ことばと文化のミニ講座

【Vol.15】 2006.7   服部 裕

芸術と「政治」

芸術と「政治」

すぐれた芸術作品は現実に根ざしながらも、その日常性に対して自律した固有の表現世界を形式化するものです。日常性という日々の安心や惰性の懐に守られてつい見誤ってしまう人間の眼差しを、日常を異化する表現形式によって改めて生の実像や真実の姿に向けてくれるのが芸術の芸術たる由縁なのではないでしょうか。

日常は秩序によって守られ、秩序は政治によって規定されます。つまり、芸術は日常を規定する「政治」に対して自律した世界を持たなければ、その意味を喪失してしまうことになります。ここで政治を敢えて鉤括弧で括ったのは、それが現実世界の政治活動を含意することを明らかにするためです。つまり芸術がそれ自体の政治性を持つことと、現実の政治活動と結びつくこととは根本的に意味が異なると考えるからです。しかし現実には、多くの芸術作品や芸術活動が、ときとして作者の意図と関わりなく現実の「政治」に結びつけられ、場合によっては従属させられてしまうことさえあります。

なぜこの欄で「芸術と政治」の関係について取り上げようと思ったかというと、最近このことについて考えさせられる機会が二度あり、この問題の難しさと重要性について改めて思い至ったからです。

ハントケと「政治」

一つは、ペーター・ハントケという現存するオーストリア人作家にまつわるニュースです。ハントケはドイツ語圏の純文学作家としては(日本は別として)よく名前が知られている作家です。日本ではむしろ、ドイツ人映画監督であるヴィム・ヴェンダースのいくつかの作品の原作者(『ゴールキーパーの不安』等)或いは共同の脚本家(『ベルリン天使の詩』等)として知られているかもしれません。

そのハントケの作品は作家自身が公言してきたように、現実の「政治」との連関を極力避けることを基本としています。それは、彼が上で述べた現実に対する作品の自律性を、芸術(この場合は文学)の生命であると考えているからに他なりません。日常に潜む人間の生の真実を、言語の問題のなかに叙述しようとするハントケの創作の原点には、実はナチやそれに関連するドイツ及びオーストリアの歴史的社会現実への批判意識が隠されています。隠されているというのは、ハントケの作品ではそうした歴史的事象が決して名指しで描写されることがないからです。ですから、極めて詩的な文学表現が、作家の批判的な歴史認識によって貫かれていることを読み取るのは、必ずしも容易なことではありません。

一般的に非政治的と看做されることの多いハントケの文学は、「政治活動」という意味においてはまさに「政治」に対して一線を画してきました。(その意味で、ハントケはギュンター・グラスとは対極に位置する作家とも言えます。)そのハントケが「政治」の問題に引き込まれるきっかけになったのは、ユーゴスラヴィア内戦停戦直後の1996年1月にセルビアへの旅行記を南ドイツ新聞に発表したことでした。それ以来、ヨーロッパ全域のメディアや多くの知識人はハントケに親セルビア作家というレッテルを貼り、その作品はセルビア擁護の「政治的プロパガンダ」であると誹謗中傷してきました。ハントケに対する攻撃は執拗で,作家活動そのものを否定せんばかりの勢いでした。

しかしハントケは自らの創作はあくまでも文学であり、「政治」とは無縁であることを、作品を通して表現してきました。そうした非難にも拘らず、ハントケはその後も精力的に詩的表現力に満ちた作品を発表しつづけています。ハントケに対する政治的非難も漸く下火になってきたと思われた今年3月、ハントケのある行為が再びヨーロッパの社会と文壇を揺るがす大きな「事件」を誘発してしまいました。デン・ハーグの「旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判(ICTY)」の審理の途中、独房で死去したスロボダン・ミロシェヴィッチ元旧ユーゴスラヴィア大統領の葬儀に参列したのです。

ミロシェヴィッチの葬儀に参列するハントケ
ミロシェヴィッチの葬儀に
参列するハントケ

なぜハントケはミロシェヴィッチの葬儀に参列したのか?ハントケの真意は今のところ判然としません。メディアが書かない(セルビアの)「真実」を文学によってこそ発見し、表現できると確信してきたハントケが、なぜ自らに課した禁じ手である「政治」と関わってしまったのか(少なくとも表面的にはそう見えてしまいます)? ハントケ研究者である私にとって、これは重く大きな疑問です。

しかしここで書きたいことは、作家ハントケとその文学に関する分析ではなく、ハントケの行為が引き起こしたその後の出来事の意味についてです。

ハントケの「事件」を受けて、パリのコメディー・フランセーズの支配人マルセル・ボゾネは、2007年に予定されていたハントケの戯曲"Das Spiel vom Fragen oder Die Reise ins sonore Land"を演目から外しました。ハントケがミロシェヴィッチの葬儀に参列したことが、その理由です。すると瞬く間にヨーロッパの各所から、コメディー・フランセーズの決定は文学に対する検閲であり、断じて認めることはできないという多くの作家の抗議が起こったのです。ハントケがミロシェヴィッチの葬儀に参列したことの是非は二の次であるというのが、彼らの基本的な考えです。

もう一つの出来事は、本年5月デュッセルドルフ市が本年度のハインリッヒ・ハイネ賞をハントケに授与することを決定したことに対して、同市の議会を構成するほとんどすべての政党がこぞってその決定に異議を唱えたことです。文学賞に対する政治家及び一部の知識人の介入に対しては、文学者をはじめとした芸術家の間に激しい賛否の議論を喚起しました。そうした混乱を前にしてハントケは6月2日、デュッセルドルフ市長のヨアヒム・エルヴィンに宛てて書簡を送り、自ら賞を辞退することを伝えました。しかし問題はすでにハントケ個人の問題にとどまらず、文学に対する「政治」の介入の是非、ひいては文学と「政治」の関係に関する議論を後に残すことになりました。

本欄で考えたかったことは、文学(=芸術)の「政治」に対する自律性は可能なのかということ、或いは文学(=芸術)の政治性と現実の「政治活動」との間に明瞭な境界線を引くことは可能なのかということです。ヨーロッパの多くの芸術家たちは、この問題にひとつの明瞭な答えを出しました。文学(=芸術)に対する「政治」の介入及び検閲は、(作品の善し悪しとは関わりなく)決して認めてはならないという考え方です。これは、民主主義における芸術の生命線に他なりません。ハントケの「事件」は、期せずして民主主義の理念を再確認する機会を与えたと言えます。(この明瞭な答にも拘らず、「政治」をまえにして芸術作品は如何なる意味を持つのか、そして両者に対して作者自身はどのような責任を担っているのかという大きな問いは残りますが、それについてはまた別の機会に考えたいと思います。)

藤田嗣治と「政治」

サイパン島同胞臣節を全うす(1945年)
サイパン島同胞臣節を全うす
(1945年)


黙示録(新しいエルサレム,1960年)
黙示録
(新しいエルサレム,1960年)


礼拝(1962年)
礼拝(1962年)

芸術と「政治」の関係について考えさせられたもう一つのきっかけは、藤田 嗣治の絵画でした。今春、東京国立近代美術館で催された藤田嗣治展 は、所謂「戦争高揚画」について再考する機会を鑑賞者に与えてくれたという意味で、特に意義あるものだったと思います。

ここでも作品と「政治」と作者との関係が問題になります。藤田の所謂「戦争高揚画」は作品そのものの主題(=芸術的テーマ)の所在とは関わりなく、軍国主義下の戦争を描いたという素材(=芸術的モティーフ)の誤りと時の権力への加担という理由から、戦後の画壇で政治的プロパガンダとして激しく批判されました。藤田はそうした批判に対して多くを語るのではなく、日本を捨て「フランス人」として作品を描きつづけることで応えたかのようです。

「戦争高揚画」を晩年に描かれた多くの宗教的(カトリック的)作品と並べてみると、そのモティーフと色彩の対極的な相違にも拘らず、主題の連続性を感ぜざるをえませんでした。なぜなら、「戦争高揚画」が描いているのは兵士たちや戦時下の市民の勇ましさではなく、むしろ追いつめられた人間の無力感であり、祈りのような叫びであるようにみえるからです。それは後の宗教的な作品の人物が示す許しへの祈りに通じていると思うのは、わたしの考えすぎというものでしょうか。

いずれにしても、藤田は戦時中の「政治的な行為」が故に、芸術の自律性を日本では維持できなかったと言えます。藤田の創作的意図はどこにあったのか?画家の意図とは関わりなく、作品が「政治」の道具に堕してしまうことはないのか?それにも拘らず、芸術は芸術そのものとしての輝きを失うことはないのか?さまざまな疑問が湧きあがってきます。 ペーター・ハントケの「事件」と藤田嗣治展は、芸術と「政治」との関係を理解することが一筋縄ではいかないことを、改めて私に教えてくれました。

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