田村 良平 教授 世阿弥生誕650年と能〈隅田川〉

背景

今年は「世阿弥生誕650年」

 今年(平成26年=2014年)は前年に引き続き「世阿弥生誕650年」の記念年ということになっています。どうして「今年は昨年に引き続き」というようなあいまいな言い方になるのかというと、役者として劇作家として劇団主宰者として優れた功績を残した世阿弥は当時としては地位の低い芸能者だったため、正確な生没年が記録に残っていず不明なのです。

 その芸談を集めた『申楽談儀』によれば、12歳の年に「今熊野の能」(京都市東山区に現存する新熊野神社での演能)で6歳年上の室町幕府3代将軍・足利義満(有名な「金閣寺」は彼の残した建物ですね)に認められたのが世阿弥出世のきっかけだったそうです。現在の学界ではその「今熊野の能」の開催年が1374年と1375年の二説に分かれるので、生誕年も二説に分かれてしまうのです。ちなみに当時は「数え年」ですから満年令のように0歳は数えず、オギャーと生まれた時が1歳です。1364年生まれ=同年1歳とすれば、1375年が「数え年」12歳。2014年が「満年令」650歳になります。

 世阿弥の教養は偉大でした。それは12歳の「デビュー」以来、絶大な富と権力を保った将軍義満と、彼の意を受けた伝統文化最高の担い手である関白・二条良基の安定した庇護の結果でした。武家最高位の将軍と貴族最高位の関白。この世でこれ以上の後ろ盾はありません。同時にそれは、わが子の売り出しに成功した世阿弥の父・観阿弥のプロデュース手腕の賜物でもあったでしょう。

 観阿弥が書き残した文書は、実は一つも残っていません。世阿弥には自筆の能台本が9曲現存し、ほかにも数多くの能や理論書が偉大な遺産として輝いているのと大きな違いです。草深い奈良の奥地で生い育ち、絶大な才能によって頭角を現わし人気役者となり義満も絶賛を惜しまなかった名人・観阿弥は少なからぬ新作の能も作ったものの、それが自筆能本として後世に伝わることはありませんでした。当時の能役者のきわめて低い地位から類推すると、観阿弥は文盲・無筆だったかもしれません。その観阿弥時代から外部協力し世阿弥の代になっても深い付き合いのあった同盟劇団・十二座の主宰者、五郎康次は『申楽談儀』に転写された手紙文でこう言っています。「身は本よりかたかなをもえかゝず候。状更になをなをかきゑず候程に人にかゝせ申候」……「カタカナさえ書けないから書状は代筆で人に書かせた」。これが当時を代表する芸能者の実態だったのです。

 戯曲執筆の基礎力につながる和歌、連歌はもとより、最高級の文化ジャンル全般について将軍や関白から直接指導を受け、美少年としての美貌を売り物に上流階級の人気を一身に集めた世阿弥がいかに特殊な存在であったか、この一事からも知られます。

優れた劇作家・観世十郎元雅

 世阿弥の実子・十郎元雅は、父とは違った作風の傑作を残しています。永享4年(1432年)8月1日に旅興行先で若くして亡くなった彼も生年が分かりません。没年と命日が判明しているのは公的記録があったからではなく、たまたま世阿弥が書いた追悼文『夢跡一紙』に記し残されていたためです。

 劇団の後継者としては立てなかった元雅は、劇作家として天才でした。『夢跡一紙』で「子ながらも類なき達人」「祖父にも越えたる勘能」と賛辞を手向けた父・世阿弥の評価は元雅急死後の私文書ですから割り引いて考えなければなりませんが、〈朝長〉〈重衡〉〈弱法師〉〈歌占〉〈盛久〉といった元雅の作品は現代でも傑作として公認され、上演の絶えることがありません。

 ただ、元雅には自筆の能台本が残されていません。元雅だけではなく先述の観阿弥も、また、世阿弥の娘と結婚した由緒正しい劇団・金春座の当主で作者としても優秀だった金春禅竹も、当時名の知れた誰一人、自筆の能台本が残されていない事実からすれば、世阿弥自筆本が残っていること自体が「奇蹟」なのです。 田舎から這い上がって名をなした十二五郎や観阿弥たち旧世代と違い、世阿弥に英才教育を受けたはずの元雅や、和歌に熱心で難解な能理論書を残した禅竹が無筆・文盲だったとは考えられません。恐らく元雅や禅竹の自筆本は、京都全域を焼き尽くした応仁の乱(1467~77年)をはじめとする戦国の騒乱の中で失われてしまったのでしょう。

 優雅な舞踊場面を中心に置き、和歌の教養を駆使した洗練された修辞が特長の世阿弥の能と異なり、元雅の作った能は「リアル」の一語に尽きます。文章はすばらしく練り上げられていますが、先述した作品のどれもが男性を主人公としたドラマで、女性美を追求した世阿弥や禅竹とその点でも際立った違いを示しています。

 その元雅が残した、女性を主人公とする能の例外が〈隅田川〉です。これはあらゆる能の中でも十指に入るほどの傑作ですが、やはり元雅の自筆本は残っていません。現存最古の書写本は天正4年(1576年)のもの(岩波書店・旧版日本古典文学大系『謡曲集 下』に翻刻)。天正4年と言えば織田信長の全盛期、武田信玄の葬儀が死の3年後に行われたとされる戦国時代のさなかで、元雅の没後144年。それ以前の写本は現存しないのですから、能〈隅田川〉は書かれてからこの年まで150年以上もの間、どのように上演され台本が伝えられたのか分からない、ということになります。また、この「天正本」とほぼ同時期(から近世初期)に書写された「車屋本」と言われる系統の一本があり(朝日新聞社・日本古典全集『謡曲集 中』に翻刻)、「天正本」とは随所で違った特色を見せています。

 能の役者には流儀があります。主役を勤める「シテ方」は、江戸初期以来「上ガカリ(かみがかり)」と呼ばれる観世流・宝生流、「下ガカリ(しもがかり)」と呼ばれる金春流・金剛流・喜多流、大きく分けて二系統に分かれ、詞章も演出もこの二つに大別されることが多いのです。「天正本」は上ガカリ現存最古、「車屋本」は下ガカリ現存最古の〈隅田川〉謡本ですので、この両者と、現在上演される〈隅田川〉の詞章を比較するとなかなか面白い点が見られます。

 そこで、限られた範囲ですが、ここでちょっと何点か、気になることをご紹介したいと思います。

能〈隅田川〉の世界

 〈隅田川〉は悲しい物語です。「吉田」(貴族を連想させる姓)を名のる父と別れた母子家庭で、少年が誘拐されて行方不明。母は狂女(精神錯乱者というより歌舞を披露してさすらう芸能者)となって京都から関東に下り、隅田川を渡った先(現在の東京都東部)で死んだわが子の墓に到り、その幽霊と対面する……母子再会で終わるのが定番の「狂女物」の能の中で、現行ただ一曲だけ再会できず終わるのがこの〈隅田川〉です。

 シテを支える助演者としてのワキは隅田川の船頭です。能の初めにワキが登場。「天正本」ではこう名のります。

ワキ/これは武藏の國隅田川の渡し守りにて候。今日は舟を急ぎ人びとを渡さばやと存じ候。またこの在所にさる子細候ひて。大念佛を申すこと候ふ間。僧俗を嫌はず人數を集め候。そのよし皆々心得候へ。

これに対し「車屋本」ではこうなっています(上ガカリでは役名をカタカナ、下ガカリではひらがなで記すのが昔から今に到る伝統です)。

わき/是は東國住田川の渡し守にて候。扨も此わたりは武藏下總兩國の境に落つる川にて候。此間の雨に水けに見えて候程に。旅人の一人二人にては渡し申すまじく候間。人々を相待ちわたさばやと存じ候。

 「天正本」では「今日は大念仏がある」と明かしています。誘拐されて死んだ旅の子供の一周忌なので、今日は土地の人たちが仕事を休んで大勢みんなで「南無阿弥陀仏」を唱え弔っている、というわけです。毎日が労働の連続で「赤の他人」にかまっている余裕などなかった貧しい中世の民衆たちにとって、こうしたことは一大事でした。1年経った今でもいかにこの子供の死が人々の記憶に深く残る悲劇だったかが、この一言で分かります。

 「車屋本」ではそのことを明かしません。これまた一つの主張で、劇中だんだんと「子供の死」が判明してゆくスリルを狙った、「ネタバレ」を避ける意図なのでしょう。加えて、ここでは「増水した隅田川がいかに危険な川か」を言っています。昭和戦前に荒川放水路が完成し河川改修が成るまで隅田川はしばしば氾濫するあばれ川でしたから、これには実感がこもっています。

 いずれにせよ、「誰かは分からないが『死』のイメージを濃厚に漂わせてドラマが始まる上ガカリ」と、「『死』は伏せつつ自然の厳しさを述べて土地のイメージを鮮明化する下ガカリ」と、ともに優れた冒頭部で、これは現在も同じように伝承され、上演されています。

 やがて、シテ・狂女が船に乗ろうと川岸までやって来ます。「天正本」ではこうです。

《サシ》
シテ/げにや人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。今こそ思ひ白雪の。道行人に言傳てゝ。行方を何と尋ぬらん。

《一セイ》
シテ/聞くや如何に。うはの空なる風だにも。
地謠/松に音する。習ひあり。

 ここには後述するように名高い和歌2首が引用されているのですが、「車屋本」ではこうなっています(シテとは別に舞台上に座る地謡方8人による合唱部分を上ガカリでは「地謡」、下ガカリでは「同音」と表記するのが伝統です)。

《サシ》
して/人の親のこころは闇にあらねども。子を思ふみちに迷ふとは。今こそ思ひしら雪の。道ゆきぶりに誘はれて。行方いづくとさだむらん。あら定めなの憑みやな。

《一セイ》
して/聞くやいかに。うはの空なる風だにも。
同音/松に音する。ならひあり。

 《サシ》の末尾が異なっているのにお気づきでしょうが、問題はそこではなく、シテの謡い出しです。「天正本」では「げにや人の親の……」。「車屋本」では「人の親の……」。たった3字の有無ですが、舞台表現としてはきわめて大きな違いです。 「げにや」とは「ほんとうに」という詠嘆の表現。この3字が多いだけでテンポが一瞬停滞し、これを謡う狂女の心の深い憂愁と疲労感が強調されます。3字を加えず「人の親の」とズバリ謡い出す「車屋本」の表現は「天正本」に比べてはるかに強く、激しく、切迫した心情が吐露されます。つまり、たった3字の有無がシテの性格の相違につながっているわけで、シテはそこを承知して謡い、演じないといけないのです。 ちなみに、「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」は『後撰和歌集』にある藤原兼輔の和歌で「わが子への愛情には盲目ともなる親心」を歌う名歌。兼輔の曾孫・紫式部が、曾祖父を讃える意味でしょう、『源氏物語』に繰り返し繰り返し引用したことからさらに著名となり、従ってここには王朝文学の優雅な香りもオマケとして漂います。

 また「聞くやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは」は『新古今和歌集』にある女流歌人・宮内卿の名歌で「自分につれない男性への切実な訴え」を詠んだもの。恋歌ですから、ここには艶っぽい雰囲気が加味されます。勘の良い人は、「悲劇の母子のドラマだから、前者は良いとしても、後者はちょっとねぇ……」と思いますね。それが、このずっと先のセリフを見ると、こうあります(天正本)。

ワキ/妻を忍び。

シテ/子を尋ぬるも。

ワキ/思ひは同じ。

シテ/戀路なれば。

 〈隅田川〉は在原業平が「妻」を都に置いて東国に下ったとされる『伊勢物語』のエピソードに基づいていますから、この「妻」は「業平の妻」を指します。同時に、古語「つま」は「妻」と「夫」どちらも指しましたから、「つまを忍び=夫を忍び」とは「自分に冷たい男性を心ひそかに思う」宮内卿の和歌の内容をさすことにもなります。「子を尋ぬる」愛情はもちろん兼輔の歌の親心と同等。
つまり、先立って引用された別々の2種の和歌がここに到って「思ひは同じ戀路なれば」、すなわち「男女間でも親子間でも『人を恋いしのぶ』思いの切実さに変わりはないのだ」と美事に統合され、昇華されるのです。それを計算して、元雅は一見かけ離れたように思える和歌2首をシテの登場部に並べて引用していたのです。

 こうしたダイナミックな修辞法を世阿弥は用いていません。まさに大胆な、元雅の天才的な手腕を示す作文力です。上ガカリのみならず下ガカリでも、〈隅田川〉は今もこのように謡われ、演じられています。

〈隅田川〉の結末とリアルなドラマ性

 狂女の子・梅若丸は12歳で死んでいました。それも、人身売買の悪徳商人にさらわれ、病気になって道ばたへ捨てられて。

 これほどの悲劇はありません。

 船頭はじめ土地の人々の情けにより、「都の人の足手影も懷かしう候へば、この道のほとりに築き籠めて、しるしに柳を植ゑて賜はり候へ」(天正本)と言い残した遺言どおり、梅若丸の墓は隅田川対岸の街道沿いに作られ、墓標として1本の柳が植えられました。狂女も母として涙ながらに加わる一周忌の大念仏の声の中に、突然、幼児の声が交じります。緊迫の場面。「天正本」ではこうです。

シテ/のうのう今の念佛の聲は。まさしくわが子の聲にて侯。この塚の内にてありげに候ふよ。

ワキ/われらもさやうに聞きて候。所詮こなたの念佛をば留め候ふべし。母御一人おん申し候へ。

シテ/いまひと聲こそ聞かまほしけれ。

 「墓の中からわが子の声が聞こえた」とは狂女らしい幻聴かと思いきや、そうではなく、正気の船頭も「われらもさやうに聞きて候」と明確に認めます。こうした「奇蹟の肯定」を世阿弥は決してしませんから、元雅の作劇の要点といえます。この部分、「車屋本」ではこうなっています。

して/なうなう今のをさなごゑはいづくの程にて候ぞ。

わき/まさしく此塚のほとりと覺えて候。

して/さればこそまさしき我子の聲なるぞや。今一こゑこそきかまほしけれ。

 似ているようで違います。

 「天正本」だと狂女自身「塚の内」と明示しているのに、「車屋本」だと狂女は「どこから聴こえたのか?」と漠然と不審がり、船頭のほうが「この塚のあたりだと思われます」と教えています。つまり、「天正本に比べて車屋本は奇蹟の肯定感がやや弱い」のです。

 この違いは、舞台に子役(子供役者)として梅若丸の幽霊が出現する、続くクライマックスでより明らかになります。

天正本

地謠/声のうちより。幻に見えければ。

シテ/あれはわが子か。

子方/母にてましますかと。

地謠/互に手に手を取り交はせば。また消え消えとなり行けば。いよいよ思ひは眞澄鏡。面影も幻も。見えつ隱れつする程に。しののめの空もほのぼのと。明け行けば跡絶えて。わが子と見えしは塚の上の。草茫々としてただ。しるしばかりの淺茅が原と。なるこそあはれなりけれ。なるこそあはれなりけれ。

車屋本

同音/こゑのうちより。まぼろしに見えければ。あれは我子か。母にてましますかと。互に。手にてを取かはせば。又。消々と失せければ。いよいよ。おもひはますかがみ。面影もまぼろしも。見えつ。隱れつする程に。篠の目の空もほのぼのと明けゆけば跡たえて。我子とみえしは塚のうへの。草。ばうばうとして。しるしばかりの淺茅が原と。なるこそ哀成りけれ。成るこそあはれなりけれ。

 お分かりのように、「天正本」で子方が一人で謡う「母にてましますかと」の一句が、「車屋本」ではこれに先立つ母の一句とともに地謡(同音)が代わりに謡うことになっています。舞台上に役者として子方が姿を見せていながら、「天正本」のように静寂を破って甲高いボーイソプラノの声が響くのと、「車屋本」のようにそうはならないのとでは、これはもう、効果は大違いです。

 私は、元雅の意図した「奇蹟の現実化」という点において、「天正本」のほうが原作の意図に近いものと考えます。『申楽談儀』に語られる〈隅田川〉の演出論争で、元雅の作意を認めない世阿弥が「こもなくて殊更面白かるべし」、つまり「子方は出さないほうがよい」と主張して譲らなかったのは、元雅の能の本質的な「リアルさ」に反発したからでした。いわば、原作〈隅田川〉に世阿弥的な抑制を効かせた改変の結果が「車屋本」の処理だとも考えられるかもしれません。

 そしても現在もやはり、上ガカリ諸流は「天正本」のように、下ガカリ諸流は「車屋本」のように、この能を演じ続けています。

 伝統芸能とされる能にも、以上簡単に記したような紆余曲折があり、現在そう伝わっている必然というものがあります。それらを踏まえ上で、現代に生き残る価値をなお具えたものを「古典」と呼ぶのです。

 能はそうした「古典」の中で最も強く、美しく、優れたジャンルだと思います。能に興味を抱く方には、単に現代人としての感性だけでそれに接するのではなく、数百年前の作者が身を削り骨を削って書き顕わした「ドラマ」そのものをじっくり読み込み、思いを致して、とくと舞台を見ることを是非おすすめしたいと思います。

 
 

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