ことばと文化のミニ講座

【Vol.11】 2006.1   三橋 正

「仏」は「死人」? -「仏様」は「悟った人」なのに、何で?-

「仏」を「死人」の意味で使うのは日本だけ

刑事ドラマなどで、「ホトケ(仏)の身元が割れました」という会話を耳にしたことはありませんか?お葬式の場で「ホトケ(仏)の供養をする」、臨終の場で「ホトケ(仏)に成る」などとも言いますよね。このような使い方がされた場合、「トホケ(仏)」とは「死者」「死体」のことを意味します。

「仏」とは「仏陀(ブッダ=Buddha)」のことで、もちろん仏教から来ています。けれども、仏教では人が死んだからといって「仏に成る」とは言いません。というより、そんな言い方はとんでもないことです。なぜなら、「仏陀(ブッダ=”Buddha”)」とは「悟った人」という意味だからです。また「仏に成る」の詞の元である「成仏」の原義は、「悟りを開いて仏に成る」ということで、それを「死」や「死人」にあてはめるなど、日本以外では考えられないことです。

なぜ「死」を「仏」と言う用法ができたのか。この疑問をひもといて行くと、日本独特な仏教受容の実態が浮かび上がってきます。縁起の悪い話しとして敬遠しないで、ことば探求の旅に出てみましょう。

お釈迦さんが仏教を説いてから1000年後に日本へ

仏教は、紀元前5世紀頃、北部インドでゴータマ・シッタルダという人(=お釈迦さん)が創始した宗教です。釈迦(シャカ)族の国王の息子として生まれた彼は、29歳で出家し、35歳で成道、すなわち悟りを開いて「仏陀(ブッダ=Buddha)」になったと伝えられています。

日本に仏教が入ってきたのは、6世紀。すでに仏教も大きく変化し、多様な信仰が形成されていました。日本に伝わったのは大乗仏教ですが、その中で最もわかりやすく、かつ刺激的であったのは浄土教で、日本人の死後に対する考え方を根本的に変えてしまいました。

「お迎え」に来るのは死に神ではない

「成仏」と同じように「死」の意味で使われるようになった仏教語に、「往生」「お迎えが来る」という詞がありますが、これらは浄土教の用語なのです。

浄土教では、私たちの住んでいる世界は「穢土(死のある汚い世界)」で、輪廻して地獄などに落ちてしまう、だから、ここから離れなければいけない(厭離穢土)というのです。その「穢土」と対極にあるのが「浄土(死のない清らかな世界)」で、阿弥陀仏(阿弥陀如来)が誰でも「成仏(悟りを開いて永遠の命を得る)」することができるように講義(説教)をしているのです。それもオーケストラの伴奏やバレエ付きで!だから、私たちは苦しい修行をしなければならない「成仏」よりも、阿弥陀仏の浄土へ往って生きる、すなわち「往生」を目指すべきである(欣求浄土)と説くのです。

阿弥陀仏の浄土は西方にあるので「西方浄土」と言われ、どの浄土よりも素晴らしいとされたので「極楽」とも言われました。浄土教の教えを聞くと、誰もが極楽往生を望むようになりますが、とても遠くにあって、自力で行くことはできないので、阿弥陀仏に迎えに来てもらう必要があるのです。それも死の間際に。これが「来迎」です。つまり、浄土教の世界で死人を連れて行くのは、死に神ではなく、アミダさんだったのです。

死ぬ直前に出家する貴族たち

浄土教の教えは以上のようなもので、日本でも各宗派で研究されていましたが、平安時代の天皇や貴族の間で受容されるようになると、インドや中国では考えられないような現象が起こります。それは「臨終出家(=死の直前の出家)」と言われるもので、何と死ぬ直前に頭を剃って僧侶となるのです。これは寺で修行することを目的とする出家ではなく、「僧になっていた方が”あの世”で優遇されて浄土へ行ける」と考えたことにより始められた、日本独特の風習と考えられます。もちろん、教義的な裏付けはありません。

図1『北野天神縁起』に描かれた醍醐天皇の臨終。僧侶が天皇の髪を剃っている様子が描かれている。
『北野天神縁起』に描かれた醍醐天皇の臨終。
僧侶が天皇の髪を剃っている様子が描かれている。

「臨終出家」を最初に行なった人は、淳和上皇(840年没)または仁明天皇(850年没)と考えられています。この時代には天皇が中心となって弘仁文化が発達し、中国の宮廷に倣って漢詩を読んだり、仏教を積極的に取り入れたりしていました。この中で信仰と一体になった出家の風習が形成されたと考えられます。そして、『源氏物語』などが書かれた平安中期、国風文化(藤原文化)が発達した時代には、貴族の誰もが死ぬ前には出家していたい、と考えるようになり、「臨終出家」はあたりまえになっていました。その様子は、醍醐天皇の臨終の場面として、『北野天神縁起』の中に描かれたほどです。

浄土教美術

源信の『往生要集』(985)が書かれたのもこの時代です。最初に地獄の世界を描き、次いで浄土の世界を描き、そうして浄土へ行きたいという気持ちを起こさせてから、浄土への行き方をわかりやすく解説した本書は、たちまちベストセラーになました。そして鎌倉時代には出版され、現在に至るまでのロングセラーでもあります。この中でも強調されていますが、浄土教では特に「死」を迎える時の「臨終行儀」が大切で、息を引き取る直前に「南無阿弥陀仏」と十念をとなえ、心からその来迎を願うことが奨励されていました。それを実践するためのサークル(二十五三昧会)までできたほどです。

「死」の床で、浄土への想いを極限状態に高めるために、様々な演出も考え出されました。 当人も念仏しやすいように周りでも念仏を唱えてあげる「助念」とか、 阿弥陀仏が迎えに来る姿を描いた絵(来迎図)や仏像を安置して、その手と当人の手を五色の糸で結ばせる「糸引きの弥陀」とか。 これらは平安貴族の美的センスと融合して、この時代を代表する華美な「浄土教美術」を生み出しました。

図2 平等院鳳凰堂。当時から、極楽を疑うなら「宇治の御寺」へ行け、と言われていました。
平等院鳳凰堂。当時から、
極楽を疑うなら「宇治の御寺」へ行け、
と言われていました。

建築・仏像・絵画・庭園などを一体化させて「極楽」を再現しようとした寺院も造立されました。 現在に伝わるその最高峰が、藤原頼通(道長の息)によって永承七年(1052)年に建てられた宇治の平等院です。 その建物の形から「鳳凰堂」とも呼ばれています。 内部は丈六(坐像で約2m50cm)の金色阿弥陀仏像を中心に金銀の装飾に飛天像や来迎図が施されています。 それはまさに「極楽(彼岸)」世界で、正面の池をはさみ、「現世(此岸)」を意味する対岸から拝むように設計されていました。

山の神様は怖い? だから力もあり、御利益が得られる

吉野山は金峯山ともいい、その山上ヶ岳には蔵王権現という少し怖い姿をした像がまつられています。これは、日本の神様と仏教(密教)の仏像とが合わさってできた、神仏習合の尊像です。特別な力を得たいと考えて修行に励んだ僧侶だけでなく、貴族たちも祈願を成就してもらうために参詣して蔵王権現に祈り、仏教経典などをタイムカプセルのように埋める埋経をして帰ったのです。  このような特別な修行・祈願をする山は、全国の至る所で見つけられていきました。「御嶽・御岳(みたけ・おんたけ)」「金峯山」「吉野」「蔵王」などと様々な呼ばれ方がしますが、もとは同じです。そして、どこでも修験者(山伏)が集まり、蔵王権現像がまつられていました。また、一般の参詣者には、そこに定着した修験者が「御師」となって先導し、宿泊場所を提供したのです。例えば、奈良県の吉野山は今でも観光地として栄えていますが、その旅館の多くは、もと御師の宿でした。御師は、日本における旅行業の草分けだったのです。現代(昭和)になると、多くの参詣者を山上に運ぶためのケーブルカーも設置されました。

「臨終出家」から「死後出家」へ

さて、話しを「臨終出家」に戻しましょう。平安貴族たちのほとんど誰もが、死ぬ前には出家して「僧」になっていたいと思っていましたが、現世の楽しみを放棄したわけではありません。だから死ぬ直前に出家するのです。でも考えてみてください。病気で死ぬ時は直前に出家できますが、事故死の場合は無理があります。実際、摂関時代に栄華を極めたとされる藤原道長と、三蹟で有名な藤原行成は、同じ万寿4年(1027)12月4日に死んでいるのですが、道長は(以前に出家し)自分の建てた法成寺の阿弥陀堂で「臨終行儀」をやって死ぬのに対し、行成は体調を崩している時に厠に行って転んで・・・、当然願っていたであろう出家もできずに死んでしまいます。「臨終出家」はタイミングも難しかったので、それができたか否かで「来世」が決まってしまうなんて、酷な話しですよね。

そんな気持ちが影響したのでしょう。平安時代の終わりに、上級貴族の間から、何と死者に出家を認めるという「死後出家」の風習が現われます。確実な史料からわかる最初の例は、文治4年(1188)2月22日に亡くなった藤原(九条)良通です。お父さんである兼実の日記『玉葉』に、死亡が確定した後、棺桶に死体を移すことと出家のことを同時に決めたとありますから、間違いありません。

これ以降、「死後出家」は一般化し、生前に出家できなかった者には、お葬式の時に出家させるのが当たり前になります。この時、出家の証として僧侶(師僧)から「戒名」を授けるのです。「戒名」とは本来「僧名」「法名」と同じですが、日本では葬式で死者に付ける名前となっています。つまり、日本仏教の最大の特徴である「葬式仏教」で死者に授ける「死後戒名」の風習は、平安末期、貴族社会内で「臨終出家」から「死後出家」へと発展する中で形成されたのです。

日本語と仏教

仏教は日本文化の中で非常に重要な役割を果たしてきましたが、特に日本人のあの世に対する考え方(来世観)には決定的な影響を与えました。それは浄土教の教義をそのままではなく、日本的に変容させて受容したのであり、そこで「死者」=「仏」という認識も定着したと言えます。

日本語として定着した仏教語は、「死」に関連するもの以外にもたくさんあります。それらを探してみるのも、日本における言語文化を考える上で、大変重要なことです。

学科の取り組み