ことばと文化のミニ講座

【Vol.38】 2009.6   内海 敦子

言語の現地調査と媒介言語

「言語学」とは、言語の様々な側面を研究する学問です。人間の活動には必ずといってよいほど言語が伴いますので、様々な側面をそれぞれ専門に考察する「言語学」に属する学問領域がたくさんあります。「心理言語学」、「社会言語学」、「歴史言語学」などです。

このうち、ある言語が一体どんな特徴を持っているのかを調査し、言語学の方法論に基づいて分析して記録する、ということを専門に取り扱っている分野を「記述言語学」といいます。「記述言語学」の対象は、どんな言語でもよいのですが、日本語、英語、フランス語やドイツ語などの主なヨーロッパ語、中国語の北京方言(いわゆる普通語)、タイ語、ベトナム語といった主要な言語であり、一つ以上の国の「共通語」あるいは「国家語」として用いられている言語は、今までに研究の蓄積があり、いまさら一から記述する必要はありませんので、通常「記述言語学」と呼ばれる分野の研究者が対象にすることはありません。

それでは、どのような言語が「記述言語学」の対象になるかというと、これまでその言語の話者以外の人が知ることのなかった、極めて狭い地域にのみ理解されている言語がそうなります。地球上の言語は、21世紀初頭の現在、6000前後存在すると考えられています。そのうち、9割かそれ以上の言語は多くの人に知られていません。例えば、オーストラリアの先住民、アボリジニの言語は、ヨーロッパ人がオーストラリアに上陸した時点で250ほどあったと推測されていますが、そのうち50ほどしか現在記録が残っておりませんし、その大半はとても簡単な記録のみです。

そのような、言ってみれば「未知」の言語は、一体どのようにして調べるのでしょうか。英語やドイツ語といった、すでに教科書が販売されている言語であれば、事前に自分で学習して、現地の調査に備えることもできるでしょう。でも、教科書はおろか、基礎的な単語でさえも十分に調査されていない言語の場合はどうしたらいいのでしょうか。

「記述言語学」の研究者があるほとんど記述されていない言語を研究しようと思う場合は、もちろん、事前にその言語についての文献をできるだけ多く収集します。ある程度知識を得てから調査に臨むことができれば、それだけ有利だからです。その後、その言語の話者が住んでいる地域に乗り込んでいって、調査を始めるわけです。そのときに、まず必要なことは、調査対象の言語の話者で調査に協力してくれる人を得ることです。でも、お気づきのように、調査者はその言語をほとんど知りません。これでは調査対象言語の話者と意思疎通することはできません。どのようにして言語調査をしたらよいのでしょうか。

一つには、実物を指し示したり、絵やジェスチャーを使って、一つ一つ語を収集していく方法が考えられます。でも、絵といっても、文化が違うと解釈も異なります。実物を用いたとしても、例えば、こちらが「目」という語を知りたくて、自分の顔の一部、目の辺りを指差したとします。でも、相手が「目」という語を言ってくれるとは限りません。もしかしたら「まぶた」、あるいは「まつげ」、あるいは「顔の上部」を意味する語を言うかもしれません。単純で分かりやすい語であっても、細かいところはなかなか通じにくいものです。動作を表す語や抽象的な語になりますと、なかなか大変であることは想像できると思います。

というわけで、上のような原始的なやり方は、現在の言語学者はほとんど用いません。多くの場合は、二つ目の方法、つまり「媒介言語を用いる」というやり方を取ります。「媒介言語」とは、調査者と調査対象言語の話者のどちらもが理解できて意思疎通できる言語のことです。19世紀から20世紀にかけて、世界のほとんどの地域はヨーロッパ列強の支配か、近隣の比較的大きな国の影響を受けることになりました。この結果、ある言語しか話されていないように見える地域でも、実はヨーロッパの大言語の話者が通商目的で頻繁に訪れるからその言語を理解するようになっていたり、ヨーロッパの大言語が話されている地域(多くは都会)に出稼ぎに行く人が多いので多くの人が自分たちの民族語と近隣の大言語の二つが使用できるようになっていたりするのです。そもそも、ヨーロッパによる支配よりずっと以前の古代より、ある地域に複数の言語が話されている場合は、その地域の誰もがある程度理解し使用できる「地域共通語」というものが自然発生的に生まれてくることがよくありました。

逆に言うと、現在の日本は韓国・北朝鮮のように、一つの言語がある地域の津々浦々まで行きわたり、ほぼ同質の言語が使用されている状態は歴史的に見ても世界的に見ても大変珍しいのです。逆に、複数の言語が比較的小さな地域に隣り合って話されており、地元の言語以外に「地域共通語」のような言語が使用されているという、「多言語状態」が出現することが大変多いのです。ですから「地域共通語」やヨーロッパ起源の大言語を「媒介言語」として用いて言語調査をすることが可能なのです。

例えば、アメリカ合衆国にはたくさんの先住民(いわゆるアメリカ・インディアン、あるいはネイティブ・アメリカン)の言語が現存していますが、これらの言語の話者はまず間違いなく英語が話せます。アメリカ合衆国に住んでいて、教育も仕事も英語が必要な社会ですから当然です。ですから、アメリカ先住民の言語を調査する場合は英語ができれば十分です。同様に、ロシアに存在する少数民族言語の場合はロシア語が媒介言語となります。アフリカの多くの地域では英語かフランス語が公用語として規定されているので、そのどちらかができれば調査できます。また、よく知られた通商用語であるハウサ語やスワヒリ語が「地域共通語」として広く流通しているので、そのどちらを学んでしまえば、かなり広い地域の言語が調査できることになります。

私はインドネシアの少数民族の言語を調査していますので、インドネシア語を媒介言語しています。他のインドネシアの言語を調査している人はほぼすべて、インドネシア語を媒介にしています。「インドネシアなんだから、みんなインドネシア語が話せるんだな」と思われるかもしれません。確かに現在の、特に50代以下はみなインドネシア語が話せると考えて問題ありません。でも、60年前、つまり第二次世界大戦が終わった直後では今とはずいぶん事情が違っていました。オランダが現在インドネシアと呼ばれる地域を支配していたころは、各地で様々な言語が話されており、現在「インドネシア語」と呼ばれる国家語が津々浦々で理解されていたわけではありません。オランダは、インドネシアに住む様々な言語を話す多民族が団結してオランダからの独立運動や自治運動といったやっかいな問題を引き起こすことを防ぐため意識的に各民族の分断を図っていたので、「インドネシア全体で通じる言語」などというものを教育することはしませんでした。第二次世界大戦中に日本がオランダからインドネシアの支配権を奪い、日本の敗戦の後、一時的にインドネシアの支配権がオランダにもどりましたが、インドネシアがオランダと3年かけて独立戦争をした結果独立したことにより、晴れて全国統一的に用いられる言語として「インドネシア語」と呼ばれる言語を全国民に教育できるようになったのでした。

インドネシアには700くらい言語が話されているといわれています。そのうち、ジャワ語、スンダ語をはじめとしていくつかの言語は数千万人の話者を抱えていますが、大多数は数十万人から数千人の話者しかいなくてきちんとした記録がありません。その中で、今世紀中に消滅していく運命の言語がたくさんあります。研究者の視点からは、インドネシア語さえできれば調査できる未知(に近い)言語がたくさん存在しているわけで、調査しやすくて楽しいともいえます。

ただし、裏を返すと、広いインドネシアの国全体で通用し、教育、ビジネス、政治、宗教といった経済と文化を担う国家語としての「インドネシア語」が広まるにつれて、「インドネシア語」を優先して子供たちに伝えようとする人々が増えた結果、少数民族言語があまり話されない状況が生まれて、いずれ全く使用されなくなる「言語の死」が起こることが危惧されています。「一つの媒介言語が広い地域に使えて楽!調査しやすい!」といって喜んでいる場合ではないんですね。

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