ことばと文化のミニ講座

【Vol.34】 2009.1   服部 裕

日本人の「矛盾」?

「(前略)日本人について書かれた記述には、世界のどの国民についてもかつて用いられたことのないほど奇怪至極な『しかしまた』の連発が見られる。」

これは、日本文化研究者であるルース・ベネディクトが『菊と刀』の冒頭に書き記している一節です。彼女は詳細な日本人論の前文で、日本人の考え方の本質を見極めることが如何に難しいかを指摘しているわけです。

日本人の行動や考え方に見逃すことのできないこの「しかしまた」は、キリスト教という一定の価値観の上に成立している西洋世界の人々には、まさに「奇怪至極」な矛盾と映るのでしょう。しかし、西洋人にとって矛盾と映る事象の裏には、実は首尾一貫した日本固有の「論理」があることを、ルース・ベネディクトは明らかにしようとしました。つまり、西洋人にとっての矛盾は、日本人にとっては極めて自明のことであり、その思考のメカニズムにこそ日本人の世界観あるいは価値観の本質はあるということなのです。

『菊と刀』についての詳細な考察は授業に譲るとして、今日は日常的な日本人の行動に見られるちょっとした(あるいは根本的な?)「矛盾」について書こうと思います。それは大きな意味では、ルース・ベネディクトが指摘している「しかしまた」に当てはまる事象です。

2008年6月、日本の女子学生たちがフィレンツェの大聖堂の壁に落書きをしたことが大きく報じられました。その記事を読んで、私はすぐに落書きにまつわる自分の体験を思い出し、ある新聞社の声の欄に投稿したところ、月末にそれが掲載されました。以下にその投稿文を引用します。

「日本人観光客が、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の壁に落書きをしたという恥ずべき事実を、6月25日一部の新聞が報道しました。

この報道に接してすぐに思い出したことがあります。それは2001年3月のローマでの体験です。『真実の口』で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁に、日本人が残したものと思わざるを得ない落書きを発見してしまったのです。それは「真実の口」に手を入れるのを待つ人々の列の右側にある壁でした。列には様々な国からの観光客がいました。もちろん、その中には私以外の日本人もいました。そこにいた日本人が書いたものかどうかはわかりませんでしたが、彼らは列を乱し、互いに写真を撮り合ってはしゃぐばかりで、誰一人その壁に日本語の落書きがあることに注意を向けることはありませんでした。

落書きのところには、イタリア語で多分『このような落書きはしないように』という意味の札が置かれていました。日本人の文化レベルの低さを如実に表した行為に、私は憤りとともに、情けなさに襲われました。私の体験から察すると、今回フィレンツェで行われた行為は、ひょっとしたら氷山の一角にすぎないのかもしれません。」

写真1
写真1

最初の写真は、その落書きを写したものです。ローマ字による落書きも、よく見ると日本人の名前です。

礼儀正しく奇麗好きなはずの日本人が、なぜこのように恥ずべき行為を犯してしまうのか、西洋人は不思議に思うはずです。では、このような公共を汚す行為は、日本では例外的なことなのでしょうか。確かに日本の町の表側は、ヨーロッパのそれに比べれば、むしろ奇麗に掃き清められています。住宅街も、2枚目の写真のように、ゴミ一つ落ちていません。しかしその反面、一歩町を出て、車が行き交う道路沿いに目を転ずると、至る所にゴミがあふれているのは、一体なぜなのでしょう(3枚目と4枚目の写真参照)。

写真2
写真2
写真3
写真3
写真4
写真4

ヨーロッパはどこを見てもゴミ一つなく、日本はどこもかしこもゴミだらけだということを、私は言いたいわけではありません。言いたいことは、日本では自分の家の周りはいつも奇麗に掃き清めるような人の中にも、自分のことを誰も知る人がいない所では平気でゴミを捨てる人がいるという事実です。「旅の恥はかき捨て」とは、よく言ったものです。これは、日本人の「内」と「外」を使い分ける考え方と、どこか通じているように思われます。あるいは、ルース・ベネディクトの言葉を借りれば、「しかしまた」という日本人のある種矛盾した行動様式を表しています。

こうした事例から、日本人の行動基準はその人に内在するある一定の倫理観(例えばキリスト教やイスラム教の「神の目」)にではなく、その人が所属する共同体で共に生きる「他人の目」に重きを置いているのかもしれない、と言ったら言い過ぎでしょうか。

ちょっと短絡的かもしれませんが、日本人旅行者がフィレンツェで起こした落書き事件は、私に以上のようなことを考えさせるきっかけになりました。

学科の取り組み