古田島 洋介 教授 退け、「見い出す」! -日本語の表記を乱すことなかれ-

背景

目立ってきた「見い出す」

 どうせ杞憂(きゆう)に終わるだろうと 高(たか)を括(くく)っていたところ、何やら怪しい雰囲気になってきたので、ここに一筆啓上、誤った慣用が図々しく一等席を占めないうちに、珍妙な表記「見出す」を退治しておこう。

 昨年(平成27年)11月13日、東京は有楽町の東京フォーラムに出かけたとき、たまたま時間つぶしに会場内の美術品店で開かれていた絵画展に入った。外国人の女性画家二名の作品が室内の左右それぞれに展示され、画家自身が語った制作理念もパネルに記されている。ところが、入って左側に掲げられたフランス人画家の言葉を見ると、「作品を創作することは、人の感受性を見出す機会である」と書かれていた。

 また、本年(平成28年)1月22日の夕方6時半ごろ、NHK総合テレビのニュース番組《首都圏ネットワーク》のなかで、画面の下方に流れた字幕に「見出そうとして」と記されていた。別の日には、アナウンサーが「先ほどのニュースの字幕の〈務(つと)めた〉は誤りで、正しくは〈努(つと)めた〉でした。たいへん失礼いたしました」と詫びて頭を下げていたが、「見出そう」については何も訂正の言葉がなかった。

 さらに、本年3月12日付《産経新聞》朝刊の多摩版(第27面)に目をとおしていたところ、難病を抱えた男性の写真展を報じた記事が、その男性の談話を引用して、「希望を見出そうとする人の心に敏感になったのかも」なぞと書いていた。

 美術品店のパネルの字句だけならば、まだしもだ。画家の語ったフランス語を翻訳するだけで神経をすりへらし、日本語の表記にまで注意が行き届かなかったのかもしれない。

 しかし、NHKのニュース番組や全国紙にまで「見出す」が大手を振って登場したとなれば、さすがに看過するわけにゆかぬ。このまま手をこまぬいていると、いつの間にやら「見出す」が見慣れた表記として定着してしまうおそれがある。

「見出だす」を避ける理由

 「みいだす」は、もともと上一段動詞「みる」の連用形「み」に、動詞「いだす」が補助動詞として結合した語である。漢字で書けば、「見(み)」+「出(い)だす」=「見出(みい)だす」が真っ当な表記のはずだ。

 古語辞典で「みいだす」を引けば、当然のことながら「見出だす」と記されている。平安時代の「みいだす」は、現代語の「みいだす」とは意味合いが異なるが。

 ところが、国語辞典の「みいだす」は、「見いだす」と書いたり、「見出す」あるいは「見出だす」に作って「△出」と注記を加えたりしているのが一般だ。なぜ語構成どおり「見出だす」と書かず、仮名に開いて「見いだす」と記したり、「だ」を省いて「見出す」に作ったりもするのか。さすがに「見出す」と記す辞典は見当たらないけれども。

 最大の理由は、注記「△出」からわかるように、例の《常用漢字表》に従順たらんとする律儀にして卑屈な態度にあるのだろう。「出」に付けられた記号「△」は、常用訓ではないことを示す。事実、《常用漢字表》は、漢字「出」について音読み「シュツ・スイ」と訓読み「でる・だす」しか認めず、「いづ・いだす」という訓読みは載せていない。これに忠実に従うならば、「見出だす」と記すわけにはゆかず、「見いだす」と仮名書きにするか、どうしても漢字「出」を使いたければ、「だす」と読むことにして「見出す」と記すか、何となくごまかし気味に「見出す」と書くしかないのである。

 実際、かつて私は「みいだす」を「見出だす」と記して出版社に原稿を送ったところ、数日後、担当の女性編集者から電話があり、「〈見出だす〉では〈みだだす〉と読むことになってしまうのではないでしょうか?」と質問された経験がある。もちろん、「見出だす」に作る理由を説明し、そのまま印刷してもらったが、もはや「出(い)だす」はほとんど消えかかっている語なのかと少々驚いた。「何もそこまで《常用漢字表》に義理立てする必要はあるまいに」というのが率直な感想である。

 もう一つ、つい「見出す」と書いてしまう理由は、同じ構成の他の語との視覚的な連想が働き、 字面(じづら)が安定した印象を与えるからであろう。日ごろ「言い出す」「追い出す」「思い出す」「払い出す」「笑い出す」などの書き方を見慣れていれば、同じ伝で「見出す」と記したくなるのも無理からぬ話だ。

「見い出す」の「い」は何者ぞ?

 とはいえ、「見出す」が誤った表記であることに異論の余地はない。イ段の「み」を引き延ばせば、たしかに「い」になるものの、その延音を入れたかのごとく「見出す」と書くのは、悪い冗談としか思えぬ表記である。

 美菜(みな)という名の幼い女の子が自分のことを「ミーちゃん」と呼ぶのであれば、「ミイちゃん」と記しても差し支えあるまい。隠れんぼをして遊んでいるとき、鬼役の子が「○○ちゃん、見いつけた」と言ったならば、文字どおり「見い」と書く場合もあるだろう。しかし、「詩歌」は「しいか」と読むからといって、「詩い歌」と記すことがあり得るだろうか。強いて「詩い歌」を読めば、「うたいうた」か?

 「みいだす」が、動詞「みる」の連用形「見(み)」に、補助動詞として「出(い)だす」を加えた構成の語である以上、漢字を用いて書くならば、やはり「見出だす」こそ正当な表記である。誰一人として、上一段動詞「見る」の連用形の欄に「見い」と記した活用表を目にしたことはないだろう。五段動詞「買う」の連用形「買い」とは話が違う。「見出す」の「い」には、何の文法的根拠もない。常用訓「出(だ)す」だけでは手が足るまいと、恩着せがましく文字列に割り込んできた 不逞(ふてい)の輩(やから)だ。

 言うまでもなく、漢字「出」を使わず、仮名に開いて「みいだす」または「見いだす」と書いて置けば、取り敢えず事は平穏に収まる。ただし、動詞「みいだす」の直前には、ふつう助詞の「を」か「に」が記されるはずなので、平仮名ばかりの「みいだす」では、視覚上、語句の切れめが薄らぎ、少し読みづらくなる可能性もある。それに比べれば、「見いだす」のほうが使いやすいだろう。漢字「出」が目に映らないと、今一つ動詞としての力強さに欠ける嫌いはあるが。もっとも、「みいだす」にせよ、「見いだす」にせよ、どちらも本来の語構成が意識に上(のぼ)りにくい表記のため、時を経るにつれて、誤って「見出す」と記すのを助長する危険性なしとしまい。

 《常用漢字表》の訓読み制限に気遣い、「出(い)だす」が露骨にならないよう「見出す」と表記するのも一法と言えば一法である。だが、名詞「見出し」は、今日「みだし」と読むしかなく、「みいだし」とは読めまい。そのうえ、読み仮名を振ると「見出(いだ)す」つまり漢字「出」に「い」も「だ」も背負わせるこの書き方は、「いだす」という発音によって、語構成を重んずる「出(い)だす」派の耳に媚(こ)びる一方、「出す」という字面によって、《常用漢字表》を規範と仰ぐ「出(だ)す」派の目にも 阿(おもね)っているような気配を感じる。ひねくれ根性と言われれば、それまでだ。人聞きの悪い物言いを避けて、折衷案と呼んでもよい。けれども、「出(い)だす」派からも「出(だ)す」派からもケチを付けられないよう配慮したかのごとき「見出(みいだ)す」には、淡いながらもごまかしの雰囲気が漂う。むろん、「見出す」と記す裏には、「活用語尾の〈す〉だけを送り仮名にした穏当な表記だ」との理屈が用意されているに違いない。しかし、場合によっては、やはり上一段動詞「着る」を用いた「着出(きだ)す」はもとより、「泣き出す」「走り出す」などの「出す」と同じく、「見出(みだ)す」と読んで「だす」を「~しはじめる」意に受け取り、「見始める」意味だろうと誤解する可能性も生じるのではないか。「立ち読みにも飽きて、もう帰りたいなと思ったやさき、母がお目当ての写真集を 見出した・・・・」は、果たして「見出(みいだ)した」(見つけた)か、それとも「見出(みだ)した」(見始めた)か。「見出す」という表記には、こうした危うさがつきまとう。

「出だす」を保存せよ

 「出(い)だす」がほぼ過去の時空へと追いやられているのは事実だろう。「いだす」に古語であることを注記したり、四段動詞すなわち文語として扱ったりしている国語辞典が大半を占める。なるほど、今や動詞「いだす」を単独で使う場面は皆無と称しても過言ではあるまい。現代日本語では、誰もが「だす」と言い、「いだす」が独立して用いられるのを耳にした記憶はないだろう。不幸中の幸いか、だからこそ名詞「出し汁」は、「だしじる」と読むことに決まっており、「いだしじる」と誤読するおそれがないわけである。どうやら、口語のなかで、「いだす」が本動詞の席を「だす」に譲り、補助動詞として使われることが多くなったのは、遅くとも江戸時代の初期あたりから見られる現象らしい。

 いずれにせよ、日本人が「みる」を本動詞、「いだす」を補助動詞とする「みいだす」という言葉を現在でも頻用しているのは紛れもない事実だ。地名「出雲」を「いづも」と読み、温泉を「いでゆ」(出〔で〕湯)とも呼んでいる我々が「見出(みい)だす」と記すのをためらう理由はないのである。私のワープロでは、「いづも」よりも「いずも」と打ち込むほうが素早く「出雲」に変換されるが。

 遺憾ながら、日本語の表記が何かにつけて不安定なことは否(いな)めない。病名〈rheumatism〉は「リウマチ」なのか、「リュウマチ」なのか、それとも「リューマチ」なのか。同様に、点心(てんしん)「焼売」は「シウマイ」か、「シュウマイ」か、あるいは「シューマイ」か。

 しかし、「見出す」の「い」は、書き入れる根拠の「こ」の字もない目障りそのものの夾雑物(きょうざつぶつ)だ。決して「見出す」と記してはならない。補助動詞「出(い)だす」を日本語からなくしてはいけない。一語たりとも国語を貧しくする愚挙は許されぬ。奇術師も舞台のうえで「取り出(い)だしたるこの帽子」(七五調!)などと言っているではないか。この拙文をお読みの諸賢におかれては、それなりの覚悟を持って、誤った表記「見出す」の撲滅に力を貸していただきたい。

 「それなりの覚悟」とは、どういう意味か。いつぞや知り合いの日本史研究者から論文をもらったとき、文中に「見出す」とあったので、その誤りを指摘したところ、以来まったく音信不通になってしまった。「見出す」の「い」を放逐し、「出(い)だす」を保存するには、時として友だちをなくす覚悟も必要なのである。

 ひょっとすると、今から十年後の日本人は、「見出だす」はおろか、「見出す」とさえ書かず、英語〈find〉や〈discover〉を推(お)し戴(いただ)いて、平気で「ファインドする」「ディスカヴァーする」なぞと記すようになっているかもしれないが。

 サタンよ、退け。退け、「見出す」! 「主(しゅ)なる国語の語構成を拝(はい)し、ただ〈見出だす〉をのみ使ふべし」と録(しる)されたるなり(文語訳『真鯛(マダイ)伝福音書』4.10)。

 
 

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