前田 雅之 教授 連歌の欠落

背景

はじめに—高校用古文(言語文化)教科書から—

 この一・二年、新しい古典教科書を編纂する仕事をやっていました。新課程の教科書で、「言語文化」と「古典探究」なる科目名がついたものです。私の高校生の頃は、「現代国語」「古文」「漢文」だったはずですが、その後、「総合国語」なる名称になり、今回は、古文・漢文が中心の古典入門授業が「言語文化」となったのです。まあ、古文も漢文も「言語」であることには確かであるし、共に文化でもあることも間違いありません。だが、この名称から、内容が「古文」・「漢文」さらに古典を素材にした小説やエッセイであるということを理解するにはなかなか時間がかかりそうです。また、生徒の面々に親しまれるかどうか、やや不安ですね。

 「言語文化」なる科目名については、偉いとされる先生方が集まる審議会の決定を経て文科省が行政として執行することですから、教科書作りの側としてはその決定に従うしかありませんけれども、改めて教科書に記されている古典文学の流れを眺めていますと奇妙なことに気がついたのです。それは和歌・誹諧といった韻文の歴史についてです。

 高校生は、日本最初の韻文として、古代(記紀)歌謡か『万葉集』の和歌を学ぶでしょう。これはいいのです。それから、和歌の歴史となり、『古今集』を経て、『新古今集』に至りつきます。手っ取り早く言いますと、和歌は「万葉」「古今」「新古今」で終わりなのです。実際には、和歌はその後も長く文学・文芸の王様として江戸時代末期で君臨し続けたのでした。

 加えて、『古今集』や『新古今集』といった和歌の権威を支えてきた勅撰集は、『新古今集』の後、『新勅撰集』・『続後撰集』・『続古今集』・『続拾遺集』・『新後撰集』・『玉葉集』・『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』・『新千載集』・『新拾遺集』・『新後拾遺集』・『新続古今集』と十三も撰集されていたのです。事実上最後の勅撰集となった『新続古今集』が作られた(=二度目の奏覧がされた)のは、文安四・一四四七年でした。これって『新古今集』からほぼ二四〇年以上経っているのです。

 さらに言いますと、室町幕府八代将軍足利義政は二十二代集を用意していたのですが、応仁の乱のため二箇所の和歌所が焼亡してしまい、やむなく中断せざるをえなかったのです。それ以後、息子の九代将軍義尚は、勅撰集とはおそらく異なる「打聞」(=和歌集)を撰集しようと準備をしていましたが、親征していた近江国の鈎陣で二十五歳の若さで亡くなってしまい、以後、勅撰集を作ろうという声はなくなりました。とはいえ、和歌自体はその後も歌人層を拡大して繁栄を続け、江戸期に至ったのです。江戸時代の和歌総量はおそらく古代から安土桃山時代の総量の十倍以上だったのではないか。だから、誰もまだ全容を解明しておりません。

 ここで教科書に戻りますと、むろん、教科書という小さなスペースで盛りだくさんの内容を突っ込みますから、和歌については、一応最低限の知識が身につくようになっていればそれでよいという考えには、ある意味で致し方ないかという思いももちますが、不思議なのは、和歌を学んだ後は、なんと『梁塵秘抄』や『閑吟集』という歌謡(『梁塵秘抄』は後白河院編纂だから、平安最末期、『閑吟集』は編者未詳で永正一五・一五一八年の成立だから、室町後期である)を学ぶことになっている構成です。和歌と歌謡は別ジャンルとみてよく、繋がりません。

 だが、驚くのは、その後です。中世歌謡の後、突如、芭蕉の誹諧が始まるのです。私も高校生の時こうやって学んだはずなのですが、何も覚えていません。おそらく不真面目な生徒だったからしょうか。私の驚きの核心は、和歌と誹諧の間をつなぐ「連歌」が完全に無視されているという事実なのでした。

誹諧の連歌—芭蕉の連句—

 連歌研究の権威であった故伊地知鐵男(1909~98年)が、若い頃、連歌資料を探しに地方の神社などに出かけると、「煉瓦」なら外に積んであるよと言われたとどこかに書いていましたが、戦前においても、連歌はすっかり忘れ去られてしまっていたのでした。教科書からなくなるのはある意味で当然だったかもしれません。連歌、こんなものは聞いたことがない。これが近代日本における連歌に関する常識と言ってもよいでしょう。

 明治以降、旧来の和歌や誹諧は、正岡子規の革新運動の影響もあって、和歌は短歌に、誹諧は俳句となりました。このうち連歌に近いというか、連歌の発展型が誹諧です。近代以降俳句と言えば、季語を含んだ文語文を五七五句で詠むもの(子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」など)となってしまい、多くの人たちがそう思っていますが、江戸期の誹諧は、誹諧の連歌(連句とも言います)であり、歌仙と呼ばれる三十六句を五七五句の後七七句で繋いでいくものだったのです。たとえば、芭蕉篇『俳諧七部集』の「続猿簔」冒頭を引用してみましょう。

八九間空で雨降る柳かな 芭蕉
春のからすの畠ほる声 沾圃
初荷とる馬子もこのみの羽織きて 馬見
内はどさつく晩のふるまひ 里圃
きのふから日和かたまる月の色
狗脊(ぜんまい)かれて肌寒うなる

 発句は芭蕉の「八九間(はつくけん)空で雨降る柳かな」と五七五句です。発句が独立したのが現代の俳句ですが、当時も発句だけ詠むものもありました(『奥の細道』にある「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」などです)。だが、本来は、連歌と同様に、発句の後は、芭蕉晩年の弟子である沾圃(せんぽ)が「春のからすの畠ほる声」と脇句(七七句)を付けている。その後は、馬見(ばけん)が第三句「初荷とる馬子もこのみの羽織きて」と五七五句に戻っています。これが三十六句続くのです。三十六歌仙にちなんで「歌仙」と洒落て言ったのでした。

 発句と脇句は、「八九間空で雨降る柳かな 春のからすの畠ほる声」と合わせてみると、和歌のようになります。意味的には、「空は晴れたのに、八九間(10~12メートルくらい)はある柳の枝の中だけ雨がしたたり落ちているなあ、そこへ春の烏が舞い降りて畠を掘っている声が聞こえる」という意味になりましょうか。しかし、「春のからすの畠ほる声」は次の「初荷とる馬子もこのみの羽織きて」とも和歌(但し、七七・五七五となりますが)のような形を作り、今度は「烏の畠をほる声を聞きながら、新春の初荷を馬に積む馬子も正月らしくお気に入りの羽織をきている」といった意味に変じて、全体で新春ののどかな感じが出ているでしょう。馬子は通常「馬子にも衣装」といわれるように、あまり見た目がよくないのですが、その馬子でも初荷となると、一張羅なのか、いい羽織を着ている。どこか微笑ましくなる風景が自然と眼前に浮かぶではありませんか。

 こうして、五七五・七七・五七五が鎖のように繋がって、前句の連想で後句を繋げながら、意味的には微妙に前句からずらしていき、そして後句の後の句はまた同じように繋いでいき、句が付けられるたびに意味を変えながら、それでも次々に連想契機(連歌でいう寄詞)をもって繋がっていく。これが連歌(=連句)なのです。しかも、和歌は一人で詠みますが、連歌は座の文芸と言われるように、皆で詠むのです。いわば、共同作業なのです。「続猿簔」上巻は芭蕉・沾圃・馬見・里圃(りほ)の四人で開催(=興行)しているので、すぐに自分の番が回ってきて、結構慌てたかと想像されます(笑)。

光秀の連歌—『愛宕百韻』より—

 誹諧の連歌の原型にあるのが、室町時代、和歌と並び、場合によっては、和歌以上に人気があった「連歌」でした。誹諧の連歌は歌仙で三十六句ですが、連歌はだいたい百韻です。五七五・七七・五七五を百まで続けます。数から言ってこれはこれでなかなか大変です。それでは、どうやっているのでしょうか。連歌の怖さは、なんと言っても、前の句がどう詠まれるか、実際に詠まれるまで想像や見当がつかないことにあります。おおむね、扇を使って執筆(少年がすることが多い)に合図したようですが、これとて出句できない場合は、沈黙せざるを得ず、これはこれで厳しい世界です(芭蕉の時代は、どういう順番でやっていたかはよく分からないそうですが、17世紀末の誹諧の連歌となりますと、できた人が短冊に書いて宗匠のもとに運ぶことになりました。採用されたら宗匠が吟詠し、駄目なら短冊返却とか)。とはいえ、皆が参加でき、決して戦闘・喧嘩・闘争といった物騒な話にもなりませんから、貴族、僧侶、武士、庶民に至るまで連歌が定着し、流行したのでした。

 また、連歌会を仕切る連歌師は、貴族・武将と深い関係を持ち、連歌以外のことまでやっていました。代表的な連歌師である宗祇(1421~1502年)など三条西実隆(1455~1537年)のフィナンシャル・プランナーでもありました。実隆は宗祇がいなかったら、おそらく破産していたものと思われます。借金する相手、売りたい本の相手・値段、地方から来る『源氏物語』などの写本の依頼など全部取り計らってくれるのが宗祇だったのです。両者は今でいうWin-Win関係だったのです。

 そうした中で、今回は、明智光秀(1526~1582年)が本能寺の変を起こすことを決めた証拠とも言われている『愛宕百韻』を見ておきましょう(なお、その説は信用できません)。冒頭八句を上げておきます。光秀がこの百韻を開催(=張行)したのは、天正十・1582年四月二十七日~二十八日であるとのことです。なお、本能寺の変は、それから約一ヶ月後の六月二日でした。なお、発句は光秀、百句(挙句)は光秀の息光慶が「国〲は猶のどかなる時」と詠んで百韻を閉じています。光秀に始まり、光秀の息子の太平の世を祝う句で終わる。その間は、光秀を含む下記の八人のメンバーが多少順序を変えながら一句ずつ付けていきます。この百韻は、光秀にしてみれば、戦乱・権力闘争・派閥争い・嫉妬・怨念、そして、かの主君信長の面倒くささに疲れ果て、すさみきった心を癒やしてくれた至福の時だったのではないでしょうか。

ときは今天が下なる五月哉 光秀(明智光秀 通常は「天が下しる」とするが、「なる」が正しい)
水上まさる庭の夏山 行祐(愛宕山威徳院西之坊の僧)
花落つる池の流れをせきとめて 紹巴(当時の連歌の第一人者)
風に霞を吹き送るくれ 宥源(愛宕山大善院上之坊の僧)
春も猶鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱(紹巴一門の連歌師)
かたしく袖は有明の霜 心前(紹巴一門の連歌師)
うらがれになりぬる草の枕して 兼如(猪苗代家の連歌師)
聞きなれにたる野辺の松虫 行澄(美濃の名家・東氏の一族か、不詳。光秀の家臣については真偽不明)

 『愛宕百韻』について、これまで様々な研究(トンデモ研究も含めて)がありますが、現状で最も信頼できる勢田勝郭氏の「『愛宕百韻』の注解と再検討」(『奈良工業高等専門学校紀要』、第55号、2020年3月)を参考にしながら、見ていきましょう。

 発句である「ときは今天が下なる五月哉」は『信長公記』などでは「天が下しる」となっていますが、勢田氏は諸本等を検討した結果、「天が下なる」をよしとしています。私もそれでよいと考えます。「天が下しる」では世の中を治めるという意味にとれ、そのまま本能寺の変を暗示します。しかし、連歌会でこんなことを言うはずはありません。ここは「今は、天の下が雨となる五月なのだなあ(五月雨は梅雨のこと)」という意味でしょう。主催者(=張行)である光秀は発句を詠みますから、これが詠まれたのが四月二十七日ですから、五月を前にして季節をやや先取った発句を詠んだのです。これに行祐は、「水上まさる庭の夏山」と脇句を付けました。五月雨のために庭の池も水位が上がり、そこに緑豊かな夏山が映っているとしました。発句と脇句で初夏の風景を詠んだ和歌のような意味になります。そして、第三句にいきますと、花が散って庭の池の流れをせき止めると、(ここで脇句に戻ります)水位が上がって、庭には緑豊かな夏山を映し出している、というような意味になるのです。季節は発句から第三句まで春から夏ですね。だが、四句になると、霞が登場しますから、春に戻っています。この辺の季節や部立の変化も連歌の魅力です(八句では「松虫」がありますから秋ですね)。その他複雑なルール・約束(式目と言います)がありますが、一応、このようにして百句にまで至るのです。

おわりに—連歌を授業でやってみれば—

 こうした文芸が連歌というものです。私は一度授業でもやってみたいと考えています。私が発句五七五句を皆に告げます。一クラスを八班くらいに別けて、1班が脇句の七七句を考えて発表する。2班は、1班の脇句を見て、第三句の五七五句を考える。こうして、四句めは3班というようにして、八班全部廻ったら、冒頭の1班に戻る。まあ、百韻(百句)は無理でしょうから、三周二十四句くらいはできるのではないかと思っています。変な句が前にきたら、次の班は絶望的な気分になるかもしれませんが、これもまた連歌の楽しみです。室町の連歌会ではそんなときは連歌師が頑張って元の形に戻すような句を付けました。

 現代の日本において、こうした連鎖型、しりとり型の言語文芸が廃れてしまったのは、惜しいと言っても余りあります。これこそ、日本古典文化の和歌と並ぶ輝かしい花だったのです。なんとか復興させたいものです。

 
 

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