ことばと文化のミニ講座

【Vol.96】 2015.12   勝又 基

怪談ができるまで——講談「応挙の幽霊画」をめぐって

肖像画とイマジネーション

音楽や美術など、言葉を用いない芸術作品を鑑賞するとき、受け手はしばしば、自由に想像をめぐらせるものです。肖像画の場合にも、描かれた人物が「どこの誰だろう」「どんな人生を送ってきたのだろう」などと考えてしまうことがよくあります。たとえそれが病んで容貌を変じた女性の姿や、幽霊であったとしても。

18世紀京都の絵師・円山応挙は、写実的な絵画で当時人気を博した人物です。しかし今はとくに幽霊画の大家として知られています。そんな彼にはいくつかの伝説が広まっています。その中で、彼が描いた幽霊画にまつわる逸話を、明治の落語家・三遊亭円朝が語っています。要約してみましょう。

応挙行きつけの京都の料理屋が今にも潰れそうになり、何か良い案がないかと相談された。そこで応挙は一幅の絵を描いて店主に授けてやる。しかしその絵は、二十歳あまりの美女が病気で苦しんでいる姿で、右手で抜けた髪をつかみ、左手で毛を絞ってそこから血がしたたっている、というような恐ろしいもの。

店主が文句を言うと応挙は悪びれもせずこう言った。陰は必ず陽に帰る。女が病に苦しんでいる図は陰気の極みだが、これから陽気に帰るより他ない。お前の商売も、さびれて陰気になったから、これからは昔の陽気におもむくはずだ。

応挙の予言通り、この恐い絵が逆に評判となって恐いもの見たさの客があつまり、料理屋は元通りの繁盛、応挙も京都にその名をとどろかせた。

——『怪談乳房榎(かいだんちぶさのえのき)』
(明治21年〈1888〉年)刊)第1席~第2席

つぶれかけた料理屋におそろしい女の姿絵を贈ったところ、これで逆に商売が繁盛した、というのです。この話に、あまり怪談の雰囲気はありません。応挙の腕前と、頭の良さを前面に出した逸話、と言って良いでしょう。

もちろん、応挙の没後100年以上も経ってから書かれたこの話が事実だったとは、ちょっと考えにくいところです。ですから、この絵に描かれた人物がどこの誰なのか、というのは、考えても仕方ないことのように思えます。しかし面白いことに、この後、この病の女性の素性が、創作世界の中で、どんどん詳細になり、「具体性」を持って行くのです。

落語から講談へ

「応挙の幽霊画」というタイトルは、落語と講談の両方にあります。このうち落語のほうは、応挙が描いた絵の中の女の幽霊が動き出し、絵の持主と酒を酌み交わす話です。いっぽう講談のほうの話は、さきほど見た三遊亭円朝が語った逸話と大きく関わりを持つものです。まずは、あらすじをご紹介します。

修行中の円山応挙が、長崎・丸山遊郭の巴楼に行って夜中目を覚ますと、どこからか女のうめき声。声をたどって行きますと、せんべい布団に痩せた女が、髪をおどろに振り乱して唸っている。聞けば小紫という花魁(おいらん)で、半年も前から寝込んでいるものの、医者にも診(み)せてもらえず、苦しさに声を立てれば店の者からぶったり蹴られたりするとのこと。応挙は同情して金子を与えると、その姿を下絵に写し取らせてもらい、遊女の形見の品という唐錦の布の切れはしを預かった。

翌日の真夜中、応挙の夢に綺麗な花魁が現れ、両手をついてニッコリと挨拶をする。もしやと思い翌日巴楼へ行くと、小紫はちょうど昨夜死んだという。

京都へ戻ると、甚兵衛という老夫婦のやっているなじみの掛茶屋が、夜逃げの支度の真っ最中。聞けば70両もの借金をこさえたという。応挙は福の神の絵を描いてやろうと約束するが、ふと思い立って小紫の下絵を取り出し、これをもとに幽霊画を描いて甚兵衛夫婦に与える。甚兵衛は驚くが、まもなくこの絵が評判となり、店は再興する。

甚兵衛夫婦は応挙へのお礼にと、家宝の陣羽織を取り出す。なんとこの布が、小紫から預かった唐錦と同じものであった。聞けば、甚兵衛夫婦にはお光という娘がいたが、小さい頃に人さらいに遭ったきり行方が分からないという。応挙は長崎での一部始終を聞かせ、じつはこの幽霊画のモデルこそ、甚兵衛夫婦の娘・お光だと教える。

応挙が幽霊画を与え、それがもとで店が繁盛する、という話を軸に、大きく肉付けがなされています。とくに、幽霊画について、多くのことが「明らかに」なっています。幽霊画のモデルは長崎の遊女・小紫が病で疲れ果てた姿だった。さらにこの小紫は、幼い頃生き別れになった掛け茶屋・甚兵衛夫婦の娘・お光だった、というのです。これによって、応挙が絵で店を繁盛させたという逸話は、応挙の幽霊画の創作秘話となり、親子の再会の奇談にもなりました。

ところで、この講談はいつごろ出来上がったのでしょう?吉沢英明『講談作品事典』によれば、円朝の落語からおよそ35年後の大正12年(1923)には、すでに現在の形で語られているようです。時系列から考えれば、三遊亭円朝のマクラを素材に、肉付けして作り上げた話、と考えるのが自然でしょう。では、講談界は、三遊亭円朝が語った小話を、どのように手を加えて、一篇の怪談に仕立てたのでしょうか?しばらく、その創作手法をうかがってみましょう。

モデルは病の遊女?

まず、この幽霊画は応挙が想像で描いたものではなく、病んだ女性の姿を写し取ったものだ、という部分に注目しましょう。じつはこれは、他の絵師のエピソードでした。その絵師とは、幕末から明治20年代にかけて活躍した、月岡芳年(つきおかよしとし)です。芳年の絵は血の赤色が印象的な残酷な図柄でよく知られていますが、彼の作品の一つに、「宿場女郎図」と言われる肉筆画(印刷したものでなく、筆で描いた絵)があります。やせこけた遊女が振り向いた姿を描いた、凄味のある恐ろしい絵です。

芳年が没して20年ほどした明治40年代(1910年ごろ)の資料を見ると、この絵が、芳年が旅先の宿場で出会った遊女をモデルにして描いたものだ、という裏話が、まことしやかに広まっていましたことが分かります。そしてこのエピソードは、当時すでに複数の説が広まっており、甲府の遊女だったと言う人もいれば、大磯の遊女だったと言う人もいたようです。

しかし幽霊画と言えば、なんといっても円山応挙が連想されます。そうしたネームバリューは、求心力となり、さまざまな逸話を引き寄せて行きます。講談師がこの逸話を応挙のことへと応用したのは、ある意味で自然なことだったと言えるでしょう。

遊女は長崎の小紫?

そしてこの遊女が、じつは長崎・円山遊郭の遊女だということになっている点はどうでしょう。この肉付けのアイデアは、江戸時代の怪談本から取られたようです。江戸時代の中ごろ、1767年に刊行された高古堂著『新説百物語』が源だったようです。あらすじを記してみます。

長崎の遊女町に小紫という遊女がいました。いっぽう、上方から長崎に通う商人で、さぬきや藤八という者がいました。年に二回訪れた折には必ず小紫のところへ立ち寄り、遊んで行きました。小紫も藤八のことを睦まじくもてなしていました。

ところがある時、小紫は大病にかかり、もはや今日か明日かというところに、藤八が訪れます。小紫は「生きているうちに夫婦となりたかったが残念です。死んだ後に何か不思議なことがあったら、よろしくお願いします」と言ってそのまま事切れました。

藤八は葬式などを終えて上方へ帰りました。その年の十一月、となりの米屋の女房が美しい女の子を産みました。見ると、その女の子の顔が小紫に似ています。百日ばかり経って母親が湯浴みをさせている時にふと見ると、脇の下に痣のように「小紫」という文字が浮かんでいます。藤八は涙を流し、ことの次第を語りました。そして藤八が四十七歳のとき、この娘が十八歳になるのを待って女房にもらい、仲むつまじく暮らしました。娘は二十八歳のとき病で亡くなったので藤八は出家して、つい最近まで生きていました。

——巻二「脇の下に小紫といふ文字ありし事」

若い男女の恋物語で、料理屋の老夫婦などは出てこないので一見すると関係ないようにも見えます。しかし、長崎と上方の遠距離の関係、そして、死んだ長崎の遊女が形を変えて現れる、という点は大きなヒントになったはずです。そして何より、この話を参考にした証拠は名前に残っています。どちらの話も長崎の遊女で「小紫」です。文学研究で、いわゆる元ネタを明らかにしようとする研究のさいには、こうした小さく具体的な一致こそ、決定的な手がかりとなります。

この古い百物語の話を利用することによって、応挙の幽霊画の逸話は、長崎と京都という、空間的な広がりを持つことになりました。もとの話のもっていた恋愛要素は削られています。しかし代わりに、幽霊画が、もとは料理屋夫婦の娘だった、という設定が加わりました。これによって、生き別れた両親に幽霊画となって恩返しするという、珍しい親孝行の話という厚みを持つようになりました。

怪談の「談」

さてここまで、応挙が描いた幽霊画のヒロインが、「明らかに」なってゆくことを中心に、落語のマクラで語られた滑稽話が、講談の怪談「応挙の幽霊画」に変化してゆくさまを見てきました。

こうして見ると、わたしが「怪談は嘘ばかりだ」と非難しているように見えるかもしれません。しかし私にとっては、この、「嘘」の部分、作り上げられた部分こそが面白いのです。

怪談という語は「怪」と「談」という漢字から成ります。このうち「談」の部分、すなわち人間が作った部分、上手く伝えるために工夫した部分こそが怪談の本質だ、とも言うことができるのではないでしょうか。


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