ことばと文化のミニ講座

【Vol.82】 2014.6   古田島 洋介

笑うに笑えぬ笑い話

なに?「クンこ」だと?

平成23年(2011)は、漢文を教える吾が身にとって衝撃の年だった。

大学生のほとんどが漢文をろくろく勉強していない事態には、それ以前から慣れっこである。なにしろ、国語科のなかで独立した漢文の授業を設けている高校の数は微々たるものだ。大学センター試験を受けるのならばともかく、私立大学の理系学部はもちろんのこと、たとえ文系学部を志望しても、国語の入試問題で漢文が課されることは滅多にない。漢文がお留守の大学生が大半を占めるのも宜なるかなである。

漢文の「奴」に付けられた注釈「下男」を「したおとこ」と読む学生がいても、それほどは驚かない。もはや「下男」を務める人物を現代の日本で見かけることは皆無に等しいからだ。平成生まれの若者が知らなくても無理はないだろう。「下男」がいなくなったのも日本の社会が進歩した結果だとすれば、かえって喜ばしい事態と言えるのかもしれない。「下男」を正しく「ゲナン」と読めたとて、さして自慢にならないのもたしかである。

しかし、平成23年7月、某女子短大の国文科の授業で『論語』の一節を例文に挙げて読ませたとき、読み上げを指名した女子学生が「君子」を「クンこ」と発音したのには、さすがにまいった。可笑しいやら腹立たしいやら、ついに来たか、という印象である。

「君子」は、漢文の基礎語彙の一つだ。ちょっと漢文を学んで『論語』をかじれば、「君子」と「小人」が対義語になるのは常識中の常識であろう。それを踏まえて、「君子」とはいかなる人物か、「小人」とどのような点で違うのかと話し出せば、一応は大学の授業らしい体裁になる。けれども、「君子」を「クンこ」と読まれたとあっては、がっくり気落ちせざるを得ない。「君」に音読み「クン」、「子」に訓読み「こ」を当てはめる重箱読みの筋の悪さもさることながら、「私は漢文をこれっぽっちも勉強していません!」と声高に宣言しているようなものだからだ。そのような学生に「〈クンコ〉では、〈訓詁〉に聞こえるではないか!」と叱ってみても虚しく響くだけだろう。「君子」を読めない学生が「訓詁」という語を知るはずもあるまい。

この場で予言しておこう。現状のまま漢文教育がひたすら衰退してゆくならば、「クンこ」どころか、「君子」を「きみこ」と読む学生が遠からず出てくるに違いない。その結果、「君子と小人」は、「〈クンシ〉と〈ショウジン〉」ならぬ「〈きみこ〉と〈こびと〉」。何やら奇を衒った通俗恋愛小説の題名にさえ聞こえる。そうなった曉には、『陽子と光子』と題する小説でも書いて、書店の「自然科学」コーナーに置いてみるのも一興だろう。いや、詐欺と言うべきか。てっきり「ヨウシ」(陽子)と「コウシ」(光子)を論じた素粒子物理学の一書かと思って買い求めると、開けてびっくり、二人の女性「ヨウこ」(陽子)と「みつこ」(光子)がらみの陳腐なドタバタ恋愛劇という仕掛けである。

ちなみに、平成23年(2011)は、同じ女子短大の英文専攻科で、英語の相関語句〈so...that...〉を読み取れない学生が現れた点でも記憶に値する年であった。英文学科ではなく、英文専攻科。つまり、短大生として二年にわたる英文学科の課程を無事に修了し、さらに一年間の英語学習に励んでいるはずの学生である。

「君子」を「クンこ」と読んだ国文学科の学生と、相関語句〈so...that...〉がわからなかった英文専攻科の学生。どちらのほうが嘆かわしいかと問うのは、愚問のきわみだろう。責任を負うべきは、教えるべきことを教えなかった教員である。いつでも善人ぶった微笑みを浮かべて、生徒や学生たちと仲良しごっこ。さながら、暇を持て余す御婦人方の茶飲み友だちではないか。イツモシヅカニワラツテヰル----そういう教員に私はなりたくない。

「さて、どんな草でしたかな?」

とはいえ、「クンこ」の学生を、頭ごなしに「辞書ぐらい引いてきなさい!」と叱りつけるつもりはない。事の性質こそ異なれ、辞書そのものが、やはり笑えぬ笑い話を演じている場面もあるからだ。

飛田良文[監修]・菅原義三[編]『国字の字典』(東京堂出版、平成2年〔1990〕)は、小型ながら甚だ便利な一書で、たいていの国字は調べがつく。言うまでもなく、国字とは日本人が独自に(勝手に?)造った漢字を指す。「働」「峠」や「辻」「込」あるいは「糀」(こうじ)などが、馴染み深い国字だろう。独自のつもりが、たまたま中国にも存在する漢字であったり(たとえば「喰」=「くらう」)、見事なまでに整然とした体系を成していたり(たとえば「粍」=1mm、「糎」=1cm、「籵」=10m、「粨」=100m、「粁」=1000m=1km)、気ままにめくっているだけでも興味が尽きない。「俥」(「くるま」=人力車)などは、傑作に数えられるだろう。なかには、「尸」の下に「朱」を書き入れた国字もある。「尸」に「死」ならば本来の漢字「屍」(しかばね)だが、「死」ではなく「朱」を入れると、何と読み、どのような意味になるのか。御関心のある向きは、自らお調べいただきたい。

しかし、優れた『国字の字典』とはいえ、時に目を疑うような記述もある。論より証拠、次の字句を御覧いただこう。紛れもなく、同字典に記されている[解説]である。常用漢字から外れているため、今、国字それ自体の字形は示せない。解字もどきの説明でお許しを請う。念のため、ページ数を添えておこう。

○「艹」冠ノ下ニ「氵」+「朋」 【加波志久佐】〔新撰字鏡・和字〕
[解説]どんな草だったろうか。(p.102上)

○「艹」冠ノ下ニ「貫」 【ツ良奈久佐】〔新撰字鏡・和字〕
[解説]どんな草だったろうか。(p.102下)

○「虫」扁ノ右ニ「走」 【奴弥】〔新撰字鏡・和字〕
[解説]どんな虫か。(p.108下)

なかなか笑える[解説]だ。当世の若者が打つメールならば、それぞれの末尾に「(笑)」と添えるところではなかろうか。

まずは、[解説]と銘打ちながら、まったく解説になっていないという落差が面白い。一瞬「これで[解説]と呼べるなら楽なものだ」と思わせる点が味噌である。

また、明るく正直な言葉遣いが面白い。どうしてもわからないからといって、単に「わからない」だの「よくわからない」だのと薄暗い物言いをしたのでは、読者の不信を招きかねないだろう。だからといって、気取り澄まして「不詳」やら「未詳」やらと記すのも、受け取りようによっては嫌みに聞こえる。あたかも「忘れました」と素直に認めず、「失念いたしました」と漢語や丁寧語の威力を借りて言いのがれを図るのと似たように響くからだ。それに比べると、つぶやきにも近い疑問文「どんな草だったろうか」「どんな虫か」は、あっけらかんとしたものである。こう持ちかけられると、読者としても思わず「いかなる草か」「どのような虫か」と一緒に考え込んでしまうのではないか。

さらには、「どんな草だったろうか」が醸し出す微妙なニュアンスも面白い。「どんな虫か」は、単純な疑問文だ。けれども、「どんな草だったろうか」のほうは、「だった」が効いている。「以前はわかっていたのだが、今は忘れてしまった(のでわからない)」との意にも聞こえるし、「当時は生息していたのだが、今やすでに絶滅してしまった(のでわからない)」との意にも響く。こうした揺らぎも読者を面白がらせるのである。執筆者がそのような効果を意図していた可能性は零だろうが。

むろん、ここで労作と称すべき『国字の字典』の粗探しに及ぶつもりはない。草や虫に関する私自身の知識とて貧弱もよいところ、「加波志久佐」「ツ良奈久佐」「奴弥」の読みを、それぞれ「カバシグサ」「ツラナグサ」「ヌミ」かと見当をつけるのが関の山。かろうじて、出典の『新撰字鏡』(900年ごろ)が和訓を持つ現存最古の漢和字書だと知るのみだ。

事の本質は、当該三字が草や虫を表すために造り出された国字だという点にある。こうした草や虫が中国に存在しなければもちろんのこと、たとえ中国に存在したとしても、それらを表すのがどの漢字なのかを正確に同定するのは難しい。実際に草や虫を手に取って目を凝らさなければ、日本の物と同じかどうか、まったくわからないからである。となれば、自ら漢字を造り出すしかないだろう。しかも、それを記した『新撰字鏡』以来、すでに経ること一千年以上、今日とは異なり、映像を収める記録媒体など思いも寄らぬころの話となれば、もはや何の手かがりもなし。説明しようにも説明のしようがないわけだ。

一見、[解説]としては滑稽このうえない「どんな草だったろうか」「どんな虫か」は、文字どおり已むを得ざる仕儀なのである。花鳥草木あるいは鳥獣虫魚の類には、この種の問題が常につきまとう。梅は、稀に見るほど幸運な木なのかもしれない。日本にはなかった中国原産の梅が、樹木ゆえに舶載が可能だったのか、そのまま日本に伝来し、もとは中国語の発音のはずの「ウメ」が長きにわたって用いられた結果、後代に流入した中国語の発音「バイ」と対立して、今日では「バイ」が音読み、「ウメ」が訓読み「うめ」と感じられるにまで至ったのだから。

「いろんな意味がありますよ」

もう一つ、笑うに笑えぬ辞書の字句を紹介しておこう。それは漢文の置き字「焉」に関する記述である。

置き字の「焉」は始末が悪く、同じく置き字の「矣」に比べても、どのような語気を表すのか、今一つ判然としない場面が多い。「矣」は〈完了〉または〈断言〉で片付くことが多いが、「焉」はわかりづらく、特に漢文学習の初心者に対して解説するのは困難をきわめる。私自身も、この数年来、教室で「〈矣〉はスパッと切る感じ、〈焉〉はグッと押さえる感じ」なぞと曖昧な説明を繰り返しているのが実情だ。

そこで、当然のことながら、辞書の記述を参考にしてみようと思い立つわけだが、豈に図らんや、中国系の辞書は置き字「焉」について素っ気ないことが多い。事が置き字「焉」に関わる以上、語気の問題が中心になるので、中国人がどのような語感で受け取るのか、ぜひ参考にしたいと考えるものの、ろくに説明がないのが通例である。

最大の規模を誇る『漢語大詞典』でさえ「語気詞。表示停頓(=休止 pause を表す)」と記すだけ。何かと便利な『古漢語常用字字典』(商務印書館、1979年/第17版=1989年、北京)も、同じく「語気詞」で終わりである。むしろ英語による解説のほうが明確かと思って呉景栄[主編]『漢英辞典』(北京外国語学院、1978年、北京/商務印書館、1981年、香港)を調べてみても、単に略号〈助〉(=助詞)を記して例文を掲げるにすぎない。

そこで、小型の辞典ならば語義を簡潔に記すしかないため、かえって基本的な意味合いを知るには便利かと考え直し、梁実秋[主編]『遠東袖珍英漢・漢英辞典』(遠東図書公司、1981年/第3版=1985年、台北)の《漢英辞典》の部を引いたところ、これには失笑した。置き字「焉」について、英語で次のような解説が記されているのである。

焉 a final particle indicating numerous senses. (p.313r./ no.3204)

訳せば「多数の意味を示す終尾詞」となろう。要するに「いろんな意味合いを表しますよ」と言っているわけだ。小型の辞書ゆえに紙幅に制約があるのはわかるが、よくもまあ、このような説明を辞書に載せたものだ。置き字「焉」に種々の意味合いがあるのは先刻承知のこと。具体的にどのような意味があるのか知りたいと思って調べたのに、「さまざまな意味がございます」とだけ言ってすませるのだから、ほとんど喜劇である。

置き字「焉」は、とにかく厄介だ。そもそも、文末に位置していても、代名詞として「これ」と読むのか、前置詞「於」と指示代名詞「此」を兼ねる語と見なして「ここに」と訓ずるのか、はたまた置き字として読まずにすませるのか、どうにも釈然としないことが多い。たとえ置き字だろうとの見当がついても、いざどのようなニュアンスかとなれば、おいそれとは確定しづらいのである。布施郁三『中国古典に於ける矣・焉の解釈』(鷹書房、昭和57年〔1982〕/改訂第2版=昭和59年〔1984〕)のごとく、「焉」に時制として〈継続・進行〉、判断として〈推量〉、意欲として〈願望〉の意味を認めれば、なかなかきれいな整理が可能だが、今のところ、そこまで割り切る勇気は持てない。

「焉」のニュアンスについては、総じて日本人のほうが神経質だと言ってよいだろう。たとえば、天野成之『漢文基本語辞典』(大修館書店、平成11年〔1999〕)は、置き字「焉」の意味合いを〈断定〉〈継続〉〈完了〉〈推量〉〈意志〉〈命令〉〈願望〉〈疑問〉〈反語〉〈仮定〉〈語調を整える〉の十一種にも分類している(pp.37-38)。これはこれで貴重な説明だが、最後に〈語調を整える〉という項目があることから察せられるように、ニュアンスを把握しづらい場合があるのも事実で、果たして当該十一種の意味合いが截然と分かれるものなのか、何とはなしに懸念が残るのも否めまい。

そうだとすれば、上に引いた「いろいろな意味があります」式の釈義も、安易な字句として俄かには踏み倒せないだろう。文章によってさまざまな意味になるのが事実ならば、取り敢えずは多義性のみを認識しておき、あとはそれぞれの文章ごとに自らニュアンスを把握しにゆくのが最も実用的な方針だとも言い得るからである。

「君子」を「クンこ」と読むのも、草や虫を「はて何でしたかな?」と言うのも、そして置き字「焉」の意味合いを「あれこれございますよ」ですませるのも、ちょっと見には一席の笑い話である。しかし、少し足を止めて考え直せば、決して笑いっぱなしではすまされまい。一見つまらぬ笑い話でも、無条件には笑えない場合があるものだ。

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