまり大き過ぎたるは見苦し」とあって、「目の大なるをほそく見する伝」すなわち目を細く見せる化粧術が図入りで解説されています(『都風俗化粧伝』文化10年刊)。

男性の二重まぶた

ところで、なぜ「大に出世する女」と「色気のある女」とが、ともに二重まぶたとされていたのでしょうか。いったいそこにはどのような共通点があると考えられていたのでしょう。また、『本朝人相考』には、「大に出世する女相」とは別に「美人の相」という項目も立てられていますが、「大出世する女」と「美人」との間にはどのような違いがあると考えられていたのでしょうか。

こうした疑問を解決するために、今度は目を転じて男性の二重まぶたについて見てみましょう。『本朝人相考』の「男相」のうち、「二皮目」と明記されている人相を列挙すると、「貴尊」「名を発(あ)ぐ人」「不孝不義の男」「子の有(ある)男」「中年以降快楽(けらく)する男」「長寿(ながいき)する男」となります。ここから言えるのは、女性の二重まぶたに付された価値が、性的な魅力と卑猥さとの境目で揺れ動いていたのに対し、男性の場合、おおむね人生における成功と結びついていたということです。そして、「子の無(なき)男」に対する「子の有(ある)男」、「中年以降苦労する男」に対する「中年以降快楽(けらく)する男」、「夭死・短命(わかじに)」に対する「長寿」、この三者の共通点を探ってゆくと、そこに見出されるのは性的エネルギーを含んだ生命力の旺盛さと言えるでしょう。唯一ネガティヴな意味合いを持っている「不孝不義の男」にしても、その生命力が道徳秩序を逸脱する方向へと作用した結果だと理解することができるように思われます。

とすると、先ほど疑問として提示した、「大に出世する女」と「色気のある女」との共通点、あるいは「美人」との差異も、こうした生命力の有無に求めることができるのではないでしょうか。その生命力は、不孝不義といった形で道徳秩序を損なわないかぎり、男性を出世や長寿へと導くものとされていましたが、女性にも同様に出世の強運をもたらすと当時の人々が考えたのはごく自然なことでしょう。しかし、実際には女性の出世の機会がきわめて少ない時代のことですから、二重まぶたもおおむね性的魅力すなわち色気の側面だけが着目されることになったのではないでしょうか。その上で、女性の性的自由を認めない当時の男性中心社会は、男性の価値観の範囲内に回収可能な「美人」(「美人」とは、あくまでも男性から見た評価です)とは切り離す形で、そうした性的魅力の横溢に卑猥さや浮気性といった否定的なレッテルを貼り付けたのではないでしょうか。

もちろん、これだけのわずかな資料でうかつに結論を出すことは差し控えなければなりません。しかし、このことについてはこれまで誰も指摘したことがなさそうですので、前近代の日本人は二重まぶたというものを、性的エネルギーをも含んだ生命力の表れであると見なしていた、という仮説をいちおう提示しておきたいと思います。

美人像の変化——明治の美人コンテスト

現代人が、二重まぶたから性的エネルギーやら生命力やらをいちいち感じ取ることはないでしょう。顔の造作からその持ち主の運命を読み取ろうとする人相学そのものが、もはや下火であるのかもしれません。とすると、明治以降の近代という時代は、顔という対象から何かしらの超越的な力を読み取ることをやめた時代、すなわち、顔をたんに形状として捉えるようになった時代と位置づけられるのではないでしょうか。二重まぶたについて言えば、近代以前に女性の二重まぶたに付されていた意味合いのうちから性的なニュアンスや生命力などが除外され、たんに形状として美しいものとして二重まぶたを見るようになったのです。二重まぶたをめぐるそうした価値転換を物語る興味深い写真があります(写真2)。

写真2
写真2

これは、明治41年に日本で行われた美人コンテストにおいて見事一等に輝いた末弘ヒロ子の応募写真です。はっきりとした二重まぶたで、しかも切れ長というよりは明らかにぱっちりした目の、現代の女優やアイドルにも通じる顔です。

このコンテストの重要さは、いわゆる「女優芸妓其他容色を売る者」すなわち玄人を排除し、もっぱら「良家淑女」から写真を募った点にあります。事実、ヒロ子も名門学習院中等部に在学中でした(ただし、このコンテストで一等を取ってしまったがために、自分の容姿を誇示するような、生徒としてあるまじき行為をしたとして学校内部で問題になり、退学処分となってしまいました)。前近代における二重まぶたは、しばしば芸妓など玄人女性の属性とされ、そこにはいやおうなく性的なニュアンスがまとわりついていたのですが、明治後半に至って二重まぶたはようやくそうした意味づけから解放され、一般女性の健全な(?)美的要素の一つになったのです。

そして、この二重まぶたをめぐる価値転換をもたらした背景にあったのは、欧米人の視線です。実はこのコンテストは、アメリカの新聞社であるシカゴ・トリビューン社が日本の新聞社である時事新報社に、世界美人コンテストの一環として要請したものでした。つまりこれは、欧米人男性の考える美人像に合致する女性を、日本人の中から見つけ出そうとする試みにほかならなかったのです。

当時の欧米人男性がどのような目の形状を高く評価していたのかについては、欧米の人相学書からその一端がうかがえます。次に紹介するのは、イタリア人の人類学者・神経学者・人相学者であるマンテガザ(Paolo Mantegazza)が、アメリカで出版した『人相学と表情』Physiognomy and Expression(1890[明治23年])の中で、眼の形状について述べた一節です。これは、前島熊吉によって『東西骨相学と人相学の研究』(昭和6年刊)の中で紹介されていますので、そこから引用してみましょう。

眼は、飛び出さない稍(や)や大きな眼を理想的とされて居る。少(ちひ)さい眼は醜となす。(同書、106頁)

前島はこれを受けて、「この見方は合理的な正常(せいたう)なもので、アリアン人種やセミテック人種は大きくて飛び出して居ない。蒙古人種や馬来(マレイ)人種は少さい。ネグロは大きいが飛び出して居る」とコメントしています。これは、二重まぶたについてではなく、目の大きさについての記述ですが、ここからは、欧米人が大きい目を理想としていたこと、そうした理想には欧米人を至上とする人種差別主義的偏見が濃厚に見られること、前島のごとき日本人もまたそのような人種差別主義的な価値観を受け入れていたこと、などがうかがえます。

言ってみれば、近代の日本人は、顔から生命力といった要素を読み取らなくなり、その一方で顔の美醜についての欧米人の価値観を自らのものとして受け入れ、日本人の顔をその新たな価値観に沿って序列化しようとしたのです。明治の美人コンテストはそのことを端的に物語る事例であり、またそこで一等になった末弘ヒロ子の顔は、まさしく欧米人の視線を媒介として近代日本において見出された新たな理想的「美人」だったと言えるでしょう。

おわりに——目と表情

もう詳述する余裕はありませんが、マンテガザの『人相学と表情』というタイトルは、静的な顔面から動的な表情へと、人々の着目点が移行しつつあることを物語っていて示唆的です。人相学は世界的に衰退しつつあるようですが、それは、現代人が「固定し類型化できる顔ではなく、時々の表情がたちあらわれる自然な顔を求めるようになった」からだという指摘もあります(浜本隆志他編著『ヨーロッパ人相学』白水社、2008年、290頁)。「目は口ほどにものを言う」ということわざがあるように、目は人体の中で最も雄弁に表情を語る箇所でしょう。少女漫画の登場人物は、その巨大かつ常時的に潤んだ瞳によって実に豊かな感情を表現しますが、現代のプチ整形や化粧術において、目を大きく見せようとする傾向を、あるいは現代社会における表情の重視という観点から考えることもできるかもしれません。また、今回は「美人」(美女)に比重を置きましたが、「美男」と照らし合わせることで、近代日本における身体観がより立体的に見えてくるはずです。(実は明治43年には、美男子コンテストも新聞紙上で実施されました。土田健一「明治の「美男子コンテスト」」、『歴史読本』2009年3月参照)。

このように、二重まぶたという実に何気ない対象ひとつ取っても、そこから日本文化研究や比較文化研究の、無限に尽きない沃野が広がってゆくのです。

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