ことばと文化のミニ講座

【Vol.37】 2009.5   前田 雅之

注釈学事始め

注釈とは学問である。

私たちは、学問といえば、なにやら疑問が最初にとにかくあって、疑問を合理的に解こうとする行為を指すと考えているようです。これは間違ってはいません。いないどころか、西欧における学問は、まず疑問、それから問題を立てて、解く道筋を考えるという行為を指していますから、その影響をもろに受けてきた明治以降の日本においても学問とはそのようなものとして理解されてきました。

これに伴って、学者・研究者という存在も変わってきました。今の時代、すごい学者というのは、物知りであるよりも、問題の立て方や分析の切れ味で評価されるように思われます。あの人は頭がいい、という場合、大概は、問題の核心を素早く見抜き、もっとも納得のいく把握やその解決法を示す人を指します。何でも知っているが、頓珍漢な答えを出す人は頭がいいとは決して言いません。変人扱い、よくてオタク呼ばわりされるのが落ちです。

しかし、学者というのは、本来、物知りが条件でした。これは今の時代も実は変わっていません。物知りでない学者は評論家とは言ってもよいでしょうが、通常、学者の範疇には入りません。但し、物知りは近代の場合、専門分野に限られます。それに対して、何でも知っている人。これが前近代の学者の必要十分条件だったのです。

たとえば、荻生狙徠という、どえらく物知りでなおかつ頭が飛び切りにいい、江戸時代の儒学者がいます。彼は、古文辞学なるものを創始して、『論語』なら『論語』が生まれた時代の言葉の意味を押さえて、そこから、『論語』を読み返した人物です。『論語徴』という『論語』の注釈書がそれです(東洋文庫に入っており、訓読文に直されていますから、それほど困難を伴わないで読むことが可能です)。『論語』を現代風に理解して、そこから何かを言うのではなく、『論語』の言葉そのものを彼なりに『論語』が生まれた時代に遡って注釈していくというのが狙徠の方法です。そして、出た結論は、「天下を安んずる道」という言い方に典型的に表れているように、倫理道徳を排除した政治学のテクストとして『論語』を読めという働きかけでした。こんなことを言うために、わざわざ言語学的手法を用いたのか、なんて無駄なという人がいるかもしれないが、狙徠にとっては、こうでもしないと、当時もっとも影響力があった宋学(朱子学)の『論語』理解を乗り超えることはできなかったのです。と同時に、言語的に正しく理解すれば、日本を理想的な古代=古典中国にすることができるという確信が徂徠にはあったのです。

今、昔と今の学問と学者の意味合いの違いを述べてきました。今の学問と昔の学問の根本的な違いを簡単にまとめますと、今の学問はいわゆる科学的真理や歴史的事実に忠実ですが、昔の学問は仰ぐべき書物(狙徠の場合なら『論語』)にそれこそひたすら忠実なのです。疑問を核におくのが今の学問、信仰に核をおくのが昔の学問です。そして書物の正しい意味を見出していこうという行為、これが注釈なのです。狙徠の仕事からも分かるように、注釈とは、自分の全知識と知的センスを駆使した学問そのものでしたが、同時に、きわめて創造的な思想行為でもあったことを忘れてはなりません。実際、狙徠は儒学の知識をベースにして日本のみならず世界のすべてを論じています。

日本四大古典

「日本四大古典」、こんなものは聞いたことがない、というのが大方の感想でしょう。四大古典と命名したのは他ならぬ私ですから、まだ市民権も何も得ていない、見方によれば、いい加減きわまる名称です。

だが、根拠はあります。私が四大古典に選んだ書物は、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』です。ええ、どうして、という声があがるでしょう。

たとえば、『万葉集』や『平家物語』が入っていないと鋭くつっこみを入れたくなる人もいるでしょうが、この二つの書物については以下の理由で古典ではありません。

まず、『万葉集』は、藤原俊成が尊びましたが、江戸期の国学によって改めて見直され、国民文学になったのは、『古今集』を徹底批判(ということになっています)した正岡子規以降の明治時代からです(品田悦一『万葉集の発明』、新曜社、二〇〇一年に詳しく記されています)。江戸時代までは『古今集』が和歌第一の書物だったのです(故に子規は権威=古典としての『古今集』を批判したのです)。『万葉集』の注釈としては、主として読み方(なにしろ万葉仮名=漢字で書かれていますから)については鎌倉時代の仙覚というお坊さんの偉大な業績がありますけれども、本格的な注釈は江戸時代最高の和学者といってよい契沖からです。中世では堂々たる古典ではありませんでした。

次に、『平家物語』は応仁の乱以降、焼失した書物の再建運動に取り組んだ後土御門天皇に献上されています(明応三年・一四九四、七月、近衛政家が天皇の命令を受けて書写し献上しました)が、それまで文化的帝王というべき天皇家が持っていたことはありません(足利義満に献上されたという奥書をもつ『平家物語』がありますが、事実かどうか不確かです)。『平家物語』は盲目の琵琶法師が語る平曲(当時は単に『平家』と言っておりましたが)によって広まったと考えた方がよいと思います。それは院・皇族・貴族・将軍までが楽しみました(但し、天皇だけは、琵琶法師を近くに置くことは禁じられていました。おそらく琵琶法師が身分の低い存在と見なされていたからでしょう)。加えて、歴代の室町将軍が愛してやまなかった能楽の題材の多くは『平家物語』が採られていることからも推察できますが、『平家物語』は芸能として享受されたのだと思います。そして、決定的な事実は、『平家物語』には注釈がありません。

これらに対して、『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』は大量な写本群(『古今集』から『源氏物語』まではその後定本的役割をはたしたテクストに藤原定家が絡んでいます)に加えて、それこそどれだけあるか分からないくらいの注釈書があります。注釈書があること、これが私の考えでは、古典であるか否かの分かれ目です。これは日本のみならず、古典的書物をもった前近代文明社会ではどこでもいえることです。中国の四書五経、インドのヴェーダと言われるヒンドゥー教の経典類、イスラームのクルアーン(コーラン)・ハディースとよばれる聖典とアリストテレスのテクスト、ヨーロッパの聖書とアリストテレスのテクスト(アリストテレスのテクストはギリシャからアラビアに伝えられ、そこで翻訳された後、注釈がなされました。その後、ラテン語に翻訳されて、ヨーロッパのスコラ哲学に寄与したのです)などはいずれも注釈書の宝庫です。

これを日本に当てはめますと、四大古典になるのです。但し、このほかにも、『日本書紀』・『御成敗式目』・『職原抄』といったテクストも古典の名に値します。『職原抄』の注釈だけでもまあ一生かかるくらいありますから。

とはいえ、日本の古典の特徴といえるものは、中国・インド・イスラーム・ヨーロッパが宗教・哲学のテクストが核にあるのに対して、日本は文学、それも和歌を記したテクスト(『源氏物語』でも和歌と有職故実を知るための読まれてきた面もあります)が古典の中心となっていることです。これは日本文化を考える上でも大事な点ではないでしょうか。

四大古典について、さらに言いますと、室町期において、とりわけ『古今集』~『源氏物語』は貴族ばかりではなく、生まれや身分があまりはっきりとしない人が多かった連歌師たちによって注釈・研究がなされたという事実です。東常縁が始めた「古今伝授」(『古今集』の二条派風の解釈を特定の個人に伝えていくこと)は、宗祇を経て、三条西実隆、実隆を経て、実隆の子供・孫(公条・実枝)に伝わり、それから、細川幽斎なる文武両道の武将を通って、智仁親王にいきます。親王は後水尾天皇にそれを伝えますから、なんと、それほど著名でもなく、宮中や貴族社会とも無縁だった常縁の二条派の解釈は、結局、天皇家に入り正統的な注釈となったのです。その際、『伊勢物語』・『源氏物語』も解釈もほぼ同時に伝授されていきますから、宗祇といった連歌師たちがいなかったら、はたして日本の古典および注釈が後代に伝わったのかという疑問さえ起こります。こうした民間の連歌師によって古典注釈が行われたということは、我が国の古典文化を考えるときに見落とせない点だと思われます。連歌師たちが古典注釈に手を染めたのは、連歌を作るときに役立つからでしょうが、いつごろからか、深く注釈そのものにのめり込んでいったのでしょう。定家の記した和歌入門書に『詠歌大概』があります。大名や公家の書物を所蔵した文庫のみならず、ちょっとした蔵書家のお蔵にはまずこの本があると言っていいくらい普及しました。この書物は室町期に古典化しましたが、それは宗祇が注釈をつけたからだと思われます。宗祇をはじめとする連歌師たちの活動は決して連歌だけにとどまらなかったことも覚えておいてください。古典継承を担ったのは、天皇・貴族・武家だけではなく、連歌師たちがその中核にいたのです。

注釈の実際

それでは、注釈の実際を少しばかり覗いてみましょう。注釈というのは、語句の意味説明か、通常はそれで済むでしょうが、実際は異なります。

『古今集』仮名序には「このうた、あめつちのひらけはじまりける時よりいできにけり」という一節があります。和歌というものは、天地開闢、即ち、世界が始まったときからできていたという内容です。「仮名序」は和歌の原理論ですから、ここで言われていることは真理だと昔の人は考えました。しかし、注釈となると、様々な異説が現れます。

定家の息子である藤原為家は、このようにここを解釈しました。

天地開闢の時よりいできにけりといふは、歌のことはりをいふなり。うたのすがたにはあらず(『古今序抄』)

天地開闢の時には人間はいなかったと『日本書紀』には記されています。だから、為家は、人間はいなかった、つまり、歌というものはなかったが、その「ことわり」=理はあったというわけです。理という理念でものを考える習慣が古代日本にあったとは考えられません。為家はここで『詩経』の注釈書である『詩経正義』を用いて説明しています。矛盾を解決する方法ですが、中国的な思考方法を導入してなんとか和歌の始源性を説明しようとした試みだと見ることができます。

ところが、鎌倉後期の『毘沙門堂本古今集註』という注釈書になると、これが大きく変貌します。それを記す前に、『古今集』のもっとも古い注釈である「古注」の注釈を見ておきましょう。そこでは、「天浮橋の下にて、女神、男神と成り給へる事を、言へる歌なり」としています。これは皆さんもご存じのイザナギ・イザナミが天浮橋(あめのうきはし)の下で出会い、愛情ある言葉を掛け合って夫婦となり、日本を生んだという神話です。「古注」にしてみれば、実際の歌の起源をここに見出したのでしょう。逆に言えば、為家はそれに対する反論だったのです。

それでは、『毘沙門堂本古今集註』ではどうか。「古注」と似ているがやや異なります。

他州ヨリニハタヽキトイフ鳥来テ尾ヲ土ニタヽクヲ見テメ神ハアフノキオ神ハ上ニナリテトツキヲシ初ケリ。此時始テアナウレシアナ心ヨト云コトハ出来レリ。此ヲヤマト言ノ初トシテ思事ヲ云アラハス。皆歌ト云也。

イザナミとイザナギはどうやってみとのまぐわひ(男女の交わり)をしていいか分からなかったが、鳥のまねをしてできた(これは『日本書紀』の一書にあります)、その時、「アナウレシアナ心ヨ」ということを言った。これが「ヤマト言」(日本語ということでしょう)のはじめであり、思っていることを表している(「仮名序」の冒頭に「やまと歌は、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」とあり、和歌とは人の心を言語化したものだとされています)から、これを皆歌と言ったのだ、というのです。やや猥褻じみていると感じられた方もいるかもしれませんが、この注釈を記した人はそのようなことは少しも考えていません。一生懸命、「仮名序」に即して和歌の起源を考え抜いた結論がこれだったのです。

最後に、室町期、最大の学者と言われた一条兼良の説を見ておきましょう。兼良は儒教・仏教・道家(日本の場合は神道)が一致するという三教一致説を信奉していました。だから、彼によれば、このようになります。

天先(まづ)なり地後(のち)にさだまる。是を天地開闢(てんちかいびゃく)となづく。然後(しかるのち)ニ、人その中ニ生ず。これを三才といふ。天地人のはじめは次第をたてたれど誠は同時には三にわかれたり。かならず其中に人も有しゆへに、天地人の三は同時にして出来たる也。人生ずれば、哥といふしわざもいでくれば、開闢の世より歌道は有といへり。(『古今集秘抄(古今童蒙抄)』)

天地人を三才といいますが、三才も兼良によれば同時発生です。だから、人がいたとは書かれていないけれども、実際にはいたということになります。つまり、天地開闢の時から人はいた、だから、歌もあり、「歌道は有」ったということになるのです。三教一致もむろん中国から来た考え方ですが、ともかく、兼良によって、仮名序にある天地開闢と和歌の起源の矛盾は解決しました。しかし、兼良の説がその後支配的になったわけではありません。このような説もあるということだけです。

中世の注釈は最終的には、どの説が正しいかではなく、諸説集成に向かいます。あらゆる説を知っていることが学者としての正しいありようだったからでしょう。学者が物知りでなければいけない理由の一つです。

ほんの一例を見るだけでも、注釈の世界がいかに奥深いか、また、時に奇妙奇天烈かがおわかりになったかと思います。これを近代の国文学は、「荒唐無稽」といってばかにして無視し排除してきました。しかし、このような注釈があったからこそ、『古今集』をはじめとする四大古典は正しく古典となり、後代に伝わったのです。決して荒唐無稽と済ませるものではないのです。

近代の国文学を相対化するためにも、中世の注釈学は学ぶべき価値があります。学ぶというのがやや抵抗があるのなら、注釈の海で遊ぶという気分で諸君らもその広大な世界に入ってみませんか。

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