ことばと文化のミニ講座

【Vol.30】 2008.9   青山 英正

“和漢西洋ごちやまぜ”た日本近代詩の出発 ~文化史的観点から見た『新体詩抄』

図1
図1

まずは右の絵(図1)を見て下さい。右の男性は洋風の帽子をかぶっていますが、腰から下は袴で、下駄を履いています。左の男性は絣(かすり)の着物姿ですが、足には靴を履いています。これ以外にも、明治時代初期には、散切り頭の婦人やちょんまげに洋服など、珍奇なファッションをした人たちが現れました。

歴史上、日本文化に最も劇的な変化が生じた100年はいつ頃か、と問われれば、それは明治から昭和前半まで、すなわち1860年代から1960年代頃までと言ってよいでしょう。それまで長い時間をかけて培ってきた人びとの生活習慣や考え方が、欧米の文化と出会い、それを吸収する過程で、一見まるで別の国になったかのように変化しました。とりわけ明治維新から明治20年代にかけての20年間、その変化は実に急激でした。ちょんまげをあっという間に切り落とし、洋服を身にまとい、肉食を始め、また欧米風の政治体制を作り上げました。その変化の早さには世界中の人々が驚きました。

とはいっても、日本人がすぐに欧米人になれるわけはありません。人間の感性や習慣というのは存外根強いものです。それまで家畜の肉というものを口にしたことがなかった日本人は、肉の栄養を理解できたとしても、その脂っこさと臭みにすぐに慣れることはできませんでした。そこで、さまざまな工夫を凝らして、日本人の好みに合った肉料理を創り出そうとしました。すき焼き(牛鍋)やトンカツは、そうやって生まれた和洋折衷料理の傑作と言えるでしょう。そしてそれらは、現代ではすっかり代表的な日本料理の一つとしてすでに定着した感があります。

冒頭の図1に戻りましょう。この、明治時代のファッションについても、すき焼きと同様のことが言えそうです。そもそも洋服というのは、ヨーロッパの寒い冬に適合するように改良されたものですから、日本の蒸し暑い夏には合いません。上に洋服を着ていても足には涼しい下駄や草履を履く、あるいは下は靴でも上はゆったりした和服を着るといった和洋ごちゃまぜ(折衷=せっちゅう)のファッションも、当人たちに言わせればそれなりに正当な理由あってのことだったのかもしれません。

ですから、これらのファッションを滑稽だと笑ってはいけません。滑稽どころか、むしろ現代のハイテク社会に生活する皆さんの中にも、図1左の男性とほとんど同じファッションをする人は多いのです。たとえば、大学の卒業式で女子学生の着る袴姿はどうでしょうか。何しろ、上は女性用の和服、下はそれまで男性の正装に用いられていた袴、足はブーツなのですから、和洋だけでなく男女の別さえもごちゃまぜにした、より珍奇なファッションと言えなくもないのです。そしてそれが、現在では卒業式という厳粛な場における一種の正装として定着しているのが面白いところです。明治時代というごく近い時代に生み出された変わり種の新しい料理や服装が、いつの間にか正統的な和食や由緒正しい衣装の位置に納まっていった、この点にこそ、近代日本文化の重要な特色が表れていると考えられます。

さて、いよいよ本題に入りましょう。日本文学に「詩」というジャンルがあるのはご存じですよね。国語の時間、宮沢賢治や高村光太郎といった「詩」の作品をいくつも読んできた皆さんは、きっと「そんなの知ってるよ!」と答えるでしょう。でも、現代の皆さんが知っているような「詩」が日本に登場したのは、すき焼きと同じ頃でした。いや、実はすき焼きよりももっと新しくて、正確には明治15年(1882)です。それまで、「詩」と言えば漢詩、すなわち李白や杜甫のように漢字でつづった詩のことを指していました。それらは要するに古代中国語でつづられたものであって、日本語で書いた「詩」というものは、驚くべきことにそれ以前にはなかったのです。

明治時代に欧米の文学が輸入され、それぞれの国にはそれぞれの国の言葉で書かれた「ポエトリー」なるものがあるということを日本人は知ります。すると、「ヨーロッパの文明国が皆持っているポエトリーを、日本人が持っていないのは恥ずかしいじゃないか」という議論が起こります。そして明治15年、外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎といった学者たちが、欧米のポエトリーに対応する「詩」を日本でも作ることを宣言し、その最初の成果を発表します。それが『新体詩抄』という詩集です。「新体詩」というのは、これまでの詩(=漢詩)とは違った新しい詩、という意味です。つまり、『新体詩抄』はこれまでの伝統的な漢詩ではない、欧米の文学を取り入れた日本初の近代詩集でした。

しかしながら、日本人が欧米人になれなかったように、欧米風のポエトリーを日本語で作ることも、そう簡単なことではありませんでした。現代の日本語と英語を比較してみてもすぐ分かるように、単語の発音の仕方から文の構造まで、欧米の言語と日本語とは何から何まで違いますから、英語の詩をそっくりそのまま真似することなど不可能です。また、そもそも当時の日本には共通語も標準語も存在しておらず、各地の方言やそれぞれの身分独特の言葉があるだけで日本人同士でも言葉が通じないことなど当然といった状態でしたから、いざ日本語で詩を書こうと言っても、さていったいどのような言葉が日本語なのか、そして詩に使うにはどのような言葉がふさわしいのか、といったことすら、当初は皆目見当がついていなかったのです。そこで、とりあえず外山たちが試みたのは、それまで日本に存在していた文学のさまざまな要素を組み合わせることでした。ちょうど、肉料理と鍋料理を組み合わせたすき焼きや、和服と洋服を組み合わせた明治のファッションのようにです。

図2
図2

図2を見て下さい。『新体詩抄』の表紙です。表紙というのはいわばその本の顔ですが、これは、雅文芸(優雅で上品な伝統文芸)の代表格であった漢詩集と同じような、いかにも折り目正しい顔立ちをしています。井上哲次郎の序文も、儒教の経典を引用しながらこれまた重々しく漢文で書かれていますし、使っている紙(料紙と言います)も和紙ですから、『新体詩抄』は日本の伝統文芸につながる要素を少なからず持っていたと言うことができます。

図3
図3

では、中身はどうでしょうか。図3左を見て下さい。『新体詩抄』の本文です。文字には金属活字が使われています。金属活字の技術は、江戸時代末期から明治にかけて欧米から導入され、主に新聞や雑誌といった新しいメディアに使われるようになっていました。 文字の配列にも特徴があります。上下二段組みになっているのが分かるでしょうか。この配列に江戸時代の先例があって、それは教訓歌(または道歌)と呼ばれるジャンルです。図3右が、仏教系教訓歌の一つである『善悪種蒔鏡和讃』(ぜんあくたねまきかがみわさん)(天保6年〈1835〉刊)です。その内容は、今善い行いをすれば後々幸せになる、というものです。こうした教訓歌の目的は、生活の役に立つ教訓をリズムの良い言葉で覚えさせることにありました(「飛び出すな車は急に止まれない」といった現代の標語と同じですね)から、雅文芸とは対極的な、あくまでも実用に徹した俗の文芸です。『新体詩抄』では、活字の字間をわざわざ調整してまで、ご丁寧に各段の上下を揃えて教訓歌の体裁により近づけようとしているだけでなく、「~ぞよ」といった、これまた教訓歌や説教本によく見られる口語的な語法も多く用いています。

つまり、『新体詩抄』は、西洋的な要素だけでなく、日本の伝統的な雅文芸、さらには俗文芸の要素までもがそこにミックスされた、まさに「ごちゃまぜ」の詩集だったのです。作品の内容も、欧米の詩の翻訳やそれに倣ったものであったり、「勉強しなさい」といった教訓であったり、後の軍歌の歌詞に採用された勇ましいものであったりとさまざまで、これまた「ごちゃまぜ」です。このことは、編著者である外山正一自身が序文で端的に述べています。「新古雅俗の区別なく、和漢西洋ごちやまぜて」。

『新体詩抄』の評価は、当時から現代に至るまで決して高くありません。「欧米詩の下手な真似」「低俗」「歌謡的であって詩ではない」と散々な言われようです。かく言う私も、『新体詩抄』の作品に感動したことは、残念ながら一度もありません。しかし、文学的に見て良いか悪いかというアプローチだけが文学研究の全てではないはずです。感動ももちろん大切ですが、そこから一歩離れて、同時代の文化と絡めながら、いわば文化史的な観点から文学を考えてみることも、時には有効ではないでしょうか。明治の日本人が欧米の詩の本質をどのように理解したのか、そしてその本質に到達するために、それまで日本に存在していた文芸をどのように取り込んだのか。この『新体詩抄』は、それを知る重要な手掛かりを提供してくれます。そして、今、当たり前のように目にする「詩」が、始めから現在のような形だったのではなく、歴史の中で生み出され、変化してきた結果だということを、私たちに改めて気づかせてくれるのです。卒業式の衣装とすき焼きと近代詩、何とも遠くかけ離れたもの同士ですが、それらはいずれも明治という、激動の時代の産物にほかならないのです。

学科の取り組み