古田島 洋介 教授 もはや漢字は御当地主義 ——筆順と画数をめぐって——

背景

1 漢字の形・音・義

 現在、東アジアでは、漢字の正式な字体が三種類も出回っています。第一は台湾・韓国・香港・澳門の繁体字(いわゆる旧字体/康煕字典体とも)、第二は日本の常用漢字(いわゆる新字体/1949年:当用漢字字体表→1981年:常用漢字表, 2010年:改定)、第三は中国の簡体字(簡化字とも/1956年:漢字簡化方案→1964年:簡化字総表)です。漢字の三要素すなわち形・音・義のうち、字体は形に関わります。国家や地域で三種の字体が完全に異なる場合もあれば、一つの字体だけが特定の国家や地域で使われている場合もあります。具体例は〈表1〉を御覧ください。それぞれの欄に三字ずつ例を挙げてみました。

〈表1〉字体三種挙例

 また、漢字を読むとなれば、中国・台湾・香港・澳門などの中国人は中国語音(普通話および台湾語・広東語などの方言をも含む)で、日本人は日本漢字音で、韓国人は韓国漢字音で読みます。むろん、これは漢字の三要素の音に関わる現象にほかなりません。もっとも、日本の漢字音だけは音読みと訓読みとに分かれ、音読みには呉音・漢音・唐音そして慣用音も存在するという複雑ぶりです。また、今日の韓国では、ほぼハングル専用のため、漢字を読むというよりも、ハングルで記された漢字音を読んでいるのが実情でしょう。

 これについても〈表2〉に一例として「行」字の発音を掲げてみます。中国語は普通話すなわち共通語の発音を示し、日本語については音読み三種だけを挙げました。

〈表2〉漢字「行」の発音

 さらには、同じ漢字でも、日・中・韓それぞれで異なった意味に用いている場合が少なくありません。これは漢字の三要素の義に関する現象ですが、その具体例は、たとえば佐藤貢悦・嚴錫仁『日中韓同字異義小辞典』(勉誠出版、2010年)のごとき書物によって簡便に知ることができます。字数から言えば、おそらく三国共通の意味で用いられている漢字のほうがはるかに多いでしょう。けれども、朝鮮半島でも日本でも漢字を駆使すること已に千数百年、本家本元の中国とは異なる独自の字義・用法が生じても不思議はないというものです。〈表3〉に上記『日中韓同字異義小辞典』p.34から一つだけ例を引いておきます。漢語「割愛」の語義に関する日・中・韓の相違です。表に仕立てる都合上、私なりに整理を加え、若干の字句を補ってあります。

〈表3〉「割愛」の語義

 「割愛」は、日本語では①・②の意味を兼ねますが、中国語では主として①を、韓国語では主に②を意味するとの趣旨です。原文は省略(割愛?)しますが、上掲書の同ページには、用例として中国語「紙面に制限があり、この部分は割愛するしかない」・韓国語「この論文に30頁の紙面が割愛された」が記されています。細かくは、さらなる議論が必要かもしれませんが、同一の漢語「割愛」が三ヵ国語でどのような意味合いを以て使われているのか、あらまし理解してもらえることでしょう。

 ちなみに、日本も朝鮮半島も、中国には存在しない漢字まで生み出しました。そのような漢字を、日本では国字と名づけ、韓国では固有漢字と呼んでいるようですが、それぞれ三字だけ〈表4〉に掲げてみましょう。いずれも漢字としか見えない文字ですが、中国には存在しない字です。

〈表4〉日本の国字と韓国の固有漢字

 このように見てくると、中国で生まれた漢字が斗日本や韓国で独自の歩みを示していることがわかるでしょう。もしかすると、中国人の目には、そのような歩みが放埒そのものに映るかもしれません。しかし、もともと繁体字しかなかった東アジアにおいて、第二次世界大戦終結後、日本が字体を改変して当用漢字を定めたのと同じく、中国も漢字の字体に変更を加え、今や簡体字を用いているのですから、あまり威張れたものではありますまい。「漢字に特許権ナシ」が紛う方なき現実だろうと思います。  実は、日本や朝鮮半島のみならず、さらにヴェトナムも加えると、いっそう漢字の自由度に対する理解が深まるのですが、現在のヴェトナム語はすべてローマ字で綴ることになっていて、もはや漢字は影も形もありません。興味のある方は、御自身で今は亡きヴェトナムの固有文字「字喃」(チュノム)を調べてみてください。国号「ヴェトナム」は、今日 Việt Namと綴りますが、もとはといえば、漢字による呼称「越南」をヴェトナム漢字音で読み、その発音をローマ字で表記したものにほかなりません。「越南」の日本漢字音「エツナン」は、厳密な歴史的仮名遣いで書くと「ヱトナム」となります。どうでしょう、「ヴェトナム」と聞こえませんか?

2 漢字の筆順と画数

 さて、漢字の形・音・義のばらつきについて認識を深めていただいたところで、さらに形について詳しく観察してみたいと思います。

 現在、私たちは便利このうえないパソコンという文明の利器を手にしており、自らの手を動かして文字を書く機会がますます少なくなってきています。その結果どうなったかといえば、漢字はおろか、仮名文字でさえまともに書けない嘆かわしい事態が起こっているようです。実際、大学の教室で板書させたり、試験で答案を手書きさせたりすると、平仮名の「や」と「ゆ」、「れ」と「わ」が判読できないような書き方をする学生が少なくありません。片仮名の「シ」と「ツ」の区別も怪しいことが多く、「ヲ」となると、たいていの学生が2画で書きます。正しくはヨコ2本を書いてから左下へハラう3画なのですが、「初めて知った」と言う学生が大半を占めます。況んや漢字においてをや。筆順は誤りが多く、筆画も勝手気ままが目立ち、心もとない思いをすることが日常茶飯事です。パソコン上でワープロを用いて字を打つ習慣が普及した昨今、致し方ない面もあるわけですから、あまり小うるさく注意しないように心がけてはいますが。

 ただし、筆順や筆画について事ごとに目くじらを立てて注意しないのは、別の理由もあっての話にほかなりません。それは、筆順や画数はあくまで相対的なものであり、絶対に正しい筆順やら画数やらを不用意に決めつけられないのが事実だからです。漢字を書くさいの原則は、二つしかありません。「上から下へ」と「左から右へ」だけです。その原則を守っているかぎり、巧拙は別として、できあがった漢字がよほど奇妙な形でなければ、そう簡単に「誤りだ」とは言えないのです。以下、いくつか実例をお目にかけましょう。

2-1 「王」の筆順

 漢字「王」は、どのような筆順で書くでしょうか? 何やら他人を小馬鹿にしたような質問に聞こえるでしょうが、無駄なことは言わないつもりですから、どうぞお付き合い願います。

 日本人ならば、まず例外なく[ヨコ-タテ-ヨコ-ヨコ]の4画で書くでしょう。この筆順は、韓国でも同じです。

 ところが、中国・台湾では、やはり4画でも、第2・3画の順序が異なり、[ヨコ-ヨコ-タテ-ヨコ]が正式な筆順なのです。

 改めて考えてみれば、中央のタテの起筆は二本目のヨコの起筆よりも上にありますから、原則「上から下へ」に従えば、日本・韓国のような筆順になるはずでしょう。けれども、二本目のヨコの起筆が中央のタテの起筆より左にあるのも事実ですから、原則「左から右へ」によれば、中国・台湾のごとき筆順になっても怪しむには足りません。

 まとめれば〈表5〉のようになります。筆順が決して絶対的なものではなく、あくまで相対的な性質のものだということを理解してもらえると思います。数学の〈確率〉で用いる言い回しに倣えば、「どちらも同様に正しいらしい」とでもなるでしょうか。

〈表5〉「王」の筆順

2-2 「北」の筆順

 「王」字については、日本と韓国で同一の筆順でした。ところが、「北」字となると、両国の筆順は異なります。

 日本では[ヨコ-タテ-ハネ‖ハライ-カギハネ]が正式の筆順ですが、韓国では[タテ-ヨコ-ハネ‖ハライ-カギハネ] が正規の筆順です。日本は「左から右へ」の原則に、韓国は「上から下へ」の原則に従って書くものと考えれば宜しいでしょう。中国は韓国と同じ、台湾は日本と同じ筆順です。まとめると〈表6〉のようになります。

〈表6〉「北」の筆順

 筆写するとき、第3画のハネは、日本ではタテの下端に付けるのが一般かと思いますが、台湾・韓国でも日本と同じです。ただし、中国ではタテの中途に付けるのがふつうのようです。実際、拙宅の住所には「北」字が含まれているのですが、中国人から手紙をもらうと、第2・3画を続け書きした〈図1〉のような書き方が多く見受けられます。

 もっとも、活字体は、日本でも「北」と印刷されることが多く、中国・台湾・韓国の活字体と見分けがつきません。

〈図1〉「北」中国人の筆写体の例

2-3 「左/右」の筆順

 日本では「左/右」の最初の2画の順序が異なることを、誰もが小学校で習うものと思います。「左」が[ヨコ-ハライ]と書き出すのに対し、「右」は[ハライ-ヨコ]の筆順で書き始めるわけです。

 しかし、2004年3月~7月、中国・北京市は北京外国語大学のなかにある《北京日本学研究中心》で中国人の大学院生6名に日本の漢文訓読を教えたとき、この「左/右」の筆順の相違について触れると、院生諸君から一斉に反発の声が湧き起こりました。「同じ字形なのに、なぜ筆順を変える必要があるのか?」と。たしかに、中国では、そして台湾でも、両字とも同じく[ヨコ-ハライ]の順序で書き始めることになっています。

 けれども、面白いことに、韓国の正式の書き順では、日本と同じく、「左」が[ヨコ-ハライ]、「右」が[ハライ-ヨコ]と書き出すことになっているのです。一見、日本・韓国は、同じ字形でありながら、「左」については原則「左から右へ」を重んじる一方、「右」については原則「上から下へ」に従うという二重基準double standardを以て臨んでいるように映るでしょう。二重基準と呼べば、何やらもっともらしいものの、要するに気まぐれな場当たり主義と思われても仕方ありません。

 しかし、「右」字の初めの2画は、もと右手の象形で、「又」が原形です。その「又」が変形されたものである以上、「右」字の第1・2画が[ハライ-ヨコ]の順序で書かれるのは、きわめて自然な話でしょう。それは「有」にも当てはまります。「有」は、もと右手で肉を持つ意で、御馳走をすすめることを表しますから、やはり[ハライ-ヨコ]の順序で書き始めます。それに対し、「左」字の第1・2画は、もと左手の象形で、「ナ」が原形。元来「左」は、左手に工具を持つことを表します。「左/右」両字の最初の2画についてだけ由来をまとめれば〈表7〉のようになるでしょう。

 このように来源まで遡れば、「左/右」の最初の2画の書き順が互いに異なるのも納得できるかと思います。どう見ても同じ字形なのに、なぜ筆順が相違するのか、それにはそれなりの理由があるからなのです。もちろん、同じ字形は同じ筆順で済ませる中国・台湾の書き方が、それはそれとして合理性を持ち合わせていることもたしかです。いわば歴史主義を善しとするか、合理主義を善しとするかの違いに帰着するでしょう。

〈表7〉「左/右」:第1・2画の来源

 すでに十分とは思いますが、「左/右」それぞれの第1・2画の筆順を〈表8〉にまとめておきます。第3~5画は、自明ゆえに省略しました。

〈表8〉「左/右」:第1画・第2画の筆順

2-4 「必」の筆順

 筆順に関するかぎり、「必」は横綱級の字だと言ってよいでしょう。漢字を常用している私たちは「上から下へ」と「左から右へ」という筆順の二大原則を自然に体得してはいるのですが、「必」の字形は、どうにも具合が悪く、どこから書き始めて、どう書き進めるのか、容易には判じがたいのが実情です。うっかり「心」を書いてからタスキを掛けたりすると、「そんな筆順では、話にならないね」と嘲りを受ける羽目になってしまいます。少なくとも、日本では。というのも、日本の筆順は、まず中央のテンを打って、その右にハライを記し、下部にカギハネをタスキ掛けしてから、左右両端に“チョン-チョン”とテンを打つことになっているためです。取り敢えず中央の部分を完成させてから左右にテンを打つ——これが日本の作戦です。実は、韓国でも日本と同じ筆順が採用されており、「必」字の書き順については、麗しき日韓友好が実現していると言って差し支えないでしょう。

 けれども、中国は違います。まず左のテンを打って、下部にカギハネを入れ、中央のテンを打った後にハライをタスキ掛け、最後に右のテンを打つのが中国の筆順なのです。できあがった字形は、日本・韓国とは自ずから微妙な差異が生じますが、「左から右へ」の原則に忠実そのもの、これはこれで合理的な書き順だと認めることができるでしょう。

 甚だ興味深いのは、台湾の筆順です。何と、驚くなかれ、日本では禁じ手とされている「〈心〉を書いてタスキ掛け」が台湾の正規の書き順なのです。つまり、第3画までは中国と同じですが、第4画は右のテン、最後の第5画でハライをタスキ掛けするわけです。日本人としては、何のために「必」の特異とも思える筆順を覚えたのか、恨み節の一つも唱えたくなりますが、事実なのですから致し方ありません。もっとも、台湾の筆順でも、中央のテンは、「心」の第3画のテンよりも高い位置にあり、「心」の字形そのものとは言えませんが。

 なお、台湾の字典はもとより、日本・中国・韓国の字典も等しく「必」を「心」部の字としています。部首が「心」なのですから、台湾の「〈心〉を書いてタスキ掛け」こそ最も素直で合理的な筆順と見なすこともできるでしょう。
以上、「必」の筆順を〈表9〉にまとめておきます。

〈表9〉「必」の筆順

2-5 「之」の部首と画数

 最後に「之」を取り上げてみましょう。皆さんは「之」を何画で書くでしょうか? ふつうは3画、すなわちテンを打ち、片仮名「フ」のようにカギを記し、最後にヒッパリを加えるのではないかと思います。時おり、カギに次いで左下の筆押さえに1画を費やし、計4画で書くのを見かけることもあります。たしかに、一般の活字すなわち明朝体活字では左下が〈図2〉のようになっているため、斜めにハラいたくなる気持ちは理解できます。けれども、これはあくまで筆押さえを強調したデザイン上の措置にすぎないので、わざわざ1画に数える必要はありません。

 同じことが「比」字にも当てはまります。やはり〈図3〉のごとく左下の筆押さえが強調され、あたかも新たに1画がハネ上がっているかのように見えるため、「比」を5画で書く人は決して少なくありません。しかし、これもデザイン上の飛び出しですから1画を充てる必要はなく、「比」は計4画で書くのが正しいのです。

 では、問題の「之」は計3画で確定かというと、実は然らず。計3画は、日本における通り相場にすぎません。

 初めに考えておくべきは、「之」の部首です。「誰が見ても上部のテンに決まっているではないか」と言うかもしれません。なるほど、中国の字典や日本の漢和辞典の一部は、「之」を「﹅」部2画、すなわち計3画の字としています。たぶん、これが今日の私たちの字形感覚に最もよく合う捉え方でしょう。

 しかし、日本の漢和辞典の一部、そして台湾・韓国の字典は「之」を「ノ」部に組み入れているのです。これには誰しも違和感を抱かざるを得ないでしょう。部首「ノ」の正式名称は「ノかんむり」ですから、「かんむり」(冠)と呼ぶ以上、「ノ」が上部になければ、しっくり来ないわけです。最上部の「﹅」を強引に「ノ」の変形と見なせば「ノ」部に帰属させる理由にはなりますが、そのような屁理屈が許されるのであれば、「﹅」部に属する「丸」「丹」「主」などもすべて「ノ」部に配置換え、敢えて「﹅」部を立てる意味がなくなってしまいます。いや、部首「|」すら「ノ」の変形と見なことが可能になり、「中」や「串」も「ノ」部に編入されることとなってしまうでしょう。

 では、「之」を「ノ」部に組み込むとは何を意味するのかというと、「ノ」が部首である以上、「ノ」の筆画を独立させて考えるわけですから、ふだん私たちが第2画としているカギ「フ」を[ヨコ-ハライ]の2画にばらすことになります。つまり、「之」は、まずナベブタの形を作り、次いで左下にハラい、最後に下部のヒッパリを書くという計4画の字になるわけです。

 とはいえ、なおも不審に思う向きが少なくないでしょう。部首「ノ」が字の内部に埋もれているのは奇妙な印象ですし、そもそも初めにナベブタを作るなら、なぜ「亠」を部首にしないのか、と。この疑問に対する回答はただ一つ——中国の〔清〕『康煕字典』(1716年)が「之」を「ノ」部に入れていたから——です。この字典の影響力は絶大で、その部首別・画数順に約47,000の漢字を整理した方式が、今なお各種の漢和辞典の拠りどころになっています。もちろん、今日の目から見れば腑に落ちない点もあり、たとえば、どう見ても「木」ヘンの字としか思えない「相」字が「目」部に入っていたり、自信を以て「門」ガマエだろうと決め込むと「問」字が「口」部に置かれていたりします。それはそれで意味との関連によって部首を決めた結果なのですが、漢字を一種の図形として捉える立場から見ると、今一つすっきりしない印象を受けるわけです。

 「之」字もその一例で、計4画で「亠」部に組み込んでくれれば、現代の図形的な感覚と齟齬を来たさずにすんだのですが、とにかく結果として『康煕字典』は「之」字を「ノ」部に組み入れました。日本では、それをそのまま引き継いで「ノ」部に入れている漢和辞典もあれば、現在の部首に対する常識感覚に鑑みて「﹅」部に移し換えている漢和辞典もあるということになります。前者は『康煕字典』を重んじる歴史主義で、台湾と韓国および日本の一部が採用するところであり、後者は図形性を重視する合理主義で、中国と日本の一部とが方針とするところです。私個人は、「之」字を「ノ」部に入れておきながら画数を計3画とするのは、部首「ノ」の筆画としての独立性を無視している点で、いささか矛盾した措置だと考えますけれども。

  以上、くだくだしい説明を記しましたが、御理解いただけたでしょうか? 例によって、結果を〈表10〉にまとめておきます。

〈表10〉「之」:部首・総画数と筆順  *筆押さえは省く。

3 結語

 さて、漢字の筆順や画数について具体例を挙げつつ論じてきましたが、どのような感想をお持ちでしょうか? 「小学生のときから学んできた筆順や画数なぞ、実は絶対に正しいと言えないものだったのか」と失望する人もいることでしょう。逆に「これだけ筆順や画数にばらつきがあるのだから、漢字に対して過度に神経質になる必要はないのだ」と解放感を味わう向きもあることでしょう。あるいは「いろいろな筆順や画数があるとはいえ、最終的な字形に大差はないのだから、その完成された字形を提供してくれるワープロとは実に有り難い存在だ」と改めて文明の利器に感謝の念を抱く人もいるかと思います。「漢字は、ワープロで入力しさえすれば、筆順だの画数だのに気遣う必要ナシ。すでに手書きの時代は終わったのだ」と。

 いずれの感想にもそれなりの理由があり、どれが正しいとは言えません。上記の三種についても、どれか二種の感想を同時に抱いたり、人によっては三種すべての感想を合わせ持ったりすることがあり得るでしょう。

 ただし、一つだけ動かしがたい事実は、もはや漢字は御当地主義localismだということです。日本は日本で、中国は中国で、台湾は台湾で、そして韓国は韓国で、それぞれ独自に形・音・義および筆順・画数が決められていて、相互に参考とすることさえあれ、互いの関係に優劣の差はありません。個々の教育政策・教育方針などに応じて、悪く言えば銘々勝手に、善く言えば各々自由に、裁量権を行使しているわけです。

 その結果、〈表1〉の「三者相違」欄に示したとおり、「與・与・与」「爲・為・为」「圖・図・图」がそれぞれ同じ字に見えなければならないという類の負担が生じたのは事実です。しかし、その一方、私たちが古来「干/于/千」を別々の字として受け取るような字形感覚を磨いてきたのも事実です。漢字を“硬いもの”と考えず、“軟らかいもの”として受けとめる姿勢さえ失わなければ、必ずや御当地主義がもたらす多様性に対処してゆけることでしょう。

 最後に、本稿を執筆するに当たり、私が筆順・画数について依拠した書籍を掲げ、それぞれ些少の贅言を加えておきます。実際には、国家・地域を問わず、以下の書物に示されている筆順・画数に従うことなく、自分勝手な書き方をしている人も少なくないと思います。けれども、一度は正規の筆順・画数をわきまえておくのも決して無駄なことではありますまい。総じて、物事には、どうしても規範というものが必要なのですから。

◆日本:阿辻哲次・釜谷武志・木津祐子[編]『新字源』改訂新版,角川書店, 2017年, pp.1714-1743:付録「常用漢字表 本表」(付 筆順).

*教育用漢字「王」「北」「左/右」「有」「必」に関しては、文部省「筆順指導の手びき」(1957年12月)に基づいています。
*人名用漢字「之」については、常用漢字「乏」「芝」の筆順に準拠しました。
*念のため、前田富祺[編著]『常用漢字最新ハンドブック』, 明治書院, 2011年, pp.47-195および三省堂編修所[編]『新しい国語表記ハンドブック』第6版, 三省堂, 2012年, pp.122-148が載せる常用漢字の筆順も参照・確認しました。

◆中国:国家語言文字工作委員会標準化工作委員会[編]『現代漢語通用字筆順規範』, 語文出版社, 1997年8月, 北京.

*書名のとおり、常用される漢字の筆順を1画ずつ丁寧に示しています。中国でどのような筆順が正しいとされているのかを知るには、最も信頼できる至便の一冊です。

◆台湾:黄得時[監修]柯遜添[校訂]教育部公布標準字体『国語小辞典』, 台湾東方出版社, 1989年, 台北.

*使用したのは、2001年1月に刊行された「革新初版」第26刷です。
*本字典は部首別・画数順に漢字を排列していますが、奥付に「本字典適用於小学中低年級」(この字典は小学校1~4年生向きである)と記されているとおり、子ども用の字典です。それだけに一字ごとに1画ずつ親切に筆順が示されています。
*巻頭の「難検字索引」を見ると、本稿で筆順・画数を論じた「王」「北」「左/右」「必」「之」の六字がすべて載っています。それは、たとえば一般向きの辞書『新編 東方国語辞典』(東方出版社, 1976年, 台北)の「難検字索引」でも同じですし、「王」以外の五字は、中国『新華字典』(商務印書館, 改版多数, 北京)の「難検字筆画索引」にも掲げられています。年齢を問わず、中国人にとっても等しく部首がわかりづらい漢字なのでしょう。

◆韓国:李炳官[字源執筆]『동아現代活用玉篇』,두산동아Doosan Donga Corporation, 1972年, ソウル.

*使用したのは、2014年1月に刊行された第4版・第14刷です。
*部首別・画数順に排列した各漢字について、韓国漢字音(ハングル)・草書体を掲げ、丁寧に筆順を示し、中国語(普通話)の発音(ローマ字拼音)・日本語の発音(音〔片仮名〕+訓〔平仮名〕)・相当する英単語を添えたうえ、字源・字解・主要熟語をも載せています。小型ながら内容は豊富、有用このうえない字典です。
*なお、〈表4〉に挙げた韓国の固有漢字については、金鍾塤『韓国固有漢字研究』, 集文堂, 1992年, ソウル, pp.38-49「3.固有漢字 提示」を参照しました。

◎本稿の漢字は、日本の常用字体を原則としました。

 
 
 

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