ことばと文化のミニ講座

【Vol.6】 2005.6   服部 裕

映画の言語

映画の誕生

記号論を俟つまでもなく、わたしたちはさまざまな事物にことばと同じような意味を見出したり、新たな意味を付与したりしていることを知っています。ことばが人間の思惟を表現するのに最も合理的な「記号」であることに疑いを挟む余地はありませんが、人間の表現をさらに豊かにし、想像力を強化してくれるのが、意味を担った諸々の事物でもあるのです。例えば、母の日に贈るカーネーションに花としての美しさの価値以上に、子が母に捧げる感謝と愛情の意味こそが表現されていることを、心ある人間であれば誰でも知っています。

このようにわたしたち人間はことばの意味を基盤としながら、ことば以外のさまざまな事物によってもことばと同様、或いは時としてことば以上の意味の衝撃を世界に与えることができます。その最も洗練された形式が芸術なのだと思います。色や形或いは光と影による表現、音とリズムと間による表現等、わたしたち人間は言語以外の形式でも多くの意味を紡ぎだしてきたのです。

そんな表現形式のひとつに映画が加わったのは、1895年12月のパリのとあるカフェーでのことでした。オーギュストとルイのリュミエール兄弟は現在の映画の撮影及び映写技術の原型となるシネマトグラフを開発し、自らの工場に出入りする労働者を世界初の動画として撮影しました。その後ラ・シオタ駅に到着する蒸気機関車を撮影し、パリのグラン・カフェーの地下室に集まった観客の前で上映したのです。世界初の有料の映画上映会でした。画面右斜め上から蒸気機関車が客席に向かって進入してくると、思わず席を立って逃げ出そうとした観客もいたというほど、その映像は迫力ある衝撃的なものでした。

映画はとても成長の早い子供で、リュミエール兄弟の発明は瞬くまに世界中に普及しました。兄弟自身はその後世界各地を撮影旅行して回ったあと(日本も撮影しているはずです)、まもなく映画制作からは離れてしまいます。その後フランスのジョルジュ・メリエスやシャルル・パテなどの力で、映画は急速に商業的なメディアとして発展します。ドイツ表現主義映画のヴィーネやラング、ソ連のエイゼンシュタイン等のさまざまな映画制作者が映画の質の向上に多大な貢献をしていることは周知の事実です。そんな中で映画という表現形式に独自の価値を与え、映画産業としての未来を切り拓いたのは、アメリカ(ハリウッド)の映画人たちです。その中で、映画が映画たる所以である映画独自の視覚的表現を確立したのが『イントレランス』(1916年)のデイヴィッド・グリフィスです。

モンタージュとしての「映画の言語」

では何が映画の映画たる所以なのでしょうか。映画はその草創期からすでにいろいろな撮影技術及び表現技術によって、独自の性格を自覚していました。例えば手品師でもあったメリエスは、映画の中ではいとも簡単に物を消したり出現させたり、或いは変身させることができるのを知っていました。それにも拘らず物語性の強い映画は当初、演劇との違いを明確に提示することができませんでした。なぜなら、最初期の劇映画は舞台で演じられる芝居を撮影していたからです。つまり演劇の映像化は、時と空間と筋の一致という演劇の「三一致の法則」とは言わないまでも、観客が一つの全体としての場面を常に同じ距離から、そして同じパースペクティヴで観るという演劇の法則に縛られたままだったわけです。

この映画にまとわりついていた「演劇性」の縛りを解き、映画を映画として自立させたのが先に挙げたグリフィスです。グリフィスは一つの物語を語る際に、同一場面(シーン)のなかでも観客と場面(シーン)の距離を自由に変え、場面全体の全景を細部の画面(ショット)に分割し、さらに画面のパースペクティヴを同一場面(シーン)の中でも変化させるという、新しい表現形式を考案しました。これを可能にしたのがさまざまなカメラの撮影技法です。ロングショットやクローズアップショット、フェイドインやフェイドアウト、カットバックやカメラアングルの変化、ライティングによる陰影の調整等々、数えきれないほどのカメラによる表現技法が産み出されたのです。こうしたさまざまな技法で撮影された画面(ショット)を寄木細工のようにつなぎあわせることで場面(シーン)を構成し、同じように場面(シーン)と場面(シーン)を自由につなぎ合わせて行くことで、映画はそれまでの視覚的表現形式とはまったく異なる新しい表現効果を得ることになりました。この技法を映画人はモンタージュ(編集)と呼びました。そしてこのモンタージュこそが映画の命であり、「映画の言語」の神髄であると言えるのです。

映画にとっては一つひとつのショットの質が成功の前提であることは言うまでもありませんが、仮に各ショットやシーンがすばらしいものでも、モンタージュの仕方が悪ければ、映画は全体としてまったくつまらないものになってしまいます。極端に言うと、同一の撮影フィルムを二人の異なる監督がそれぞれ独自に編集したとすれば、二つのまったく違う映画ができあがるということです。

台詞は映画の邪魔者?!

グリフィス以降の無声映画期の映画監督は、この「映画の言語」の本質をよく理解していました。音声言語を持たなかった彼らは、映像に語らせることが自明のことであり、音声言語以上に表現力を秘めていることを知っていたのです。それは、いわゆるジェスチャーなどの身体表現のことだけを意味しているのではありません。カメラが何をどのように撮影し、それをどのように編集して観客にみせるかということこそが、「映画の言語」の命です。例えばエイゼンシュタインは『戦艦ポチョムキン』(1925年)のオデッサの階段のシーンで、民衆を弾圧するコッサック兵の残虐さを表現するために、隊列を組んで行進する兵隊をクローズアップで映します。しかし、クローズアップされるのは兵隊の長靴だけで、顔は一切映し出しません。隊列を組んだ長靴こそが、民衆の希望を踏みにじる無慈悲な力を衝撃的に表現することを、エイゼンシュタインはよく知っていたのです。

1930年代になるとトーキーの時代が訪れ、無声映画は急速に消えて行きます。トーキーへの変遷は映画監督にとって容易なことではなかったようです。特に無声映画で表現形式を確立していた成功監督の方が、大きな悩みを抱え込んだようです。それは、彼らが「映画の言語」は音声言語にはないことを知っていたが故の悩みだったのです。台詞つまり音声言語で説明してしまうことほど、「映画の言語」にとっての致命傷はないからです。説明は表現ではないのです。

その一つの例としてチャップリンのことを挙げましょう。無声映画の帝王とでも呼べるチャップリンが初めてトーキーを採用したのは1936年の『モダン・タイムス』で、時期としてはかなり遅かったと言えます。もうこれ以上トーキーを無視できないという時期が来て、多分いろいろ試行錯誤していよいよトーキーに手をつけたものと思われます。『モダン・タイムス』には無声映画の帝王としてのチャップリンの悩みと同時に、トーキーがもつ上記の説明的表現の危険性に対する皮肉がチャップリン独自の形式で表現されています。『モダン・タイムス』は実は大部分が無声映画で、役者(チャップリン)の肉声が聞こえるのは映画の最後の部分のレストランのシーンだけです。突然客の前で歌を歌うはめになったチャップリンは、カンニングするためにカフスに歌詞を書き留めておきますが、踊りながら舞台に登場したとき大きく腕を振ったためカフスを失ってしまいます。さぁ大変!チャップリンは客を前にして、まったく歌詞が出てきません。楽団のイントロ(これはトーキー)は続いています。困ったチャップリンは思い切ったように、まったくでたらめな言語で歌い始めるのです。つまり、チャップリンは初めて観客に聞かせる自分の肉声を、まったく意味のない「ことば」にして聞かせたわけです。チャップリンは世界中の観客にむかって、音声言語の説明的性格を完全には免れないトーキーの危険性を表現しようとしたのだと思います。

映画が映画としての表現力を存分に駆使するには、台詞という音声言語でストーリーを語るのでなく、カメラの目と編集(モンタージュ)によって獲得した「映画の言語」で語らなければなりません。これは、映画が誕生して110年が経った今の映画においても変わることはありません。だからこそ、昨今の多くの映画が台詞ではなく、CGを駆使していかにも本物らしく、しかしあり得ない「現実」の映像に語らせようと躍起になるのでしょう。CG映画の制作者は音声言語による説明的映画のつまらなさはよく知っているにも拘らず、CGが創り出す全部みせてしまうというリアルさもまた説明的であるということには気がついていないのかもしれません。(因に、CGによる特撮よりも、移動カメラを使ったジョン・フォードの騎馬の疾駆の映像の方がよっぽど迫力があり、表現が豊かです。)

いずれにしても映画は非常に20世紀的な表現形式です。それは、以上に述べた映画独特の表現技法のためだけではなく、この表現形式を受容する観客が他の芸術ジャンルのように特定の専門家や教養人だけに限られていないということや、映画が表現しようとする対象も特定の階層の人間だけに限らないということからも言えます。つまり映画は、ヴァルター・ベンヤミンがいち早く1936年の「複製技術の時代における芸術作品」という論文の中で指摘しているように、その形式においても、また存在理由としても、20世紀という技術と大衆の時代が産んだ表現芸術なのです。この映画に宿る20世紀的性格については、また回を改めて述べることにしましょう。

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