向後 恵里子 准教授 一枚の絵葉書から

背景

古い絵葉書

図1 戦役紀念絵葉書 海軍凱旋観艦式

 私の手元に、一枚の古い絵葉書があります。それをみなさんにお見せしましょう(図1)。今回のミニ講座は、この絵葉書を読み解いてすすめる旅です。

 絵葉書の中央にあるのは、モノクロームの写真です。ちょうど真ん中のあたりに水平線があり、艦船が見えます。画面の手前には旭日旗を翻す戦艦が見え、水平線上には、確認できるだけで5隻がこちらに側面を見せるように連なっているのがわかるでしょう。この艦影から、詳しい方であれば、これは軍艦だ、それも明治の、と察しがつくかと思います。

 まさしくこれは日露戦争(明治37-38年)当時の日本軍の軍艦です。注意深い方は、画面下部に書かれた「戦役紀念」の4文字を、さらには(見えないかもしれませんが)写真の下部に小さく書かれた「海軍凱旋観艦式 Triumphal Naval Review.」を読み取ったかもしれません。この絵葉書は、日露「戦役」の「紀念」(記念)に作られ、海軍の凱旋式典を主題としたものだということがわかります。右下にはやはり日露戦争の記念切手と記念スタンプもありますね。

 写真の周囲は、まるでそのフレームのようにデザインされています。金と青の二色による曲線的な色面と一段濃い金色の曲線で構成され、そこに花が配されています。よく見るとこの金色部分には、下部にいくにしたがって小さな粒状の濃淡があり、光の加減であわくきらきらと光ります。これは、「金砂子(きんすなご)」を用いていると思われます。細かく金の粉を敷き詰めていく装飾技法ですね。

 画面左右に枝垂れる花は、形状から、桜、それも八重桜でしょう。白い花弁に濃いピンクの輪郭が特徴的です。金と青と桜、それぞれの輪郭が強調され、曲線が優雅に動くこの図案は、いわゆるアール・ヌーヴォー、19世紀末にフランスをはじめ西洋でひろく流行した、“新しい芸術”を意味する様式となっています。

 この曲線は、一方で具象的なかたちでもあります。一見して気付きがたいところですが、写真を縁取る線は、錨をまきあげるための揚錨機(ケーブルホルダー)の形状をしています。ただし単純な曲線へと図案化されているので、フレーム全体は一体になって見えます。

 したがってさしあたりこの絵葉書は、軍艦と装飾的なアール・ヌーヴォーの図案とが組み合わされたものだ、ということが分かります。これだけでも、違和感を覚える方もいるかもしれません。軍艦ということは、武張ったテーマだろう。アール・ヌーヴォーといえば、ミュシャやエミール・ガレの居た世紀末、繚乱のパリを彩った華やかな様式……さらには金地まで。どうしてこれが一緒に?

古いメディアが新しかったとき

 この謎を解くためには、もう少し探究が必要です。まずは絵葉書というメディア=媒体の歴史をさぐらねばなりません。そのキーワードは、「新しさ」です。

 こんにち、絵葉書はもうあまり頻繁には使われないものですね。かつては絵葉書と言えば旅のお土産の定番でした。送ってよし、集めてよし、貰ってよし。ですがカメラや携帯電話、インターネットの普及は、誰かに絵や写真を送るのに、はるかに簡便で素早い方法を与えてくれるようになりました。もはや絵葉書は、オワコンならぬ、オワメディアかもしれません。

 ですが、たとえば年賀状はお年玉付年賀葉書に印刷して毎年必ず出すことにしている、という方もいるでしょう。または美術館で、お気に入りの作品のポストカードをつい買ってしまう……そして別に使うでもないが思い出にとっておく、という方もいるでしょう(両方とも私がそうです)。これは両方とも絵葉書ですね。

 絵葉書はたしかに古いメディアですが、完全に使われなくなったのではなく、いくつかの定まった使い途とともに日常のなかに溶け込んでいます。そして、たとえば“旅先のイメージをやりとりする”絵葉書が廃れつつあるように、実は他にも絵葉書が担っていた用途はいくつかありました。みなさんと一緒に見ているこの絵葉書は、そうした失われた用途のひとつ、「時事」と「記念」という目的を担っています。

 このふたつの目的は、今では古い絵葉書がまだ新しかった時代、すなわちこの日露戦争のあった明治30年代・1900年代には、絵葉書の果たす役割として重要視されたものでした。この時期は、絵葉書がまさしく新しいメディアとして、人々の間に受け入れられ始めた時代でした。そればかりか、実は日露戦争の折には、この新しいメディアは爆発的な人気をはくし、熱狂のなかで迎えられました。それは「絵葉書ブーム」と呼ばれています。

新しいメディア、新しい様式

 絵葉書はそもそも、19世紀後半のヨーロッパではじまった新しい郵便の形態でした。それが交通・通信網の整備と印刷技術の発達、また観光産業の隆盛にともない、20世紀をむかえる頃には国際的なブームの様相を呈するようになります。このブームの波が極東へ達し、1900年(明治33年)には郵便法で私製葉書が認可され——官製葉書でなくとも所定の額面の切手をはれば自作の葉書を郵送できるようになって——日本国内でも絵葉書が広まることとなりました。日本においては、絵葉書をやり取りする習慣はほぼ20世紀から普及していったと言うことができます。

 もちろん認可されてすぐに皆が絵葉書を使い始めたわけではありません。すぐに絵葉書に趣味を見出したのは、海外のブームに触れることもあったインテリ層などに限られていました。この頃の絵葉書には、まさしく最新流行の図案様式であったアール・ヌーヴォーが取り入れられたものが少なくありません。絵葉書は、新しい様式に彩られた、新しいメディアであったのです。

絵葉書ブームと日露戦争

 こうしたヨーロッパ発の新しいメディアが、より広く様々な階層の人々へ浸透したのが、この日露戦争の時期でした。

 これにはいくつかの理由が考えられます。まず、軍隊の動員によって兵士たちが多数国内から戦地へ“旅”をしたこと。なかには生まれてはじめて郷里を離れる人々もいたようです。出征した兵士たちと郷里の家族や友人たちは、軍事郵便で結ばれていました。軍事郵便は、軍隊の滞在地と本国とを結び、戦争中に多数の手紙や物品を運ぶものです。絵葉書は、無事を知らせ安否を気遣う手軽な手段として、または戦地の慰問品として、たいへん重宝されました。

 さらに、絵葉書の印刷・販売・流通を可能にするような大量印刷技術(石版印刷と写真製版)とその産業(出版社、印刷会社)とが、明治30年代にはすでに広まっていたこと。私製葉書認可から、これは商品として当たるに違いないとふんだ業者は次々と絵葉書発行をはじめ、ブームのきざしが見えるとその数はどっと増えます。絵葉書は少部数・小ロットでも手がけやすく、それまでの印刷ノウハウをいかしたり、新規参入することが容易でした。

 そして、未曾有の規模で展開する戦争が、多くの人々の関心事となったこと。日清戦争後、「臥薪嘗胆」をスローガンに、次はロシアである、この戦争は正義のため、文明のためのたたかいであると敵愾心を煽るメディアの論調もあり、また戦線の拡大とともに多くの兵士が動員され、戦費が費やされ、戦況が逐一報道されていったことで、多くの人々にとってこの戦争は、お国の、かつ自分の「一大事」となります。

 こうした条件の揃っていたなかで、実際に絵葉書の人気を牽引し、津々浦々まで絵葉書を用いる習慣を広めたのは、逓信省が継続的かつ大量に発行した官製の記念絵葉書、すなわちここでみなさんと見ている絵葉書をふくむ一連の「戦役紀念」シリーズでした。

明治38年10月23日、海軍の凱旋観艦式

 さて、ここで絵葉書に戻ります。この絵葉書をめぐっては、ふたつの日付が重要です。ひとつは明治38年10月23日。「海軍凱旋観艦式」の日付です。もう1つは、明治39年5月6日。この絵葉書が発行され熱狂をまきおこした日です。

 明治38年9月1日に講和条約が結ばれて、日本軍は晴れて「凱旋」することとなりました。ですが、輸送力の問題などもあり、兵士たちはみな一遍に帰ってくるわけにはいきません。翌明治39年初夏頃にかけて、続々と兵士たちが帰還する「凱旋」の日々が続き、各地で大小様々な凱旋式典が催されることになります。明治38年10月23日に開催された海軍の凱旋観艦式は、その口火を切るものであり、多くの人々にとっては実に晴れがましい日でした。

 この凱旋観艦式では、横浜から品川にいたる海上を埋め尽くす艦隊274隻が、幅9キロ以上にわたって一堂に整列し、その威容を誇りました。船に乗って式典に参列できるのは限られた人々で、大多数の人々は陸地からその様を眺めましたが、それでもその華やかな式典の様子(夜にはイルミネーションと花火が行われました)は、多くの人々の情動をゆさぶるような光景を現出させています。

雄麗な景色

 絵葉書にとらえられた海上の景は、この式典を、おそらく品川側の洋上から眺めたものであると考えられます。この絵葉書をデザインした逓信省の樋畑雪湖(正太郎)は自身の著書『日本絵葉書思潮』(日本郵券倶楽部、昭和11年発行)において、本写真は海軍省の撮影によるものであると述べています。

 一番手前に写る艦には旭日旗とともに天皇旗が一番高くに掲揚されていて、この艦が御召艦??すなわち天皇の乗船する艦であることを示しています。観艦式とは、一同に整列した艦隊の威容を国家元首や指揮官が観閲する式典のことですから、この写真は大元帥である天皇が海軍を観閲している様を、そのさらに背後からのぞむ、という構図になります。

 この1葉は、もう2枚(陸軍凱旋観兵式、伊勢大廟と靖国神社)とあわせ、明治37年から発行のはじまったシリーズの最後、「第5回戦役紀念絵葉書」3枚ひと組として企画されました。雪湖は、最終回であるから、製造費もそれまでより多額で、「挿入すべき写真は勿論」、石版印刷の「製版も入念に」デザインし、図案を「近代式模様化した」と述べています。この「近代式模様」とは、すなわちアール・ヌーヴォー様式のことです。また、その「近代式模様」で両側に配された桜の枝折は、「国華」、国の花として選んだものだといいます。

 こうして見るとこの絵葉書は、「凱旋式典」という主題を、華やかで新しい装飾でとりかこみ、それらが一体となって雄麗な印象を与えるものとなっています。人々の関心をあつめ続けた日露戦争と、その絵葉書シリーズの終幕(フィナーレ)にふさわしいと言えるでしょう。

明治39年5月6日、絵葉書に熱狂する人びと

 この絵葉書は、先にも述べたように、人気の高まっていた逓信省戦役紀念絵葉書シリーズの最終回として予告され、靖国神社の大祭にあわせ明治39年5月6日に大きな郵便局から発売されました。この日は、絵葉書ブームの頂点とも言える熱狂をまきおこします。翌日の新聞各紙には、殺到した群衆の混乱が報じられています。たとえば『東京日日新聞』は、「幾十万の人々が待ちに待つたる第五回紀念絵葉書」の売出しの模様を詳細に伝えています。たとえば白金局では負傷者が出、本所局では暴動一歩寸前の有様です。

図2 戦役紀念絵葉書の絵葉書

▲白金局 …売出し時刻の六時頃には弥が上に集り来りたる群集は鯨波(とき)を揚げて前なる人の肩を足場とし或は塀を乗越えて構内に乱入する等其混乱実に名状すべからず既に構内に在りし婦人小児等は為に卒倒せんず有様なるにぞ警官は非常手段を執りて辛くも是等の人々を救ひ得たる程にて此際四五の負傷者をさへ生ずるに至りたり…

▲本所局 …午前二時頃の同局前は既に黒山の如き人にて…四時頃には弥々(いよいよ)多数となり売出さずば同局を破壊せんと罵り騒ぐにぞ止むなく五時より売初たるに群衆は他の口よりも売るべしと怒号し遂に柵を破りて局上に攀(よ)ぢ隣家なる陸軍被服廠の塀に上る等大混乱を極め警察官は片隅に圧せられて身動きも成らぬ始末となり被服廠の衛兵十名は…群衆の中へ喞筒(ポンプ)にて水を注ぎ懸けしも熱狂せる彼等は毫も沈静の模様なき…(「紀念絵葉書売出の大混雑(卒倒又は負傷者多し)」『東京日日新聞』明治39年5月7日)
この大混雑は、後の転売目的に集まった人々も多かったためと考えられますが、なかには「婦人小児」らの姿も見えます。まるで昨2014年にあった東京駅での記念Suica発売の混乱を思い起こさせますね。後にはこの「紀念絵葉書の絵葉書」まで発売されました(図2)。今ここでしか手に入らない、公的な「記念」の品をめぐる人気と熱狂とがよく分かることでしょう。

熱狂の記憶

 ここまで、この小さな絵葉書の意味をたどる旅をしてきました。この一葉は、凱旋という「記念」すべき「時事」主題を、華やかにデザインしたものだということが見えてきたと思います。そしてこの絵葉書は、絵葉書ブームの熱狂のなかで人々の手にわたりました。この熱狂の記憶は薄れてしまっていますが、それをあわせて見ると、この絵葉書のデザインが成立していた背景をより解することができるでしょう。

 最後にもういちど、ゆっくり絵葉書を眺めてみます。この絵葉書は、とても保存状態の良いものです。記念切手も記念スタンプも揃っています。ですが、宛名面は真っ白なままで、郵便として差し出された形跡はありません。

 おそらくこの絵葉書は、誰かが自分のために購入し、きれいに蒐集・保存しておいたものでしょう。その人がなにを思いなんのためにそうしたのかは、まだ想像の域を出ません。もしかすると国家の「一大事」とその勝利のイメージを、個人の記憶としても所有しておきたい欲求があったのではないでないか……と考えています(こうした「記念品」としての絵葉書については、今後もう少し広い視野から考えていこうと思っています)。いずれにせよ、この綺麗さもまた、当時の人々の熱を伝えてくれるものです。この熱はしかしひっそりと、私の研究室のアルバムのなかにおさまっています。

 
 

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