青山 英正 教授 こよりで書いた短冊——幕末の獄中詩歌

背景

1 こより字短冊

私の研究室に、右の【写真1】のような短冊があります。写真では、字が書いてあるのかどうかすらよく見えませんが、拡大してみると(【写真2】)、紙を細長く糸状にして、それを文字の形に貼り付けてあることがわかります。また、同様の方法で、下部には竹の葉の絵が描かれています。記されているのは和歌一首で、次のようなものです。

なよ竹のあらぬ嵐に

靡けども

おれずまがらぬ

節は有けり 幸佑
(一見弱々しいなよ竹は、思わぬ嵐に揺れ動くけれども、折れたり曲がったりしない節を持っているのだ)

このこより字短冊は、いったいだれが何のために作ったのでしょうか。また、いったい何を詠んだ歌なのでしょうか。

2 短冊とは短冊と聞いてまず皆

短冊と聞いてまず皆さんが思い浮かべるのは、七夕飾りの「五色の短冊」かもしれません。願いごとを書いた短冊を竹の枝先に結びつける習慣は、江戸時代に定着しました。

七夕の起源は古代までさかのぼりますが、奈良時代頃には中国の乞巧奠(きっこうでん)と結びつきました。乞巧奠というのは、技芸の上達を願う行事です。願いごとの内容は、「たなばた」、すなわち機(はた)を織る=布を織る、という言葉どおり機織りや裁縫から始まって、やがて読み書きや詩歌の上達なども加わります。七夕飾りは、古くは五色の糸を用いていました。なぜ五色かというと、古代中国ではこの世界が、物質にしても色にしても、すべて五つの要素から成るといういわゆる五行説が信じられ、それが日本にも強い影響を与えていたからです。

一方、短冊は、鎌倉時代末頃から和歌を書く料紙として用いられるようになりました。和歌は、正式には懐紙という、今のA3サイズぐらいの大きな紙に書くべきものなのですが、その懐紙を八等分した短冊に書くことが、略式として定着していきます。

そして、読み書きや詩歌の上達という願いごとと、詩歌を書き記す短冊とが結びつき、七夕の五色の短冊に願いごとを書くようになりました。

それはさておき、短冊は大きさも手頃なので、現代でも、自慢の一首や一句あるいはちょっと気の利いた言葉などを短冊に書いた経験を持つ人は、少なからずいるのではないかと思われます。

短冊ではなくても、色紙に何かを書いた、あるいは書いてもらった、という経験ならば多くの人が持っていることでしょう。有名人から色紙に直筆サインをしてもらい、宝物にしている人もいるはずです。この色紙も、もとはと言えば詩や歌を書くための料紙でした。

有名人の直筆モノが欲しい、という欲求は、現代でも昔でも同じです。江戸時代であれば、たとえば地方から京都などに上った人が、有名な文学者や画家を訪ねて行って、詩や歌や句、あるいは画を、署名とともに短冊や色紙に書いてもらうことがありました。もちろん、それなりの謝礼と引き換えにです。現代の「サイン」はこの名残で、花押か落款風にくずした字で署名するだけの場合が多いようですが、いずれにしても、憧れの人の肉筆や肉声、要するにその人の身体というものを目の前に感じられる喜びがあります。

3 獄中で詩歌を詠む

冒頭に示したこより短冊を書いたのは、幕末の近江(現在の滋賀県)膳所(ぜぜ)藩士であった高橋幸佑という人物です。

この人物は、尊王攘夷を唱えたため、慶応元年(1865)、膳所城に宿泊予定だった将軍徳川家茂を暗殺する計画を持っているという嫌疑がかけられ、藩の役人に捕らえられて、33歳の若さで処刑されました。獄中では筆や紙が満足に与えられなかったらしく、わずかに支給された鼻紙をこよりにし、米粒で貼り付けたとのことです。

幕末の動乱の中、幕府に目を付けられたり藩内抗争に敗れたりして投獄された者が多くいました。彼らは、挫けそうになる気持ちを励ますため、また辞世として遺すため、詩歌をよく詠んでいます。

牢獄の役人が好意的であったり、仲間が役人に賄賂を贈ったりして良い待遇を受けた囚人もおり、彼らは獄中で読書をし、著作をものし、また詩歌集を編んで獄外の同志に届けさせたりといったこともできましたが、この膳所藩士のように、粗末な扱いを受けた者もいました。

こうした膳所藩士のこより字短冊を、私は18枚持っていますが、そのツレと思われるものが大津歴史博物館にもあり、また、京都大学には平野国臣という志士の紙撚(こより)文書が現存しています。私が所蔵するものをよく見ると、これが実によく「書けて」います。くずし字の筆の動きが一画も省略されずに忠実に表現され、「とめ」や「はらい」の筆勢、線の肥痩も、見事と言うほかありません。他の機関が所蔵するものも、写真で見るかぎり同様に高い技術が感じられます。また、「筆跡」も似通っている印象を受けます。

私が所有する中には、ほかに黒い糸を文字状に貼り付けたもの、紺や紅色の付いた布片を貼り付けて花弁などを表現したもの、それから実は墨で書かれたものもあり、そのことも合わせて、これらの短冊の存在をどう考えればよいのか、今のところ答えはありませんが、いずれ少しずつ調べていきたいと思います。

参考までに、一部の和歌の翻字を載せておきます。

消る共身に露ほども恨なし御祖の神の道にかなへば  勉

家人はいかにながめて歎くらむひとやの月はしらずながらも さくや

来ん秋の月にながめはいか斗思ひ出らるゝ今宵ならまし 正功

秋ふかみ木々のもみじ葉色ましてゆふ日まばゆきやまざとのくれ 正房

なき人はいかにわびしくおもふらんひとやのうちのけふの手向けを
人屋にて
もる人もなきわがやどの草むらにまつてふ虫の音をやなくらん 当道

秋雨
窓のひまもるゝともなしにわが袂あやしくぬらす秋の雨かな 当道

秋葉社奉納
露霜にかはらぬ松のしたかげは秋のかたみにのこれもみぢ葉

作者
不明
さくや 高橋正功 膳所藩士
正房 増田匡房 同上
当道 深栖当道 同上

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