田村 良平 教授 政頼をめぐって

背景

先日(2015年11月4日)、野村萬斎さんが長く続けている自主公演「狂言ござる乃座52nd」において、上演が珍しい「稀曲」の部類に属する狂言〈政頼(せいらい)〉が出されました。死後、現世と冥途の境界に当たる「六道の辻」で閻魔大王と出会った伝説の鷹匠「政頼」が、得意の鷹を使って見せて大王の歓心を買い3ヶ年の延命を得て、再び娑婆に生還するという物語です。来年(2016年)2月11日の横浜能楽堂企画公演「生と死のドラマ」~第2回「死者の行く先」では同じく萬斎さんの主演による再演が予定されています。

「源政頼」とも伝承されるこの鷹匠は中世の説話世界で色々に語られた、半ば虚構の人物です。私は以前、この狂言をめぐり雑感をまとめたことがありますので(『大蔵流狂言山本会別会パンフレット』2005年10月23日・国立能楽堂)、今回はそれに基づき、説話と劇作の周辺をめぐるお話を少しばかり紹介することに致します。

名高い祭礼でも、土地の者は格別、それを目当てに赴くと案外につまらぬことが多いものだが、京都の祇園祭だけはやはり違って、王城の地に息づく都市文化の底力というものに感嘆せずにはいられない。昔は二度に分けたのを一度にまとめた7月17日、市中巡行の山鉾は曳き出す町々の誇りである(ただし、2014年からは旧に復して17日「前祭」と24日「後祭」に分割開催されるようになった)。

その山や鉾の中には、長い歴史の中で退転消滅したものもあり、そこまでならずとも「休み山」と呼ばれて御神体や装飾物ばかりが保存され、復興の機会を待っているものもある。三條室町西入衣棚町の鷹山も「休み山」のひとつで、先年わたくしは宵々山7月15日の夕刻、偶然これを祀る会所を通りかかったことがある。確かビルの一階で、飾り付けらるべき山の本体はなく、会所ごとに頒布さるべき厄除粽の用意もなく、したがって祇園囃子も聴かれない。まことに寂しい限りなのだが、御神酒の錫瓶子や山海の供物を前にした三体の人形はなかなかの存在感があり、これが本式に山に上げられ夏空に揺るぎ出でたならばどれほど立派であろうかと、まだ形を留めていた旧幕時代の威容がそぞろまなかいに浮かぶようであった。

鷹山御神体の三体は、手鷹を据えた鷹匠、曳緒を持った犬飼、粽を食う樽負で、鷹匠以外は侍烏帽子であるから、風折烏帽子を戴く一体が主尊であることは明らかである。在原行平とも源頼朝とも伝えられるこの鷹匠が、ひょっとすると源政頼ではあるまいかと、わたくしはその時からひそかに疑っている。が、これに別段の根拠はない。祇園祭の山鉾には能・狂言の趣向を取り入れたものがはなはだ多いこと、ただそればかりではあるのである。

現存する鷹匠は、鵜匠と同じく宮内庁に属して皇室に仕えた流れを汲む。甲府宰相徳川別家の御浜御殿だった現在の浜離宮で時おり放鷹の催しがあるのを、親しく目にした人もいよう。

藝道の常として、狩に用いる鷹にも養鷹放鷹の流儀がある。明治維新を機に柳営から皇室に受け継がれた放鷹術は、諏訪明神を本所とする中世以来の諏訪流であった。現存唯一の流儀であるといわれる諏訪流は、同じく信州を本拠に分派した禰津流の一派とも言われるが、この間の伝承系統は今ひとつ明確にされていない。禰津流は政頼流から起こったともいわれるが、その点の詳細真偽も不明である。

政頼は正頼・斉頼・清頼とも書くことでわかるように、音読(有職読み)で伝承された、半ば伝説の人名である。史書で確実に窺えるのは武将としての姿であって、後冷泉院の康平5年(1062)に終熄した前九年ノ役の鎮守府将軍・源頼義の又従兄弟である。二人とも清和源氏・多田満仲の孫にあたるが、源氏嫡流と仰がれた頼義に斉頼は必ずしも同心しなかったようで、『陸奥話記』には敵方をかくまったとまで伝えられる。鷹飼として同時代の記録は一切なく、約200年後の鎌倉時代中期成立『古事談』に見るいくつかの挿話が、「政頼=放鷹の名匠」像の発生にかかわる何かを示唆するけれども、室町時代の辞書『運歩色葉集』に「日本越前の国敦賀の津に、太唐より始めて鷹來りて居す。鷹師これなり」とまで変容する伝承や、これらの「政頼」と実在の「出羽守源斉頼」とが仮に同一人でないとはしても、両者が結び付いた由来についてなど、一切は詳細不明という以外にない。

遥かに下って天明4年(1784)初演の歌舞伎舞踊〈積戀雪關扉〉で飛来する白鷹を「セイライの鷹」と呼ぶのが、仁明天皇崩御後とする劇設定に錯誤があるとはいえ政頼像の完成と普及を思わせ、『広辞苑』の「斉頼」の項に「一芸に精通した人」との釈があって、用例は俗曲集『松の葉』である。「源家傍流の武士→鷹飼の名人(→渡来人鷹師)→名人の代名詞」という変容には興味深いものがあるが、肝腎の鷹匠・政頼の実像は模糊としてわからない。

放鷹楽という廃絶舞楽があり、これは鷹を使うさまを舞台上で模す曲だという。鷹は皇族・貴族の弄びもので歌にも詠まれ、藝術の題材となる鷹狩は勇壮であり風雅でもあった。が、猛禽類は生き餌・生肉を喰らう。日常的な殺生を忌み嫌った時代、養鷹に必須な餌取りの業は賤しきものとされた。千家流の茶の湯で現在広く用いられる道具に、利休型唐銅ヱフゴ型の建水(水こぼし)がある。表千家伝来型が現存するので利休時代からの品に相違はなかろうが、ヱフゴとは餌畚、すなわち鷹に与える肉餌の容器であって、実情はすこぶる穢らわしいものである。浄不浄の別を実にやかましく言う茶の湯で、不浄を連想させるヱフゴを敢えて取り入れるのは面白い。一つの物事にも正負の両面が潜むということである。

能・狂言は寿福延年の藝能だが、実は題材に思わぬ背景を秘めているものもある。〈政頼〉と同じ堕地獄物に名作〈朝比奈〉があって、怪力無双のこの武将は現実には北條氏に滅ぼされた敗者であり、死せば一種の御霊である。先述の『古事談』には「政頼は殺生の因果が報い身体から羽と嘴が生じた」とある。故実を語って鷹を放つ狂言〈政頼〉には高雅な風韻があるが、類作〈餌差十王〉は大きく異なり、十王=閻魔は鳥もち竿で責められ犬にされ、極楽への道案内に成り下がる。餌差=餌取りが賤しき業とされたのは先ほどのとおりで、これは閻魔を蹴散らす〈朝比奈〉以上のブラック・ユーモアである。

鷹山が曳かれていた頃の祇園祭では、弦召(つるめそ)が神幸の行路を掃き清めた。これは中世以来祇園社に隷属した犬神人(いぬじにん)である。華やかな祭礼は、貴賤の別を問わぬ混沌に人間集団の「ありのまま」を呑み込む。狂言もしかり、ともすると見過ごしがちな明暗が交錯し、その深淵に人の世の真実が潜んでいる。中世人の骨太な世界観はなかなかつかみにくいが、敢えて心を致してこれに迫る知的作業を欠けば、多くの狂言は単なる「お笑い」に堕するのみであろう。

稀曲〈政頼〉の面白さがいったい奈辺に存するのか、わたくしたちもよくよく考えなくてはならない。

 
 

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