向後 恵里子 准教授 万歳をすること/させること——統治の身ぶり

背景

万歳三唱!

 万歳をしたことはありますか? 今日では、ない、という人も多いのではないでしょうか。私自身は、おそらくあるだろうと思います。「○○君に万歳三唱!」といったふうに、ときになにかの冗談で。または本当に多くの人が一斉に祝意を表現する身ぶりとして。

 80年代の読売ジャイアンツで活躍したウォーレン・クロマティ選手が、外野スタンドまで駈けていってファンと一緒に万歳三唱(バンザイコールと呼ばれていたように思います)する姿は、子ども心に鮮明に覚えてもいます。当時私は家族の影響で巨人ファンでしたから、おそらくテレビの前で一緒にやっていてもおかしくないはず。その万歳によるファンと選手の一体感は、ひとをものすごく熱狂させるものがありました。

 ですが、こうしたパフォーマンスではなく、真面目に誰かのために万歳を行う、と想像してみると、どうにも難しさを感じます。単純な身ぶりです。声にあわせて両手を上下するだけ。ですが、二の腕のあたりが萎縮して、まっすぐ腕があがらないような気がします。自分が万歳を行っているということが、どうにも居心地が悪いのです。果していったい私はこの身ぶりをなぜ行っているのか、を考えてしまいます。

身ぶりの歴史、万歳の歴史

 身ぶりには必ず歴史があり、文脈があり、そして身体を再構成してゆく力があります。私はこの身ぶりによって、自分とその身体をどうしたいのか?が不分明である限りどんな身ぶりも居心地が悪く、それが得心されれば疑うことなくどのようにでも身体を統制できるでしょう。あとで筋肉痛になるかもしれずとも、体力の限界をこえて、腕を上げ下げし続けることもできるかもしれません。これはすなわち、自分をとりまく集団の文脈にあわせて、自分の身体を統治しているということでもあります。

 万歳の身ぶりに疑問をもつこと自体が、おかしいでしょうか? たしかに万歳は古い言葉です。あたかも日本では古来から脈々と続いてきた身ぶりのようにも見えるかもしれません。(私は好まない言い方ですが)「日本人のDNAに刻まれている、自然と万歳の声とともに手があがる」といった言い回しすら成立しているかもしれません。往年のクロマティ選手が「バンザイ」を唱えたときには、もしかすると外国人選手の万歳、という共同体への参加意識もあったかもしれませんね。

 とはいえ、実際には、万歳の身ぶりは近代に成立していったものです。万歳、という言葉を辞書でひいてみれば、「ばんざい」が近代以降の読み方であることが伺えると思います。『日本国語大辞典』であれば、その解説として、石井研堂の『明治事物起原』がひかれています。

近年万歳を高唱することは、明治二十二年二月十一日に始る。この日帝国憲法発布の盛典あり、主上観兵の式を行はせらる、時に大学生、鹵簿を拝して『万歳』を歓呼せしに始る

 研堂は、明治22年(1889)、大日本帝国憲法発布の式典に際して天皇の観兵式という陸軍を観閲するセレモニーがあり、そのとき大学生たちが天皇の行列に対して「万歳」を歓呼した、と述べています。この「万歳」を考案したのは帝国大学教授の経済学者和田垣謙三であったとも言われています。詳細はもう少し調べてみたいと思っているところですが、いずれにせよ近代以降、また天皇に対して、セレモニーの中で広がっていった身ぶりである、ということは言えるだろうと思います。

こだまする万歳

 その後ことあるごとに、「天皇陛下」や「帝国」という文言とともに、万歳は繰り返されることになります。明治27年(1894)の日清戦争に際しては、すでに「万歳」の声はほうぼうからこだましています。その様子は様々に観察できるのですが、この日清戦争時には、戦場の様子を報道的に・教育的に・娯楽的に伝える幻燈会がたいへん流行しています。その幻燈会の場では、皆で集まって同じ幻燈を見ながら、「万歳」は幾度も、ときに幻燈の解説の締めの身ぶりとして、一斉にとなえられました。柵山人による『日清戦争幻燈会 続編』(藍外堂、明治27年)では、たとえば有栖川宮の活躍を写す幻燈の説明文として、最後がこのようにしめられています(適宜句点を補いました)。

我等帝国臣民たるものは衷心より此殿下の為にその健康を祈り併せてその萬歳を祝せざるを得ません。諸君どうかこゝに謹で殿下の万歳を三呼せられんことを願ひます。有栖川宮殿下 萬歳——萬歳——萬歳——

図1 橋本邦助[「本日旅順陥落」絵葉書]1905頃

 こうした万歳の身ぶりとその意味とは、明治時代から昭和にかけて、日常の一部となります。日露戦争のときには、勝利を喜ぶ兵士の身ぶりとしても、万歳がつきものとなっています(図1)。歓呼の声と、いっぱいに伸ばされた腕——ときどき考えるのですが、おそらく私も、この雰囲気のなかに居たら、おそらく歓呼の声をあげ、幾度でも力の限り万歳をとなえたのではないか? 同じ瞬間に同じ身ぶりを皆が一斉にすること、そこに自分自身が参加している実感、それがある共同体との強烈な一体感をもたらすことは、容易に想像がつきます。

万歳をさせること

 こうした共同体への参入の身ぶりとしての万歳は、「誰かにさせる」ことの表象としても観察できるでしょう。お助け“外国人”であるクロマティの「バンザイ」がともするとそういった名残をとどめていたかのように。

図2 『ポツン島探検』1943

 近代日本の植民地政策の影響下に作られたことがありありと分かる作品には、こういった万歳が確認できるものが少なくありません。たとえば昭和18年(1943)の絵本『ポツン島タンケン』(佐藤義美、白鳩社)は、主人公太郎がおそらく南海の島「ポツン島」に飛行機で不時着し、そこの原住民の少年「キチキチ」と友人になり、島全体を近代化して(「イイシマ」を「リッパニ」)し、島民たちに感謝されるというストーリーです。その終盤には、旗を囲んで万歳をする光景が描かれます(図2)。

「ポツン島ノ ハタヲ ツクリマセウ。」
ト、キチキチガ イヒマシタ。
「タラウノ ヒカウキニ ツイテル アカイ ヒノマルガ イイ。」
ト、ヤマーガ、イヒマシタ。
「ソレハ ニッポンノ ヒノマルノハタ ダヨ。」
ト、タラウガ、イヒマシタ。
「ポツン島ハ ニッポンノクニニ ナルノダ。」
ト、チャプロンガ イヒマシタ。
ヒノマルノハタ、バンザイ。

 大きくのびのびと掲げられた島民たちの——黒人たちの腕に何が読めるでしょうか。「もともと日本人ではない彼らも歓呼の気持ちで万歳を唱えている、彼らの心は日本とともにあり、その統治を歓迎している、見よ、これがそのあかしである」。こういうことかもしれません(ただ、右側手前の大人だけは、万歳をしていません。これにさらなる意味があるのか、それは今後もう少し考えてみねばなりません)。

万歳をめぐる葛藤、その葛藤の意識

 こうした万歳のある空間に生きていた人々は、ではなにも違和感を感じなかったのでしょうか。明治22年以降に急速に広まっていったこの身ぶりに対する葛藤は、実は様々な作品に見て取ることができます。たとえば夏目漱石は「趣味の遺伝」において、「将軍」を迎える群衆のなかで、どうしても万歳ができなかったことを描写します。

左右の人は将軍の後を見送りながらまた万歳を唱える。余も——妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日に至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられた覚は毛頭ない。また万歳を唱えては悪るいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声(たいせい)を発しようとすると、いけない。小石で気管を塞がれたようでどうしても万歳が咽喉笛へこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。——しかし今日は出してやろうと先刻(さっき)から決心していた。実は早くその機がくればよいがと待ち構えたくらいである。(…)出しかけた途端に将軍が通った。将軍の日に焦けた色が見えた。将軍の髯の胡麻塩なのが見えた。その瞬間に出しかけた万歳がぴたりと中止してしまった。なぜ?
なぜか分るものか。なにゆえとかこのゆえとか云うのは事件が過ぎてから冷静な頭脳に復したとき当時を回想して始めて分解し得た智識に過ぎん。なにゆえが分るくらいなら始めから用心をして万歳の逆戻りを防いだはずである。予期出来ん咄嗟(とっさ)の働きに分別が出るものなら人間の歴史は無事なものである。余の万歳は余の支配権以外に超然として止まったと云わねばならぬ。万歳がとまると共に胸の中(うち)に名状しがたい波動が込み上げて来て、両眼から二雫ばかり涙が落ちた。

 決して万歳を唱えないつもりではないのです。ですが、実際の戦場から帰ってきた「将軍」の日に焼けた胡麻塩の顔を見たとたん、喉まで出かかっていた「万歳」は「超然として」止んでしまいます。ここでどのような葛藤がはたらいたか。漱石は「なぜか分るものか」と書きます、私も「なぜ」を解き明かす言葉を今もっておりません。ですが、万歳の歓呼が示す意味と、帰ってきた「将軍」の顔のもつ意味とが、もしかしたら漱石の中で齟齬をきたしたのではないか——と考えなくもありません。

 この葛藤は、しかし、こののちの日本近代の歴史においては、どんどん見えなくもなっていくでしょう。万歳をするのが当たり前である、なぜその身ぶりに身をまかせないのか。万歳は葛藤なく行われるようになり、なぜこの身ぶりが成立し、そして何を統治しているのか、疑いをさしはさむ余地も見えなくなっていきます。その葛藤のなさは、もしかすると今日にも引き継がれているのかもしれません。私の二の腕が竦むことなく、万歳をとなえる未来が、もしかしたら待っているのかもしれません。そのときにこの葛藤を思い起こすことができるだろうか、と問い続けておかねばなりません。

 
 

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