ことばと文化のミニ講座

【Vol.28】 2008.6   前田 雅之

「ゑごゑご」考

源頼政の昇進と和歌

(ぬえ)退治(『平家物語』第四巻)で名を馳せながらも、以仁王を舁いで平家滅亡を図って挙兵するも破れ、最後は自殺して果てた武者・源頼政(1104~1180)は、『頼政集』なる私家集をもつ著名な歌人でもあった。

『平家物語』では、怪物退治の前に、保元の乱・平治の乱で活躍しながらも、満足する恩賞に与らなかった頼政が

人知れず大内山のやまもりは木(こ)がくれてのみ月を見るかな

という我身の不遇を嘆く歌(「 述懐 しゅっかい 」という)を詠み、昇殿を許されたものの(殿上人になること)、それに飽き足らず、その後、三位、即ち、公卿の位階を狙って、

のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐを拾ひて世をわたるかな

と再び述懐の歌を詠み、遂に 従三位 じゅさんみ に到達したことを伝える。以後、 源三位 げんざんみ と呼ばれるようになる。貴族社会で生きる者にとって、昇進こそ最も優先すべき人生目標であったが、その点、頼政は人並み以上の出世欲をもつ人物であった。

さて、「のぼるべき」の歌は、「しゐ」が当時彼の位であった「正四位下」の「 四位 しゐ 」と木のもとに落ちた「 しひ 」の実が同音(shii)であり、それを掛詞としたことが売りである。木に登れない我身は地に落ちた椎を拾って生活するのかという意味と四位のままこの身を終えるのかという意味が重なっているということだ。どちらも哀れさが漂っており、こんな私ですから、なんとか三位に上げてくださいという切なる願いを効果的に表現している。現代人の眼から見れば、ちょっとね、やりすぎでは、と言いたくもなる。

とはいえ、さしてうまい歌だとも思われないけれども、不遇を嘆く歌によって昇進することもあったことをこの話は伝えてくれる。これが事実であった確証はないけれども、臣下の不遇感が和歌によって哀訴された場合、天皇・院(この場合は後白河院)はそれなりに対応するものとなっていたようだ。こんな歌がそれこそ毎日のように送ってこられたら、たまったものではないが、それも天皇・院の言ってみれば、仁の現れであり、昇進という甘い果実をもたらしてくれるのが他ならぬ和歌だったこと(これを「歌徳」という)は和歌の力を知る上で知っておいてもよい。

頼政の父仲正とその和歌

頼政の父親は、源仲正(1066年頃~1140年頃)といい、やはり歌人であった。経歴は、井上宗雄『平安後期歌人伝の研究』によれば、「下級官人—六位蔵人—受領—京官(それも閑職)」とあるように、従三位まで昇った息子と較べると不遇であった。武者でありながら中級官人生活をおくり、受領を経て、なんとか閑職の 兵庫頭従五位下 ひょうごのかみじゅごいげく に至りついた人である。

だが、仲正が、400首以上の和歌を残したばかりか、それまでに詠まれなかった特異にして突飛な歌ことばを和歌に詠み込む、革新的な歌人であったことは、頼政以上に評価してよい。おそらく歌ことばの用い方では、出来のよしあしは置いておいて、空前絶後の歌人であったろう。そのうちの一首をあげてみよう。

水溜まる谷のゑごゑご掘り返しわりなくうなふ小田の苗代

(水が溜まっている谷のえぐを掘り返し無理やりに耕したよ、小田の苗代は)

この歌は、仲正の晩年にあたる長承元年~3年(1132~4)に催された『為忠卿初度百首』の「春」部に「山田苗代」という題で詠まれたものである(102番歌)。「山田苗代」といった題(与えられた題に即して和歌を詠むことを題詠といい、平安後期以降、一般化する)は、この「百首歌」(「春・夏・秋・冬・恋・雑」の六部・百題で各人百首詠む形態)ではじめて登場するが、百首歌の起源というべき『堀河百首』(長治2年~3年・1105~6)の「苗代」という題がある。そこには、源 師頼 もろより (1068~1139)の

小山田のゑぐの若菜を打ち返し苗代水を引きぞまかする

という歌があり、「ゑぐ」(→「ゑごゑご」)、「打ち返し」(→「掘り返し」)とあるから、 これが仲正歌にもっとも影響を与えた本歌的な役割を果たしていると思われるが、仲正は、谷間にある土地を苗代田にするには、ゑぐ( 黒慈姑(くろぐわい))を掘り返さねばならないと大胆に歌の中身を改めている。

もっとも、「ゑぐ」と「山田」の結びつきは、『後撰集』春・37番・よみ人しらずの歌に

君がため山田の沢にゑぐ摘むと濡れにし袖は今もかわかず

とあり、「山田(の沢)」と「ゑぐ」の特定のイメージを喚起する結びつき(これを「観念連合」といってよい)は当時から知られていた。さらに遡ると、『万葉集』1839番に

君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ

という下句を異にする類型歌があるから(『古今六帖』1729番歌・「沢」でも、下句が「ぬれにし袖はほせどかわかず」となっている)、『後撰集』歌は、何種類ものヴァージョンをもつある種の伝承歌だったのだろう。

とはいえ、愛する人のために山田の沢のゑぐを摘むと、濡れた袖は今も乾かない(そこから涙を連想させ、なかなか逢えない心境を伝える)とする、春の部立ながら、恋のイメージが濃厚な歌が、『堀河百首』の為頼歌になると、春本来の姿に戻って、苗代を詠む農耕の歌に変貌していったのは面白い。和歌にはこのようなことがよくある。そして、為頼歌を想起した仲正は、今度は、水を引いて撒かせたとしないで、既に水が溜まっている谷間の土地として、そこに生えるゑぐを掘り返し、無理やりに苗代田を作った歌に変えてしまったのだ。こんな違いどうでもいいではないか、と思われる向きもあるかもしれないが、歌人とは、ちょっとした差異に己が詩人生命を賭ける存在なのである。

仲正歌の特異性と狙い

それでは、仲正歌は、どこか奇妙なのか。これはなんといっても「ゑごゑご」という独自の歌ことばにあるだろう。『為忠家初度百首』「山田早苗」で「ゑぐ」を詠んだものとしては、他には藤原忠成(俊成の同母兄、父は権中納言藤原俊忠・1091~1158)の歌がある。

小山田のこひぢに立ちてゑぐ摘むと苗代水に袖濡らしつる(100番)

この歌は、『後撰集』恋・五六七・よみ人しらず「今ぞしるあかぬ別の暁は君をこひぢにぬるる物とは」などで常套的に用いられ、多くは「濡れ」と結ばれる、「小泥」と「恋路」を掛ける「こひぢ」が「袖濡らしつる」となっているから、明確に『後撰集』「君がため」歌の世界を承けている。恋のイメージを密かに守りつつ、山田・ゑぐの観念連合を土台として題を詠んだものだろう。

 これに対して、仲正は和歌で唯一の用例といえる「ゑごゑご」を用いた。「ゑご」は「ゑぐ」の転で、用例としては、前代の代表歌人源俊頼(1055頃~1129か)に

雄神 をかみ 川睦月に生ゆるゑご摘みしなへてもそこのみためぞ

(『散木奇歌集』・春・26)

があるだけだ。俊頼は『万葉集』や方言から歌ことばを盛んに採っていった歌人だが、ここでは、『万葉集』巻17・4021番・大伴家持雄神川紅にほふ 少女 をとめ らし 葦附 あしつき 採ると瀬に立たすらし」の「雄神川」をとり、「葦附」(水松の一種)を「採る」を「ゑご」の「畝を摘み」と変換して、 詞書 ことばがき (和歌が詠まれる場を説明する文章)に「睦月の七日、中宮亮仲実がもとへ、七草の菜、遣はすとてよめる」とあるように、七草をあなたのために送ったのだという気持ちを表している。但し、「ゑご」がこれしか用例がないということ、さらに、俊頼が「ゑぐ」ではなく「ゑご」としたことは、『万葉集』を引いていることとも関連するが、古いと彼には思われる方言(根拠はないが)に「ゑご」があり、それから取った可能性があるだろう。それが七草を送るという古風な振る舞いに似合ったものと思われていたかどうかは分からないが、いかにも革新と伝統を調和させようとした俊頼らしい趣向を凝らした贈答歌である。

その「ゑご」を仲正はなんと繰り返して、「ゑごゑご」としたのである。思うに、「掘り返し」という反復を意味するイメージと、「ゑごゑご」という音の反復を重ね合わせてみたのではないか。さらに音のイメージで想像を広げれば、「こゑごゑ(声々)」という頻出する歌ことばを反転させた狙いがあったかもしれない。効果のほどはさておき、ある種の音楽性が生まれたことは間違いない。

また、「うなふ」というこれまたここにしかない歌ことばも登場する。室町期の『実隆公記』永享2年(1430)3月28日に記者である三条西実隆(1455~1537)は、連歌師宗祇(1421~1502)にいろいろな疑問を質す。その一つが「夏そひくうなかみかたは」(巻14・3348番なつそびく うなかみがたのおきつすに ふねはとどめむ さよふけにけり」か)という、『万葉集』の古注が不審とする語句であった。宗祇の答は、

夏そひく うね と続きたる事なるべし。田舎に田の畝を作る事をうなう いふ 事あり。

である。宗祇の解答は国語学的には「正しい」とはいえないだろうが、田舎で田の畝を作ることを「うなう」と呼んでいるという情報は貴重である。『岩波古語辞典』もこの用例から「うなふ」の意味を確定しているが、仲正と宗祇の間には350年以上の開きがあるけれども、仲正歌の「うなふ」は、田を耕す意味としてしか解釈できないので、おそらく、仲正は方言を取ったに違いない。

そこから、仲正の狙いが見えてくる。「ゑごゑご」と方言の「うなふ」を大胆に用いることによって、仲正は、「山田苗代」を舞台通りの田舎風に詠もうとしたのではないか。この時期、後代の藤原定家(1162~1241)が定めた歌ことばに関する厳格な制限はまだない。前述の源俊頼を見ればそれは諒解されよう。むろん、こうした振る舞いは、和歌の世界では例外であり、冒険、もっと言えば、異端の部類に入るだろうが、白河院が撰述させた、四番目の勅撰集『後拾遺集』(応徳3年・1086)の序文が、

こと を撰ぶ道、すべらぎのかしこきわざとてさらず、

誉れをとる時、山がつのいやしき言とても捨つることなし

と宣言するように、和歌とは天皇から山賤(和歌を詠まない身分の低い人)まで詠むものだと観念されるようになってきたこともまた事実である。実際には、庶民が和歌を詠むようになるは江戸時代くらいまで下がらないとないだろうが、それでも理念だけは日本人なら誰でも和歌を詠む(実際、木こりと山守が和歌を詠み合うといった説話も登場している。『古本説話集』・『宇治拾遺物語』所収)と観念されたからには、皆が雅な和歌を詠むと捉える考えの他に、庶民には庶民なりの和歌があるはずだとする考えが現れても別段不思議ではない。

さしずめ仲正は、ややふざけてかつややまじめに後者の立場、即ち、山田を耕す谷間に住む農民の立場に立ってあの歌を詠んだのではないか。その志やよしというべきだろう。しかし、歌の出来となると、やや首をかしげざるをえない。「ゑごゑご」「うなふ」はこの歌以外見えないし、「掘り返し」も他に一例あるだけであることから分かるように、この歌が後代になんら影響を与えていないことから、高い評価を受けたとは考えられない。だが、それ以上に、歌そのものを見ても、農民の苦労はリアルに読み取ろうとすれば読み取れるものの、それ以上の何かがないのである。あまりに和歌的情緒からかけ離れてしまっているということだ。和歌とはどこかで現実を超越しなくてはいけないのである。歌ことばまで変換してある種の現実を映し出そうとした仲正の試みは壮大な失敗に終わったというべきだろう。

しかし、同じく方言を用いる歌人であっても、源俊頼となると、俄然、詠まれる和歌世界が変わってくる。ここでは「ゑぐ」を詠んだ歌を上げてみよう。

しづ がゑぐ摘む沢の薄氷いつまで べきわが身なるらん

(『詞花集』雑・349)

この歌は、庶民の女性たちが沢でえぐを摘んでいる、沢に張った薄氷はいつまでもつか、それと同じように、私の身もいつまで生き続けるのか、分からないよ、といった内容だが、「えぐ→沢」という観念連合から、一気に「薄氷」と繋げて、それから、歌の主題をわが身のはかなさを嘆くというかたちに転換させていくやり方はさすがである。早春の沢にはまだ薄氷が張っている。そこへ、女性たちが、若返りの意味をもつ若菜摘みにやってきた。この場合の若菜はえぐである。しかし、えぐを摘むためには薄氷は割られなければならない。俊頼のすごさは、えぐではなく、えぐが生える沢の張った薄氷に気づき、それを見出したことにあるだろう。となれば、薄氷を出すために、えぐ・沢があり、わが身のはかなさと対照するために「賤の女」がいることになる。皆がうきうきして若菜を摘んでいるのを見ながら、自分はいつまで生きるか分からないわが身を嘆くというアイロニカルな趣向である。老残の身を薄氷に託して、しかも、それを割るのが若菜摘みの賤の女となると、なかなかもって不気味さまで湛えていようか。

この歌は、俊頼の私家集『散木奇歌集』では、「無常の心を」という詞書が付いている。本来は無常観を詠んだ歌なのだ。しかし、どのように無常観を出すかで歌人の質が分かる。俊頼は春の華やいだ雰囲気から一気に自己の暗い状況に反転させて表現したのである。これはある種の名人芸といってもよいだろう。

和歌が中世以降、語彙レベルにおいても、制限がうるさくなり、次第に月並み・凡庸になっていった(むろん、俊成・定家・西行・後鳥羽院・為兼・伏見院・頓阿といった大歌人は、制限された歌ことばをたくみに結び合わせて秀歌を詠むのだが)。そんななかで、仲正の時代は、まだ和歌の無限の可能性が信じられていたのかもしれない。また、この百首には若き俊成が参加している。俊成はアヴァンギャルドともいうべき仲正の和歌を身近に見ながら、そこに反面教師を読み取り、伝統重視の立場を打ち立てたのもしれない(そうではなく、単に無視した可能性も高いが)。

そうした意味で、和歌の伝統なるものを考える上でも、和歌世界の孤語ともいうべき「ゑごゑご」が投げかけるものは決して小さくない。

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