ことばと文化のミニ講座

【Vol.23】 2007.9   服部 裕

文化の反映としてのことば

今回は、ことばが文化にとってどのような意味をもっているのかについて考えてみましょう。とは言っても、私は言語学の専門家ではありませんから、ごく基本的なことを概観することしかできません。あくまでも比較文化論を講じる立場から、言語体系に文化がどのように反映されているのかを指摘するだけに留めます。

「言語文化学科」という私たちの学科名称が示しているように、言語は文化とは切っても切れない関係で結ばれています。その関係を端的に表しているものが文学であることは、誰でも容易に分かるでしょう。ことばなくして、文学という芸術が成立しないのは自明のことだからです。

しかしここでは、狭義の「言語による文化」(文学としての言語文化)を取り上げるのではなく、個別の社会それぞれに認められる固有の価値観や考え方の傾向が、それぞれの言語体系にどのように反映されているのかについて考えてみようと思います。例えば、私たち日本人が日々どのように日本語を使用しているのかに焦点を当てると、そこに各人の日本語使用における個性をこえた共通の性格があることに気がつきます。その言語使用の共通性は、私たちが文法体系に縛られていることの証なのですが、なぜそのような文法体系になったのかというところに、ことばと文化との関係の本質が隠されているように思えるのです。つまり、ひとつの言語の文法体系は、それを使用する人間たちが相互に合意した共通の考え方(価値観)の表れであるということです。

日本語をヨーロッパの言語(私の場合はドイツ語なのですが)に、あるいは逆にドイツ語を日本語に翻訳するとき、しばしば日本語の文法の特殊性(これはあくまでもドイツ語の論理性から見た限りの話ですが)に気づかされます。つまり、外国語のフィルターを通して初めて見えてくる日本語の特徴です。

日本語とドイツ語とを比較してまず気がつく大きな違いは、日本語では主語を明示しないことがきわめて頻繁かつ自然に行われるのに反して、ドイツ語では行為や動作の主体者(つまり現実の主語)が存在しない場合でさえ、必ずと言ってよいほど非人称の“es”という文法上の主語を使用することです。日本語で主語を使用しないのは、ドイツ語において主語の繰り返しを避けるためにそれを省略することとは、まったく違った意味があります。一方、ドイツ語で非人称の“es”を使用することで、とにかく主語を明示することに拘る背景には、行為の主体としての人間の意識をこえた別の何かが存在するという、言わば哲学的な世界観が潜んでいるからかもしれません。フロイトが近代的人間の主体意識の過度の合理性を批判し、それとは異なる無意識を“es”で表現したのは偶然ではないはずです。

ちょっと観念的な話になってしまいました。要するに、日本語にしてもドイツ語にしても、何気なく使っている文法体系には、それぞれの言語圏における人間同士あるいは人間と自然などとの関係における一定の思考様式が深く作用しているということです。

「どこへ行くの?」はドイツ語では“Wo gehst du hin?”と表現し、主語の“du”は絶対に省略できません。それに反して、日本語で「君はどこへ行くの?」とか「彼はどこへ行くの?」というように、つねに主語を明示したとしたら、かなり鬱陶しく、また不自然に聞こえることでしょう。通常日本語では、文脈に応じて主語が誰(あるいは何)であるかを察することが求められます。

ドイツ語を専門とする筆者は、何十年も日本語を母語として使っているのに、ドイツ語の主格に相当する日本語の主格はこれだと確信しきれないことがよくあります。係助詞の「は」や格助詞の「が」が、ドイツ語の主格に相当することは知っていますが、両者とも主格以外にもさまざまな機能をもっているわけで、筆者は日本語の主格を習慣として使用はしていても、それを文法的に正確に説明する自信はありません。(そもそも、「は」と「が」の使い分けという古典的な難題を、十分にこなしているという自信もありません。)

日本語の主格に対する疑問は、恥ずかしながらドイツ語に精通してようやく意識するようになりました。それまでは単純に、日本語の主語は「は」と「が」によって明示されると思い込んでいた次第です。国語学者のみならず、日本語に通暁している諸氏から見れば、何と馬鹿な奴だということになります。

1970年代後半ドイツの大学に留学していた頃、筆者は日本学のとても怖いナウマンという女性の教授の古文の演習に参加したことがありました。その授業のとき、この「は」の訳し方でこってりとしぼられ、それが日本語の主語の問題を考える最初のきっかけとなりました。簡単に説明しますと、筆者は「は」を伴う名詞がドイツ語の主格に相当すると解釈できるときは、当然のこととしてそれをいつも主語として独訳しました。それに対してナウマン教授は、「は」は必ずしも主格として機能するわけでないから、主語として訳せる場合でも、文脈によっては別の表現を使わなければならないと指摘したのです。彼女は、「は」は本来「~に関して言えば」という意味をもつ係助詞であるから、そのように訳さなければならないと考えたわけです。ドイツ語では、“was ~ betrifft, …”となります。この係助詞「は」の特性をよく表している例文が、かの有名な「わたしは鰻です」であることを、そのとき知りました。(この文を“I am a eel.”と英訳したら、よっぽどの場合でない限り、誤訳のはずです。)ナウマン教授の解釈が正しいとすると、日本語にはもちろん意味上の主語はあるが、それを明快に形で示すことは回避したいという心理が働いているということなのかもしれません。

話が長くなってしまいました。筆者が言いたいのは、上記のような主語の省略にしても、「は」の解釈にしても、日本語はとても強く文脈(コンテクスト)に依存している言語であるということです。(コンテクストはテクストのなかの文脈だけでなく、発話する人や場所や状況などの諸々の条件をも意味します。)このコンテクストへの強い依存が、往々にして日本語の表現を曖昧にしたり、誤解を招いたりする原因にもなります。

ここに至ってようやく、この雑文の本題に関わる疑問が浮かんでくるわけです。それは、なぜ日本語は主語を明示しないのかという疑問です。なぜ日本人は、特に喋りことばにおいて、しばしば主語を明示することを避けるのでしょうか。

主語の問題とは別に、日本語の特色を表す事例は他にも種々あります。代表的なものは、『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトも指摘している日本語の感謝の表現です。「すみません」は英語に訳すと“I am sorry”ですが、文脈によっては“Thank you”の意味にもなります。これは日本語を話す人間には自明のことですが、ヨーロッパの言語を話す人間にはとても不思議なことなのです。ヨーロッパの言語では、“I am sorry”が“Thank you”を意味することは、いかなる文脈でもありえません。では、いったいどうして、日本語では本来謝罪を意味する「すみません」が、感謝を意味する場合もあるのでしょうか。

主語の省略の場合と同様に、この疑問に対する答を得るには、人間関係や社会のあり方がそうした表現にどのように作用しているのかを探らなければなりません。人間は森羅万象を残らず言語で表現できるわけではありませんが、少なくとも人間が表現しうるものにはみな何らかの形で言語が介在していると言ったら、言い過ぎでしょうか。そして、ひとつの言語体系を形づくっているのは、それを使用する人間同士が共有する思考のあり方なのだと思います。それを広義の文化と考えるなら、「言語は文化である」のみならず、「文化は言語である」と言っても過言ではないのかもしれません。

ちなみに、「わたしは鰻です」は、自己紹介のときにはほとんど意味を成さないでしょうが、レストランで発話される場合には、明快な意味をもった表現となります。これは強くコンテクストに依存している日本語のおもしろさであり、難しさでもあると思いますが、如何でしょうか。

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