ことばと文化のミニ講座

【Vol.19】 2007.4   三橋 正

「国分寺」と「御岳」 -地名から仏教文化の展開を探る-

東京の「府中」「国分寺」と「御岳」

明星大学日野キャンパスに通う人は、京王線、またはJR中央線からモノレールに乗り換えて来ます。京王線の駅に「府中」があり、中央線の駅に「国分寺」があり、明星学苑の本部や中学・高校は両駅の間にあります。また、日本文化学部がある青梅キャンパスに通うためには、青梅線を使いますが、その駅に「御嶽」があります。今回は、これらの地名から、日本文化の展開を考えてみましょう。

武蔵国の国府と「調布」

「府中」「国分寺」「御嶽」という地名は全国にありますから、東京のを指す場合には「武蔵」を付けなければいけません。武蔵国は、古代の律令国家によって設置された国の一つで、現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の一部を占め、『延喜式』(民部省)では二十一もの郡を有する大国とされています。その政務をする国庁の置かれていた場所が「府中」です。ちなみに「調布」とは、律令制において「調(男子に賦課される人頭税)」として徴収した布(麻布)のことで、武蔵国では多摩川の水にさらして布を織って朝廷へ送っていたので、その場所が地名(駅名)となったのです。

「国分寺」の建立

「国分寺」は、聖武天皇が天平十三年(七四一)に発布した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建設された国立の寺院です。武蔵国分寺は全国最大の寺域をもち、南辺は三町半(約356m)、東辺四町(約428m)、周りに深さ1.5m、幅2~3mの溝をめぐらしていたことが発掘調査によってわかっています。東南に七重塔がそびえ、200mほど西に離れたところに、中門・金堂(仏像を安置した本堂)・講堂を南向きに一直線に並べた伽藍がありました。  正式には「金光明四天王護国之寺」といいます。聖武天皇が『金光明最勝王経』を読み、「この経典を広めたら四天王が降りてきて国難を救う」とあるのを受けて発願したことにより付けられた名称です。尼寺の建立も命じられていますが、その正式名称は「法華滅罪之寺」といい、『法華経』の力によって災厄の原因となる罪を無くそうという願いが込められています。『金光明最勝王経』も『法華経』も護国経典として重んじられ、それを読んだり(読経)、書き写したり(写経)、講義したり(講経)することで国難が消滅し、人々が平和に暮らせると信じられていました。ですから国家事業として寺院が全国に建立され、僧(20名)と尼(10名)をそれぞれの寺に住ませ、祈らせたのです。その2年後、天平十五年(七四三)には「大仏建立の詔」が出され、8年後に東大寺の大仏(盧舎那大仏)として完成をみる大行事が開始されるように、まさに国家仏教の最盛期でした。

御武蔵国分寺の完成と衰退

大仏もそうですが、国分寺の建立も簡単にはいかなかったようで、実際の完成は聖武天皇の死後と考えられます。武蔵国分寺については、『続日本後紀』という正式な歴史書に、承和二年(八三五)に七重塔が神火により焼失したこと、もと地方官(前男衾郡大領)の壬生吉志福正が再建を申し出て許可されたこと、が記されています。  その後は衰退の一途をたどったのでしょう。小規模な尼寺は、もっと早くから衰退したようです。今は、礎石・瓦など地中からの出土品からしか、奈良・平安時代の姿を想い描くことはできません。けれども、僧寺と尼寺の間には、幅12mもある古代の道「東山道」があり、「府中」まで伸びていたことが明らかになりました。都と地方が道で直結し、政治支配が浸透していくのと同じ経路で、都の大寺院と国分寺が直結し、仏教文化が伝えられていたのです。

「御岳」とは?

「御嶽」とは、山を意味する「嶽(=岳)」に、敬意を表わす「御」という接頭語を付けた語で、「みたけ」の他に「おんたけ」と読ませることもあります。つまり「お山さま」とでもいうような意味だったのです。これも全国に展開し、山の名前だけでなく、神社名などとして使われている場合があります。しかし、その広がり方は「国分寺」のような政治的なものではありません。  もともと「御嶽」とは、大和国(奈良県)吉野郡にある吉野山・青根ヶ峯・大峯山など山々を総称して用いられた語です。吉野山は、奈良時代から僧侶が修行する場であました。平安時代には紀伊国(和歌山県)の熊野までを結ぶ大峯修行路が開かれ、修験の聖地されたので、「御嶽」と呼ばれるようになったのです。平安中期以降には、貴族たちも1ヶ月に及ぶ潔斎(御嶽精進)をして参詣するようになります。これが「御嶽詣」で、特に寛弘四年(一〇〇七)に藤原道長が行なった頃から大流行しました。

山の神様は怖い? だから力もあり、御利益が得られる

吉野山は金峯山ともいい、その山上ヶ岳には蔵王権現という少し怖い姿をした像がまつられています。これは、日本の神様と仏教(密教)の仏像とが合わさってできた、神仏習合の尊像です。特別な力を得たいと考えて修行に励んだ僧侶だけでなく、貴族たちも祈願を成就してもらうために参詣して蔵王権現に祈り、仏教経典などをタイムカプセルのように埋める埋経をして帰ったのです。  このような特別な修行・祈願をする山は、全国の至る所で見つけられていきました。「御嶽・御岳(みたけ・おんたけ)」「金峯山」「吉野」「蔵王」などと様々な呼ばれ方がしますが、もとは同じです。そして、どこでも修験者(山伏)が集まり、蔵王権現像がまつられていました。また、一般の参詣者には、そこに定着した修験者が「御師」となって先導し、宿泊場所を提供したのです。例えば、奈良県の吉野山は今でも観光地として栄えていますが、その旅館の多くは、もと御師の宿でした。御師は、日本における旅行業の草分けだったのです。現代(昭和)になると、多くの参詣者を山上に運ぶためのケーブルカーも設置されました。

武蔵の御嶽

武蔵の「御嶽」は、東京都青梅市にあります。多摩川の上流で、梅園や吉川英治記念館などで有名な「吉野」も近くにあります。天気の良い日に青梅街道・新青梅街道を西に向かってドライブすると、真っ正面に見える美しい山が「御嶽」の最高峰である大岳です。もちろん、多摩モノレールからも良く見えます。きっと、昔の人も何か特別なものを感じて、その山を目指し、登り始めたのでしょう。

JR青梅線の御嶽駅からは、バスに乗り換え、さらにケーブルカーに乗って登ります。山上の御岳山駅から武蔵御嶽神社までの参道には、30もの宿坊(民宿)が集落を作るように立ち並んでいますが、これが昔の御師たちの家です。今は神社の神主を回り持ちしていますが、江戸時代までは修験者でした。もちろん蔵王権現像もありました。平安時代末か鎌倉時代前期に作られた金銅製の30?ぐらいの像ですが、現在は秘仏となっており、70年に一度しか公開されません。それもこれも、江戸時代後期の国学者と明治の神仏分離(廃仏毀釈)によって仏教色が排除されてしまったからですが、それ以前の様相を想像してみることも重要です。

自然の中の仏教文化

現在、「御嶽」を訪れる人のほとんどは、登山・ハイキングなどで自然に親しむためで、もともとの宗教的な意味を知る人は少なくなってしまいました。しかし、武蔵国を代表する霊験あらたかな山(霊山)として、多くの信仰を集めてきました。神社の宝物館にある国宝の鎧(赤糸威大鎧)は、鎌倉時代の武将畠山重忠が奉納したと伝えられるものです。さらに時代が下ると、ますます庶民化し、江戸時代には御嶽笠をかぶって大勢の人々が江戸から参詣に来ていました。そこに様々な文化が展開していたのです。  武蔵の「御嶽」だけではありません。全国の霊山といわれる山々のほとんどは、修験者によって開拓され、人々の信仰で支えられてきたのです。つまり、「御嶽」の広がりは政治的に強制されたものではなく、人々の精神的な欲求によるものでした。整備された道路などなくとも、精神的に大和の「御嶽」と直結していたといえるでしょう。

「国分寺」「御嶽」と文化史研究

「御嶽」とは、山を意味する「嶽(=岳)」に、敬意を表わす「御」という接頭語を付けた語で、「みたけ」の他に「おんたけ」と読ませることもあります。つまり「お山さま」とでもいうような意味だったのです。これも全国に展開し、山の名前だけでなく、神社名などとして使われている場合があります。しかし、その広がり方は「国分寺」のような政治的なものではありません。  もともと「御嶽」とは、大和国(奈良県)吉野郡にある吉野山・青根ヶ峯・大峯山など山々を総称して用いられた語です。吉野山は、奈良時代から僧侶が修行する場であました。平安時代には紀伊国(和歌山県)の熊野までを結ぶ大峯修行路が開かれ、修験の聖地されたので、「御嶽」と呼ばれるようになったのです。平安中期以降には、貴族たちも1ヶ月に及ぶ潔斎(御嶽精進)をして参詣するようになります。これが「御嶽詣」で、特に寛弘四年(一〇〇七)に藤原道長が行なった頃から大流行しました。

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