前田 雅之 教授 和文にスタンダードはあったのか

背景

文字と表記

 日本の仮名(平仮名・片仮名)が漢字を基にして作られた(「安」→「あ」、「伊」→「イ」など)。日本には、幸か不幸か固有の文字(江戸時代、平田篤胤などは神代文字なるものがあったと主張したが、残念ながら、願望の具現化に過ぎない。それは捏造とも言う。歴史上地域を越えてどれだけ捏造が行われたか、まあ、想像を絶する数になるだろう)がなかった。

 誤解を解くために言っておくと、文字がない社会(=無文字社会)が遅れている社会という意味ではない(レヴィ=ストロース『野生の思考』、川田順造『無文字社会の歴史』を読まれたし)。そういう社会は文字を必要としなかっただけである(たとえば、高度の文明を誇ったインカ帝国にも文字はなかった)。日本も漢字を導入するまでは、記憶された語りで物語・歴史を語り、歌を詠んでいた(こうした伝承を文字にしたものの一つが『古事記』である)。

 とはいえ、文字がないと、複雑な内容や様々な記録を記し、残しておくことはできない(簡単に言えば、証拠に基づく裁判すらできない状態だ)。和歌なら三十一文字だから、記憶でなんとかなるが、『源氏物語』などは文字がなかったら永遠に完成しなかっただろう(なお、和歌の掛詞も「いはしみず」は「石清水」と「言は(しみ)ず」に掛けるが、これなど文字表記を前提にしている。この例に限らず、その場の思いつきで掛詞はできない。だじゃれではないのだ)。だから、日本が中国から漢字を導入したことは、文字と古典をもっている前近代文明社会(前近代では、中国漢文文明圏—中国・朝鮮・日本・ベトナム—、インド・ヒンドゥー文明圏—インド亜大陸・東南アジア—、チベット・仏教文明圏—チベット・モンゴル—、イスラーム文明圏—インド(ムガル帝国)・イラン・トルコ・アラブ・北アフリカ・一部ヨーロッパ—、ヨーロッパ・キリスト教文明圏—ヨーロッパ・ロシア・その後アメリカ—、ユダヤ文明圏—ヨーロッパ・イスラーム地域に散在するユダヤ社会—が文明社会である)の仲間入りを開始したということである。

 とはいえ、困った問題があった。それは日本語と中国語の言語として、とりわけ、文法的な違いである。漢文(古典中国文章語、ここでは中国語を漢文として考える)には、日本語の「てにをは」に相当する助詞はない(但し、「於」などの助字はあるが、日本語の助詞とは機能が異なる)。動詞も日本語のように活用しない。過去形も現在形も見たところ同じである(日本語の場合、過去の助動詞を動詞の後ろにつけて過去を示す)。中世までのヨーロッパ人が文章はラテン語で書いていたように、日本人が漢文で思考し、漢文で書いていたうちはよいけれども、日本語で思考し、日本語で書こうとすると、漢字しかないとなんとも不自由きわまりなくなる。そこで、最初に日本人がやったことは、漢字を仮名のように使うことだった。これを万葉仮名と呼んでいる。

 たとえば、『万葉集』巻二・八五番歌(磐姫皇后)は

君が行く日(げ)長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ(旧大系)

は、原文では、

君之行 気長成奴  山多都祢 迎加将行 待尒可将待

 となっている。「気長成奴」を「日(げ)長く成ぬ」と読んだことがここから分かる(但し、言っておくと、『万葉集』の訓みは、あくまで試訓であり、本当のところ、どう訓んでいたかは分からない。まだ訓みが定まらない歌がそれなりにある)。「気長」は「日長」+「く」、「成奴」は「成ぬ」とあるように、訓(長く・成)・音(気・奴)を駆使して漢字だけで歌を表記している。こうして漢字を仮名のように用いることによって、日本語が文字として書き表せるようになった。たいしたものである。

 これに近い例を挙げてみると、オスマン帝国(一三世紀末~一九二二年)は、ヨーロッパを脅かし続けたイスラーム世界最後の大帝国であり、彼らの用いる言葉はトルコ語(当時はオスマン語と呼んだ)であった。しかし、イスラーム世界では、宗教・哲学はアラビア語、文学はペルシャ語という棲み分けがあった(ノーベル賞作家オルハン・パムク『私の名は赤』はオスマン帝国時代を舞台とする物語だが、この当時は、ラブレターのキーセンテンスはペルシャ語で記されていたとある。本当か嘘かは分からないが、ありそうな話ではある)が、文字は共にアラビア文字を使っていた。アラビア語には母音が長短はあるが、アイウの三音しかない。ペルシャ語には六音あるので、後から母音記号を作って補った。ところが、トルコ語は八音もある。しかも、母音記号をあまり用いなかったらしい(アラビア語は『コーラン』といった聖典以外、母音記号は書かないのに倣ったか)ので、一部のインテリ以外ほとんど読めなかったらしい。オスマン帝国が滅び、今のトルコ共和国の建設者であるケマル・パシャによって、文字がアルファベットに改められ、今に至っている。つまり、オスマン帝国時代は、極めて使いにくい文字を宗教上の理由で使っていたということである(この点、パキスタンのウルドゥー語は、アラビア文字に補助記号と付けてうまく使い定着している。ちなみに、オスマン帝国と並ぶ大帝国であったムガル帝国の公用語はペルシャ語、俗語がウルドゥー語であった)。

 
 この点、日本人は、万葉仮名を長く使い続けることはしなかった。やはり不便だったからである。たとえば、日本を代表する古典とみなされている『古事記』は、本居宣長が『古事記伝』を書き上げるまでほとんど読めなかったのである。

古天地未剖、陰陽不分、混沌如鶏子(『日本書紀』巻第一、神代上、旧大系では、「古(いにしへ)に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れざりしとき、渾沌れたること鶏子(とりのこ)の如くして」と訓読み中心で書き下している)

天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。(『古事記』上巻、旧大系では「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、 高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と訓む)

 『日本書紀』と『古事記』の冒頭を並べてみると、『日本書紀』が正しい漢文であるのに、『古事記』ときては、「成神」を「成れる神」と訓んでおり、漢文とは言いかねる。日本語を漢字で表現しただけである。だが、これはまだわかりやすい方である。

 とはいえ、漢字の音訓を駆使して仮名のように使うのは、やはり不便であり、書くのも読むのも大変だった(だが、漢字の使い分けで万葉語の甲音・乙音の違いが分かったのだから、学問的には貴重なデータである)。

 そこで、九世紀あたりから自前で片仮名・平仮名を作り、それが今日にまで続くことになる。片仮名・平仮名の登場によって、文章を書く際にどれだけ便利かつ楽になったか分からない。また、漢字も捨てなかったので(戦後、捨てようという愚かな動きもあったが)、今日、日本語で文章を記す時には、漢字(音訓)+平仮名+片仮名で記すことがごくごく自然となった。アルファベットだけを使っている外国人が見れば、えらく不便な表記法かと思われるかもしれないが、日本語表記の方がヨーロッパ語に比べて情報を読み取るスピードは断然速いし、また、外来語も片仮名で表記すればよいので、なんら困らない(その結果、訳のわからない外来語が蔓延もしたが)。一旦習得してしまえば、日本語は最も便利な表記法をもつ言語であろうと私は確信している。

スタンダードとしての漢文とスタンダードがない和文

 日本を正しく日本にした、つまり、その前に長く続いた中国風日本ではなく、和風日本(以前は国風と言った。私は古典日本と呼んでいる)を作り上げたのは『古今集』(延喜五年・九〇五)である。その本文は、本来は、全文平仮名で記されたと推定されている。二つある序文(真名序・仮名序)のうち、真名序は漢文で記されている(真名とは本来の字という意味で漢字・漢文を指す)が、仮名序は和歌本文同様に、全文平仮名で記されていただろう。

 ここで少し遠回りをして、真名序の言語である漢文なるものを考えておきたい。漢文とは言ってみれば、古典中国語である。だが、漢文は一度も話されたことがない言語である。最初から文章語として使われ、鍛えられ、伝わったことばであった。だったら、古代の中国人は何語をしゃべっていたのか。おそらく、その地域の話し言葉(方言とも言う)を話していたのだろう。現在の中国でも北京の人と上海の人が話し言葉で話すと通じない。古代はさらに通じなかっただろう。それを乗り越える方法が漢文という共通語だと考えるとわかりやすいかもしれない。

 今日、漢文は文章語としては、ほぼ役割を終えた(明治の頃、満洲で漢文新聞を発行した日本人もいたが)。よって、漢文とはもっぱら読むための古典文章語となっている。私は学んでもいないが、アラビア語など、古典アラビア語(フスハという。文法は『コーラン』に基づく)は、イスラーム圏の共通語(会議などの公用語)、また、アラビア語の文章語(逆に言えば、アラビア語には口語文章語がないようである)として堂々と生きているから、古典語がいずれも漢文のようになったのではない。ラテン語もローマ法王庁では生きているようであるし、インドのサンスクリット大学は、授業も会話も古典サンスクリット(梵語)でやっているようである。

 とはいえ、ここでは、漢文なるものが最初から文章語として作られたということだけは理解していただきたい。そして、漢文に近いことばが実は身近にあることに気がつかれただろうか。それは現代日本語の文章語である。現代日本語の文章語(だいたい一九一〇年前後に完成されたという)は、近年、江戸時代の「説教」といった圏外文学+西欧語+漢文によって作られたということがほぼ分かってきた(齋藤希史『漢文脈と近代日本』参照)。これも皆がしゃべっていることばが自然に文章語になったのではない。ある意味で作られた言語なのである。だが、これに慣れて(慣らされて)しまったので、私たちは、もはや地の文(会話・心話以外)を標準語と言われている文章語でしか書けなくなってしまっている。嘘だと思ったら、方言でレポートを書いてみるとよい。冒頭、どう始めますか?

 とはいえ、現代文章語にも時代の変化があるし、流行もある。明治の頃よく使われた「吾人」「吾輩」などを第一人称で使う人はいなくなったし、西洋語の「誰でも」を意味する「we」をそのまま直訳して「我々は」なども言わない(よく出てくるのは、今話題になっている憲法の前文くらいである。その理由は英文を訳したものだからだ)。よって、これがお手本というような現代文章語は残念ながら存在しない。ために、文章の書き方、論文の書き方のノウハウ本は明治の昔から今に至るまで販売され続けている(今後も販売されるだろう)。

 他方、漢文はといえば、これも時代によって、文体・語彙の変化や流行はあったに違いないが、当の中国では、士大夫と言われる知識人は、漢文を自在に操る(漢詩文を書く=作る、注釈書を書く、歴史書を書く、随筆を書くなど)ことが必須条件であり、漢文とはスタンダードな公的言語であると誰も疑ったことはなかった。もっと言えば、儒学・漢詩文への造詣の深さと漢文の運用力こそが士大夫の条件かつアイデンティティであった。

 これは中国に限定されたものではない。朝鮮半島は現在南北共にハングルオンリーとなってしまったが、朝鮮王朝時代、公式文書、文章、韻文はいずれも漢文であった。ハングル文学などは王朝の女性たちの小さな集団で作られ、読まれただけであって、一度も文芸の主役にはならなかった。

 そして、日本においても、正式な文章とは、長い間、漢文であった。前に示した『日本書紀』が漢文であるのは国家が制定した正史だからである。『古今集』の漢文の真名序がついているのも、『古今集』を公的な詩文集にするため、もっと言えば、漢文という中国的公的・正統的世界に向けて、中国の士大夫が実際に読んだか読まなかったかは問わず、発信するためだったと思われる。たとえば、源信が著述した『往生要集』は中国に運ばれて、褒められたという。源信がこれを喜ばなかったということは絶対になかったはずである。漢文は日本においても、スタンダードな文体・文章として位置づけられていたのである。

 他方、和文はどうなのだろうか。今、『古今集』仮名序・真名序の冒頭を掲げてみる。ほぼ同意の文章となっているはずである。

仮名序 紀貫之作

やまと歌は人の心を種として万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける。

真名序(こちらの方が先に成立したと思われる) 紀淑望作

夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。

 「やまと歌は人の心を種として万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける」と「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也」が同意かどうかやや微妙だが、言いたいことは、やまとうた(和歌)とは人間の心(=根・種)を言語化するものだということでは共通していよう。しかし、読後感はかなり異なる。いうまでもないが、別の言語だからである。そして、漢文の真名序は和歌(=主語)、心地に託し(=述語1)、発する者なり(=述語2)とあるように、文脈が実にたどりやすい一方で、仮名序は、「やまと歌」(=主語)が「万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける」(=述語)となってはいるものの、「やまと歌」は「~である」ではなく「~となった」と言っており、真名序に比べて主述関係がすっきりとしていないことに気付くだろう。どうしてこうなったのだろうか。

 それは、文章を書く言語としての和文がまだまだ完成していなかったからだろう。日本語は、西欧語や漢文(中国語)のように、主語を必要不可欠としない。だから、「象は鼻が長い」(主語は象ではなく鼻である)という文章も可能である。ここも、真名序に倣って「やまとうたは」と書き出してみたものの、後をどう続けてよいかはっきりしないのである。それが「とぞなれりける」という強調しつつ、すっきりしない文章になっている理由だろう。

 何のことはない。仮名序故にはりきって和文によって序文を記したものの、まだまだどう書いてよいかが定まっていなかったということだ。仮名序最後の文章もなかなか難解である。

青柳の糸、絶えず、松の葉の、散り失せずして、真栄(まさき)の葛(かづら)、永く伝はり、鳥の跡、久しく留まれらば、歌の様(さま)を知り、事(こと)の心を得たらむ人は、大空の月を見るごとくに、古(いにしへ)を仰ぎて、今も恋ひざらめかも。

 定評ある高田祐彦訳(角川文庫)でここの訳文を示すと、

青柳の糸のように絶えることなく、松の葉のように散り失せず、まさきの葛のように長く伝わり、鳥の足跡のように久しく残っているならば、歌のさまをも知り、言葉の本質を理解しているような将来の人は、大空の月を見るように、古を仰ぎ見て、この『古今集』勅撰の成った今を恋い慕わないことがあろうか。

 ここで前半は、「青柳の糸」=絶えないものの喩え、「松の葉」=散り失せないものの喩え、「真栄の葛」=永く伝わるものの喩え、「鳥の跡」=久しく残っているものの喩えであり、いずれも永遠に伝わる、続くという意味内容になっている。

 問題は、「久しく留まれらば」だろう。この表現の特異性は他に例を見ない。文法的には、「留まる」の已然形+存続完了「り」の未然形+接続助詞「ば」であるが、どうしてこんなに妙に凝った文章にしたのだろう。あっさりと「久しく留まらば」でよいではないかと思うが、前段の永遠性をここでも強調したくて、あるものがずっと続いているという意味を示す「り」の未然形を間に挟んだのだろうが、結果的にすこぶる人工的な表現となった。簡単に言えば、こなれていないのだ。 

 そして、最後の一文「古(いにしへ)を仰ぎて、今も恋ひざらめかも」である。高田氏がわかりやすく言葉を足して訳してくれているが、「今も恋ひざらめかも」もかなり特異である。「恋ひ」+「ず」の未然形+「む」の已然形+係助詞「か」+「も」(平安期にはいると「かな」になる)というのは、直訳すれば、「恋わないでいられないだろうか」となるが、ここもあっさりと、「恋ひざらむや」もしくは「恋ひざらめや」くらいでよいかと思うが、強調の結果、舌を噛みそうな表現となっている。

 くたくたと書いてきたが、何が言いたいかと言えば、日本最初の和歌原論たる『仮名序』とて、必死になって人工的に書き上げた和文であり、その後、和文のスタンダード(『新古今集』・『続古今集』の仮名序の手本にはなったが)とはならなかったということである。

 それでは、和文でスタンダードとはあったのか。おそらく書簡体の「候文」や変体漢文と呼ばれた貴族の日記(漢文風だが、漢文ではない、日本語を漢文風に書いているだけ。だから、「被」を受け身ではなく、尊敬語で用いたりする)になるだろうが、これは我々が考える和文とはやや異なる。ならば何だろうか。私が思うに、和歌だと思われる。和歌が和文の唯一のスタンダードであった。故に学ばなくてはならないのである。

 ならば、日本古典文学の代表たる『源氏物語』の文章はスタンダードではないのか、と言えば、規範になり、その後の物語作品は模倣されたし、さまざまな作品のモデルともなったが、皆が『源氏物語』風の文章で書いたかと言えば、そうではない。鎌倉から室町にかけて、『源氏物語』六十巻説に基づき、六巻の続編を書いた人がいる。その一つ「山路の露」を読めば、『源氏物語』をとてもじゃないが、まねて書いたとは思われない安易な(故に読解も容易な、中世的な)和文体である。これ一つをみても、『源氏物語』は仰がれた作品だが、文章としてのスタンダードにはなれなかったことが確認されるのだ。

 和文にはスタンダードがなかった。だからこそ、兼好法師は擬古文風に『徒然草』を書き、江戸期の本居宣長も平安人になったような擬古的な和文体の文章(徹底的に和語を用いる)を書いた。いずれも作為的な行為であり、当時の人の標準的書記行為ではない。こうしてみると、誰もがほぼ同じような文章で書く、近代文章語は偉大な達成だが、所詮、スタンダードがないのだから、今後もさまざまと変容していくだろう。その一つである論文的文章も柳田国男の頃は、最後に教訓や怒りがまま表明されていたが、今、こんなことを書くと、妙な人だと思われ(=避けられ)るだけである。

 だから、最後にこう言っておこう。スタンダードがないからこそ、和文を含めた日本語の文章語は可能性にあふれていると。諸君らが試行錯誤をしつつ、自らの表現手段を会得されることを望みたい。私はまだまだ修行中である。

 
 

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