前田 雅之 教授 成績という文化 -近代のアイロニー-

背景

成績というもの

 最初に私を例に出しておきたい。学校の成績が誇れたのは、せいぜい高校一年生の夏休みまでであった。それ以降、大学を出るまでずっと低空飛行であった(例外は予備校の時くらいか)。高校三年の折、俺くらいひどいのはいないだろうと思って成績表を覗くと、なんとまだ下に八〇人いるのを知って妙な安心感を抱いたことがあった(このような安心感こそ人をさらに堕落させるものとはこの時気がついていなかった)。

 一昨年だったか、高校時代の知人と会って、成績の話になった。私は劣等生として認知されていたから、話せばだいたい碌なことはない。よって、高校一年夏休み前の上から二〇番、夏休み後の下から二〇番といった試験成績を伝えて、負け犬の遠吠えよろしく、「上も下も知ると、まあ、どうでもよくなるね」と煙に巻いた。

 とはいえ、受験校の宿命か、成績をいまだに気にする向きが存外多い。ある女性など、「前田君、〇〇君って凄いわね、だって、塾に行かないのに東大に受かったのよ」と言っていた。この発言が高校卒業時ないしは大学一・二年生時だったら、高校時代の記憶が濃厚であるし、価値観もさして変わっていないだろうから、認めてもよいだろう。しかし、還暦をまさに迎えんとする年齢で言われたとすると、この発言をされた方は人生ずっとそのように考えておられたということになる。やや言葉がきついかもしれないが、「あなたの人生って、そんなものだったの、通常はさまざまな経験が積み重なってもっと重層的な価値観になるかと思うのだが」と言いたくもなった(むろん、言えば、相手を傷つけるし、また、こちらの考えも一切理解されないだろうから、黙っていたが)。

 のっけから、妙な話で当惑された向きも多かろうと思うが、この成績というものこそ、私によれば、近代という時代と社会を最も的確に表す指標となるものである。なぜか? 結論から言ってしまえば、身分や家柄が前近代ほど人物から始まって出世さらには職業選択において影響しない近代社会において、人間としての価値を決めるものが学校の成績になるからである。こんなことを言うと、すぐに成績などたいしたことはない、実力によって、人間は社会から評価されるし、実際にそうなっているという意見が返ってくる。その通りである。

 だが、その実力を発揮しようにも、職業によってはその前の成績がよくないと発揮できないケースがそれなりにあるのだ。あらゆる職業が成績と無関係だということは断じてない。また、一般的に社会的によいとされる(私がそう思っているわけではないし、ましてや、それに憧れているわけではない)職業の多くは、学校の成績がそれなりによくないとなりにくいものなのである。たとえば、官僚や医者などはそうだろう。加えて、成績のいい人間が無能なわけではない。少しでも学校の勉強をしてみたらすぐに分かることだが、高校の五教科(英数国社理)を満遍なく勉強してどの科目もそれなりにいい成績をあげていくのは一つの能力であり、そうした能力は、仕事における整理のうまさ、能率の高さ、無駄のなさとして現れてくることは十分に予想できるし、実際にそうだからである。人間の能力は一緒に仕事(アルバイトでもサークルでも何でもよい)をしてみると分かるものだ。そんなときに、手際がよい人、間違えずかつスピーディーにこなしていく人を見ていると、概ね学校の成績がよかった人たちであることが後になって分かってくる。

 但し、ここで言う、成績のいい人たちは決して天才ではない。天才とは人間がもっている多くの能力の一つが突出した状態にある人であり、彼らは超人的な能力を一つの部門で発揮するが、反面、それによって喪われるものも多く、とりわけ対人関係が絶望的に駄目であるケースが目立つようである。某先生が言われた「天才は偉くない、天才の周囲にいて天才を世話している人たちが偉い」というのはその意味で断然正しいのである。なぜか? 理不尽な発言や行動をする天才に対して我慢をしつつ面倒をみていることは通常の人間には耐えがたいからである。

 となると、成績のいい人たちとは、通常の常識・良識・価値観をもった秀才だということになる。秀才もなろうとしてなれるものではない(急に足が速くならないのと同じである)から、私のような劣等生から見れば、それだけで仰ぐべき高峰と言うべき存在だが、ここでは劣等感・優越感なるマイナスにしか働かない感情(人を羨むのも、人を侮蔑するのも健全な精神の真逆にある)は無視して、そういう存在が近代社会の中でどのような悲喜劇を生みだしてきたかを二つの事例に注目して論じてみたい。

作家と成績

 昨秋、山中湖畔にある三島由紀夫記念館を訪れた。その時は三島の青春時代特集だったが、なかでも二つの資料が目を引いた。三島の東大法学部の卒業成績と高等文官試験行政科(現、国家公務員一種試験、通称「国一」)の成績である。三島という人は、自己の成績表などを廃棄せず、きちんと保管しておく生真面目なタイプだったようだが、それはともかく、成績を見ると、東大法は優が六つ、高等文官試験は一六〇人中一三〇位くらいであった。この成績をよいとみるか、悪いとみるかは人によって異なるだろうが、戦前における東大法や高等文官試験の常識で言えば、悪いと認定されただろう。学習院を首席で卒業して東大法に進み、卒業後、大蔵省に入って二年後に作家となった。三島を語るときに概ねこのようなエリート伝説があるけれども、実際はさして成績のいい人ではなかったのである。

 三島の成績をさらに相対化するために、東大法学部の成績について少し説明しておこう。現在はかなり変わってきたようだが、東大法学部の場合、基準になる一五科目のうち一〇科目以上が優でないと、学部助手にはなれなかった。学部助手とは、大学院を飛ばして、すぐさま助手になり、助手論文がよいと、二六歳前後で東大法学部助教授になるというスーパーエリートコースである。どうしてこんな制度が生まれたかについては、はっきりとは分からないが、おそらくいい人材を東大に残すためであっただろう。そうでないと、その手の優秀な人材は裁判官・検事・官僚などになってしまうからである。助手は東大の教員であるから、給与が出るし、労働条件も抜群によい(仕事は入試の手伝いくらいらしいから、事実上ない。勉強だけしていればよいのである)。こうすれば、成績のいい秀才を確保できると目論んだのだと思われる(但し、現在はこの制度は事実上なくなったようである。若いときの秀才が続かないことが度々あったためだろうか)。ちなみに一五分の一〇の人がどのくらいいるかと言えば、約五%である。明治以来、最近のロースクール設立まで東大法学部は一学年六〇〇人であったから、その五%と言えば、三〇人である。全国の優等生が集まる東大法学部で上位三〇人というのはかなりの狭き門であることがここからも理解できよう。ちなみに下位にいる約三〇〇人の学生は概ね優が〇だと聞いたことがある。彼らは東大法学部に入って初めて俺は劣等生だったと気づかされるのではなかろうか。やや気の毒ではある。

 こうしてみると、三島は決していい成績ではなかったのだ。三島よりは十五歳ほど年長だが、やはり東大法を卒業した縁戚筋の人(とっくに故人)がいた。その方の成績表もなにかの縁で見たことがあるが、優は三つであった。それでも、高等文官試験司法科(現在の司法試験)を突破して、検事になられたが、さして偉くもなられなかったようである。「私の人生は平々凡々であった」と回想録に記してあったのは本音であったろう。そして、頭のどこかの隅にもう少し成績がよかったら、人生は変わっていたかもしれないという思いがあったかもしれない。

 加えて、三島には、もう一つ隠された事実があった。学習院中等科から旧制一高(現、東大教養学部)を受験して落ちていること、さらに、大蔵省には受かったものの、日本銀行には落ちていることである。この事実は三島によってひた隠しにされていたが、近年、研究者が明らかにした。受験校ではない学習院から当時偏差値トップの一高(一高と最底辺の高知高校とでは、偏差値で二〇以上の差があったらしい。そのさらに下に私立大学の予科があったことを付け加えておく)を受験することさえ無謀だと思われるから、ここに落ちたのはやむを得ないとは言える。だが、日本銀行まで落ちるというのはどういうことか。ずっと疑問だったが、上記の高等文官試験の成績で納得がいった。これを見て、よくもこんな成績で大蔵省に入れてもらったものだと思ったものである。調べてはいないが、おそらく大蔵省に入った同期で最低ランクの成績だろう。ちなみに三島の同期入省トップは長岡実だろう。一高→東大法ときて、大蔵省に入り、最後は次官。そして、専売公社総裁(日本たばこ初代社長)となったエリート官僚である。この人は若い頃から将来の次官と目されていた。どうしてか? 成績が抜群によく能力的にも卓越していたからである。対して、三島ときては、これ以降は推測に過ぎないが、大蔵省にいたところで、せいぜい課長止まりだったのではないか。だったら、二年で辞めて作家になった方がよい。そうして作られたのが、学習院→東大法→大蔵省というエリート秀才コースを進みながらも、文学への夢を捨てきれず、作家への華麗なる転身という三島伝説だったのではないか。

 だからといって、三島の作品が駄目だというのではない。おそらく戦後最大の作家は村上春樹でも大江健三郎でもなく、三島だと思われる。三島に伍するのは安部公房くらいのものだ。しかし、言いたいことは、一見、世間離れしていたような都会人三島であっても近代を形作る成績という文化の中にしっかりと組み込まれていたということだ。

 以前、南方熊楠記念館を訪れたところ、熊楠が入学し退学した大学予備門(旧制一高の前身)二年次の成績表が展示されていた。同期だった正岡子規の名前がない(落第して一学年下にいたからだ)が、漱石はあった。七二点であり、まあまあの成績である。他方、熊楠はと言えば、六二点であり、及第ぎりぎりであった(翌年、熊楠は落第し、退学する)。彼の同期で抜群に成績がよかったのが、平岡定太郎(その後内務官僚、初代樺太庁長官)であった。八四点だったか。この平岡こそ三島の祖父である。三島の父も農林省(現、農林水産省)の局長まで昇った人だが、どうやら三島家は代を下るほどに成績は低迷し、逆に文章を書く能力は上がっていったようである。

 三島を例にとってやや詳しく成績との関係を述べてきた。ここから何が分かるだろうか。それは近代社会において作家なるものがどうやって生まれてきたかである。入学した学校をほぼすべて中退した永井荷風や萩原朔太郎は日本近代を代表する作家・詩人だが、簡単に言えば、学校にはなじめない劣等生であった。志賀直哉は学習院から東大に進み中退しているが、成績がとにもかくにも悪く、成績に対する劣等感から生涯逃れることができなかったという。ために子供たちの進学にもはなはだ冷淡であったとか。太宰治が現代の引き籠もりのように東大文学部にほとんど通わず六年も在籍して(当時の大学は三年、但し、旧制高校が三年あるから、合計六年もあった)そのまま退学しているのも、勉強する気がなかったことも確かだろうが、成績もよくなかったに違いない。一見、知的かつ成績抜群に見える辻邦生だって、当時「三松」(旧制松本高校・松江高校・松山高校)と呼ばれて帝国大学の先生に馬鹿にされていた松本高校に進み、五年も在籍していた。戦前は旧制高校の定員と帝国大学の入学定員が同じだったから、東大の法学部や医学部を選ばない限り、黙って帝国大学には進めたので、辻も東大文学部に進んでいる。辻の松本高校仲間が北杜夫であった。北杜夫は父である斎藤茂吉(秀才であった)の説得で東北大医学部に進んでいる。東北大になったのは、東大には入れないと思ったからではないか。最近物故した野坂昭如は新潟の名望家(父相如は副知事だった時期がある)の出身だが、旧制三高(現、京都大学総合人間学部)に二度も落ちて嫌々ながら旧制新潟高校(現、新潟大学)に進み、京大を受験してまた落ちてなんとか早稲田大学に入った。だからといって、大学に通うわけでもなく、いつのまにか中退し、作家になった。おそらく早稲田のキャンパスで野坂を見た人はいなかったのではあるまいか。

 例を挙げればまだまだ上がるが、この辺で終えておこう。作家という職業は、上記に示したように、文学青年を気取りつつも、よくよく見れば、成績がよくなく、こうなったら、作家しかなれない(なれただけでもたいしたものである。これは押さえておきたい)連中がなるものだったのである。もっと優しく言えば、作家的知性や感性と学校の成績とは相性が悪いということである。この矛盾する関係が作家を作り出すのだ。なお、漱石がプロの作家になったのは四〇歳の時であり、それまでは英文学者である。秀才(二歳も歳を誤魔化していたとはいえ、東大卒業順位が八位だったので、東大に残れず陸軍に入った)森鷗外は一度もプロの作家にはなっていない。

 ここで、大胆な仮定をすれば、明治維新がなく、江戸時代が続いていたら、これまで述べてきたような作家は誕生しようがなかっただろう。大田南畝は御家人出身の小役人であったが、江戸時代四回催された昇格試験にトップで合格している。むろん、科目も近代とは異なるが、旗本ではない御家人としては一等出世もし、和歌・狂歌、漢詩・狂詩、俳諧・川柳、文章(和・漢・随筆・考証)などすべての文芸分野において、堂々たる業績を遺している。南畝が明治以降に生まれていたら、さて、作家になったであろうか。

成績優秀者たちの集団─陸軍

 最後に、作家の正反対にいた人たちの例として陸軍エリートを上げておきたい。鷗外も陸軍軍人(極官は軍医総監=中将)であったが、長州閥の陸軍と呼ばれたのは明治で終わり、以後の陸軍は徹底した成績主義で人間を抜擢していった。陸軍には陸軍幼年学校・陸軍士官学校・陸軍大学校という教育機関があった(他にも経理学校などの学校があるが省略する)。陸軍将校を目指すのであれば、中学校二年次で受験する幼年学校に入るか、中学四・五年次で受験する陸軍士官学校に入るのが普通である。中でも陸軍幼年学校(「陸幼」)出身者は陸軍士官学校(「陸士」)出身者よりも陸軍の生え抜きとして大事にされもしたが、結局、将来を決めるのは成績であった。

 永田鉄山という著名な軍人がいた。軍務局長(政府予算の四分の一にあたる予算を差配する権力がある。現代風に言えば、二五兆円前後のお金の使い方を決めている人である)時代の昭和十(一九三五)年に「中年の青年将校」とも言われた相沢三郎中佐(むろん成績は悪い)に斬殺された。この人が生きていたら、日中戦争も大東亜戦争(=太平洋戦争)もなかったと言われるくらい有能かつ先見の明にたけていたが、彼の成績が凄まじい。陸幼から陸大までの卒業席次を上げる。

東京陸軍幼年学校三位─中央幼年学校二位─陸軍士官学校一位─陸軍大学校二位

 いやはや絵に描いたような秀才である。永田は最短時間で陸大を卒業した後、デンマーク、ドイツ、スウェーデン、スイスと計五年以上ヨーロッパに留学し(ドイツ女性からドイツ語でラブレターももらっている)、現場経験は他の陸軍エリートと比べても少なく、それ以外は、参謀本部、陸軍省といった陸軍中央の主要ポストを歴任し、規定ラインに乗って軍務局長に昇進した。暗殺されていなかったら、陸軍次官を経て、陸軍大臣、そして首相になっていただろう(ちなみに永田が死んだので永田の子分であった東条英機は首相になれたのだ)。

 さらに、落とせないのは、この人物が単なる成績秀才ではなかったことである。その見識もなかなかなものであった。軍縮ムードで覆われていた動員課長時代に戦争勃発の不可避性を講演し(その通り、第二次大戦は発生した)、他方、竹馬の友だった岩波茂雄に依頼されて書いた「陸軍の教育」(『岩波教育科学大系』八巻に所収)において、陸軍とはあらゆる国民を兵士として育てる教育機関であると論じた。そこには一般イメージにある陸軍=精神主義という構えは皆無である。最初にカントの楽観主義とショーペンハウエルの悲観主義を上げて、陸軍の教育はその間にあると筆を起こすところなど、当時の大概のインテリと議論できたと思われるほど機知に溢れている。

 このように記すと、いや、永田が極端なのだという意見もあるだろうが、陸士の卒業席次(だいたい三五〇人くらい)がほぼ三〇位以内であり、部隊勤務二年~七年の間に連隊長の推薦を受けたものだけが陸大を受験できるのであるから、陸大受験だけでも既に選ばれた人たちなのである。しかも、各連隊二名の受験者がいるとすれば、第一次試験(九科目)の合格者一〇〇名はほぼ数十倍の難関となる。最後の仕上げが二泊三日に亙る面接(ディベート)試験であり、ここで五〇名に絞られ、最終合格者となる。しかし、問題は今後三年間の学業期間でどれだけ上位にいくかにある。陸大の授業は陸大卒業一位だった今村均(陸軍大将)が回想するように、演習形式であり、アメリカの大学と似ていた。よって、周到な準備に加え臨機応変的知が必要とされ、自己の意見は教官によって採点されていく。こうして三年後に卒業席次六位までは恩賜軍刀組(天皇から軍刀を拝領する)。だいたい十五位までは、欧米(ドイツ・フランス・イタリア・イギリス・ソ連・アメリカ)留学が許される。そうなると、二十五位以下は、概ね支那通(中国専門家)になるしかなくなるのだ。成績によって、配属先とその後の人生まで変わるのである。陸大出が誰しも配属されたがる参謀本部作戦課はほぼ上位者に限定されていた。

 ということは、永田ほどではなくても、永田に準ずる軍人たちが陸軍中央の中枢にいて、政治や戦争を動かしていたのである。結果はどうだったか。悲惨きわまる敗戦であった。以前、この話をカルチャーセンターでした時に、「日本を敗戦に導いたのは秀才たちだったのです」、と告げると、聴講生は一応に驚き、中には笑う人もいた(おそらく笑ったのは成績がよくなかった人たちではないか)。だが、その直後に、「それでは、成績の悪い人たちに陸軍なり、官僚機構なりを任せたらどうだったでしょうか」と質すと、笑いは消え、沈黙が支配したのである。

 近代社会は、個人の能力を最大限に重視する社会である(評判の悪い『教育勅語』もそう書いてある。「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」のところなど)。とすれば、どこそこの家柄、なになにという尊い身分よりも、力のある個人が尊ばれるようになるのは理の必然である。それを示す指標が学校の成績なのだ。ということは、学校の成績がよい人間は、本人の資質に加えて努力の賜物であるから、むろん、成績の悪い人よりは厚遇しなくてはいけない。そうしないと一部の勉強好き以外は勉強などしなくなる。近代秩序が崩壊するのである。だから、成績の悪い人を厚遇して政治・行政・軍事を任せることは断じてできないのである。

 それならば、成績がよくて戦争もうまい人間を育てればよいではないか、という疑問が出るだろうが、現在までそれに成功した国はない。再び戦国時代に戻って、斎藤道三や豊臣秀吉のような人材が出るのを待つという手があるが、払う犠牲を考えるとできるものではない。よって、可能なのは、成績のいい人間の中からさらにいい人材を選抜するという陸大形式くらいしかないのではあるまいか。

 これほどの近代のアイロニーは他にあるだろうか。作家になろうとした人たちの気持ちも分かろうというものである。

 
 

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