ことばと文化のミニ講座

【Vol.53】 2011.1   服部 裕

クリント・イーストウッドの偉業

イーストウッド作品の持続性

1930年5月生まれのクリント・イーストウッドは、2010年の昨年満80才になった。しかしその制作意欲はまったく衰えを知らず、今世紀に入ってからも主なものだけでも『ミスティック・リバー』(2003年)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)、『父親たちの星条旗』(2006年)、『硫黄島からの手紙』(2006年)、『チェンジリング』(2008年)、『グラン・トリノ』(2008年)そして『インヴィクタス』(2009年)と数多くの話題作を制作している。

もちろんイーストウッドの偉大さは、ただ単に多くの作品を完成させてきたところにあるのではなく、多産の作品の多くが傑作であるところにある。しかし、こんなことは全く以て言わずもがなのことであるから、改めてそれを指摘する価値などないと言ってもよい。

以上のことを分かった上でわたしが指摘したいのは、イーストウッドの作品群がテーマの一貫性を維持しながら、それと同時にそのテーマを深化させてきたこと、さらにはそれをさまざまなモティーフと表現スタイルを駆使して他に類を見ない表現に結びつけてきたことである。このことは、イーストウッドがまだ役者としてだけ制作に携わった『ダーティ・ハリー』(1971年)など、比較的初期の作品についても当てはまる。

テーマの一貫性:「孤独」と「愛」

イーストウッドのテーマの一貫性は、人間の孤独を描きだすところにある。これは極論すれば、マカロニ・ウェスタン(イタリア製アクション西部劇)の『荒野の用心棒』(1964年)の時代から変わらないイーストウッドの映像表現の核のようなものである。

しかしイーストウッドの場合、人間の孤独は他者と関わる意志、あるいは関わらざるを得ない状況の中でこそ際立った光を放つ。不敵な表情で殺人犯を追いつめるハリー・キャラハンは、自らの内面に殺人犯の暗部を感じ取らざるを得ない刑事ブロック(『タイトロープ』[1984年])や、生活苦から賞金稼ぎのために娼婦たちを救う元ガンマンのマニー(『許されざる者』[1992年])と同じ孤独の淵に佇んでいる。もちろんその孤独は失意のマギーを看取る老ボクシング・トレーナーのフランキー・ダン(『ミリオンダラー・ベイビー』)や、隣家のモン族の少年タオを救う頑固者のコワルスキー(『グラン・トリノ』)が振り払うことのできない孤独と同質のものである。そして、イーストウッドの主人公たちの孤独は、彼らが関わる人間を愛すためには不可欠の前提である。いやむしろ、彼らが孤独だからこそ他者への「愛」を実現することができるのかもしれない。

しかし、彼らの「愛」のあり方と意味はさまざまである。文字通り一人の人間を愛する愛があれば(『マディソン郡の橋』[1995年])、社会正義を貫くための「愛」もあり(『ダーティ・ハリー』、『ペイル・ライダー』[1985年])、窮地に陥った人間の尊厳を守る「愛」もある(『許されざる者』、『ミリオンダラー・ベイビー』、『グラン・トリノ』)。言うなれば、「愛」とはいずれの形にせよ他者を思い、他者のために生きることを意味する意識と行為であり、自分を生かすための「愛」ではない。それは、最終的には(自己否定という言葉がネガティブすぎるのであれば)自己を犠牲にする「愛」である。だからこそ、イーストウッドの主人公たちは、自らを突き放すように孤独の中にいつづけることでしか、他者への「愛」を実現することができないのだ。

とは言え、孤独であることはすでに見た通り他者と絶縁することではないし、孤立することでもない。逆説的だが、孤独という自らの弱さや無力感を確認できる場所にいつづけるからこそ、他者のそれへの共感が可能となるのである。この「孤独」と「他者への共感(愛)」こそが、どのような役柄を担わされていようが彼らに共通する状況と性格である。

「ネガティブ・ヒーロー」

苦境に陥った他者を救済することは、ハリウッド映画にとって伝統的テーマそのものであり、少しも目新しいテーマではない。所謂「正義の味方」としてのヒーローである。イーストウッドも、一見そうした伝統的な「ポジティブ・ヒーロー像」を継承しているかのようにみえる。マカロニ・ウェスタンは別として、92年の『許されざる者』までウェスタンというジャンルを断続的に採用したのは、イーストウッドが決してハリウッド映画を否定したり、忌避したりしたのではないことを物語っている。むしろ、他の監督たちが70年代以降ウェスタンというジャンルをほぼ捨て去ったことを考え併せれば、イーストウッドはむしろハリウッド映画の伝統に忠実であろうとしたとさえ言える。

それにも拘らず、イーストウッドが30年代から60年代初頭までのハリウッド映画の伝統的ヒーロー像を継承しようとしたと考えるのは妥当ではないだろう。なぜならイーストウッドは、アメリカの理想を定型的かつ単線的に体現したH.フォンダやG.クーパー、あるいはJ.ウェインなどとはまったく異質の「ヒーロー像」を創ることに専念したからである。

『許されざる者』のマニーはハリー・キャラハン警部と同様に、やむにやまれず悪を倒す「ヒーロー」を演ずる宿命に追い込まれる。しかし、娼婦を救ったあげくにマニーは蘇った冷徹な殺害の様故に、彼女たちから感謝されることすらない。彼には、一度払拭しようとした人殺しのガンマンという汚名を甘んじて受け入れる道しか残されていない。それは犯人を捕まえても違法手続きだとして釈放されてしまうキャラハンが、最後は犯人を自らの手で始末してしまうのと同じくらい「ダーティ」な存在であるのと同質のものである。

つまり、ハリウッド映画の伝統を継承したイーストウッドが提示する「ヒーロー」は、誰にも認めてもらえず、誰にも愛されない「ネガティブ・ヒーロー」なのである。それは、まさにベトナム戦争期以降のアメリカそのものであるという意味で、イーストウッドは誠にアメリカ的なのだ。

現実のアメリカは80年代になると、『スターウォーズ』的な「ポジティブ・ヒーロー像」を一見取り戻したかのように見えたが、世界はアメリカを決してそうは見ていなかったし、実際汚れたヒーローにすぎなかった。イーストウッドのすごさは、それを看破したかのような「ネガティブ・ヒーロー像」を90年代まで描き続けたことにある。

テーマの深化:「アンチ・ヒーロー」へ

21世紀になってからのイーストウッドの作品は、明らかにそのテーマを深化させる。『ミリオンダラー・ベイビー』の老ボクシングトレーナー・ダンは、身体の自由をまったく失ってしまった孤独なマギーを救うために、尊厳死という究極の選択を実行する。ここには、ネガティブであるが誰か他者を生かすという、それまでのイーストウッドの「ネガティブ・ヒーロー」とは一線を画す、より深刻な人間像が描かれている。それは自ら「悪」を引き受けるという意味では、それまでの「ネガティブ・ヒーロー」と同質ではあるが、愛する者を生かしえないという意味でより峻厳な否定的性格を帯びている。あたかも、どのような些細な意味であってもヒロイックな要素は回避しなければならないと宣言するかのようである。その意味で、この作品はイーストウッドのテーマが「ネガティブ・ヒーロー」から「アンチ・ヒーロー」へと移行する画期的な作品であると言える。

イーストウッドがヒロイズム(英雄主義)を否定することに本格的に取り組むのは、第二次世界大戦期の硫黄島の攻防を描いた『父親たちの星条旗』においてである。この作品は「ヒーロー」として仕立て上げられることに自ら抵抗し、実際にその後まったく「ヒーロー」とは無縁の生き方を選択する三人の兵士たちを描いている。「ヒーロー」として扱われるのを頑なに拒否する者、忘れられた「ヒーロー」として望んだ職にもありつけない者、そして「ヒーロー」にはあり得ない野たれ死に追い込まれる者の姿を描いている。「ヒーロー」とは戦時国債販売の広告塔であり、戦争が終われば何の意味もない名もなき存在だ。イーストウッドはそれを憂えているのではなく、そもそも国家に殉ずる「ヒーロー」など権力にでっちあげられた偶像にすぎないこと、だからこそ自らの役割を果たしきって去って行く個別の人間にこそ価値を認めるべきであると、静かに語っているのである。

この「アンチ・ヒーロー像」は、戦争のような極限状況だけに関わりを持つものではない。そのことを見事に映し出したのが『グラン・トリノ』である。『グラン・トリノ』の主人公コワルスキーはフォードの元職工で、TOYOTAに唾棄する典型的な保守的ヤンキーである。妻に先立たれ、子供の家族とも理解し合えない文字通り孤独なその老人の隣家に、東南アジア系のモン族の家族が住みつく。『グラン・トリノ』は民族差別の態度を隠さない老人が、隣家の少女スーとその弟のタオを、彼らの同郷人であるストリートギャングから救う物語である。他のすべての傑作映画と同様に、この映画は予想できないハッと息を飲むような感動的なエンディングで本編の幕を閉じる。

あえてその結末について語ることは控えるが、そのエンディングはまさにイーストウッドが模索してきた、所謂歴史的英雄像とは無縁の領域で、真に他者を生かすために自らを犠牲にする人間の「愛」を、いかなる虚飾も衒いもない、ある種この世の境地をこえた(シーンは激しい銃撃の嵐であるが)静けさの中で語り尽くしている。明らかにこの作品で、イーストウッドは他者のために戦う新しい人間の姿を描ききっている。それは、ハリー・キャラハンやマニーのように自らの正当性を否定しながらも他者のために尽くす「ネガティブ・ヒーロー」でもなく、また老トレーナー・ダンのように自ら「悪」の行為を引き受けて他者の安寧を願う「アンチ・ヒーロー」でもない。もっと静かな、真の自己犠牲の上に立つ「アンチ・ヒーロー」である。

さらなる深化:そして、「赦し」の境地へ

冒頭でも述べたとおり、イーストウッドは昨年80才になった。役者としては演じる役がかなり限定される年齢である。本人も言っている通り、イーストウッドは自分が出るべき役がない限り、もはや役者としては登場しない。だからこそ『グラン・トリノ』で実年齢と同じ役柄で、役者としてもあれだけの傑作を残したイーストウッドはすでに映画史上稀代の名優であり、名監督である。

私は正直言って、『グラン・トリノ』の後、イーストウッドがそれをこえる作品を制作することは不可能ではないかとさえ思った。そのくらい、『グラン・トリノ』はほぼ完璧な最高傑作だった。ところが、『グラン・トリノ』の一年後、このとてつもない映画作家はこれまでのモティーフとはまったく異なる、しかも究極的とも思われた自己犠牲の「アンチ・ヒーロー物語」とはまったく別種の作品を世に問うたのだ。

その映画は『インヴィクタス』である。この作品はもちろんこれまでの作品と同じテーマの系譜にある。つまり、テーマは「孤独」と「愛」の描写に収斂している。しかしこれまでの作品と決定的に異なるのは、そのモティーフ、あるいは語りの視点のあり方である。これまでのイーストウッド作品は、ネガティブであれアンチであれ、自らを犠牲にして自らの力で他者を救う、ある意味強い人間の物語だった。それに反して、『インヴィクタス』の主人公は自らが理不尽な権力の犠牲者であり、自らの運命を自身の力だけで超克せざるをえなかった人間である。差別と虐待の犠牲となった孤独な人間が示す「愛」、これはそれまでのイーストウッドの主人公たちが他者に向かって発した「愛」とは異なる新しいものである。そして、イーストウッドが描こうとしたのは、自らの苛酷な運命を超克する主人公のヒーロー的な姿ではなく、その後の主人公の思慮深く穏やかな姿なのだ。

主人公の南アフリカ大統領マンデラは、自らに災厄をもたらしたかつての権力者とその同調者たちに対して報復ではなく「赦し」を与えることで、他者への究極の「愛」を実行するのである。現実のマンデラがそうであったかどうは、大した問題ではない。イーストウッドが描く「マンデラ」という人間は、私たちすべての人間が持つべき、また持ちうるかもしれない至上の「愛」、つまり他者への「赦し」を体現しているのである。

『グラン・トリノ』のコワルスキーが、あたかも十字架のキリストのごとく自らを犠牲にする絶望的な「愛」を示している延長線上に、『インヴィクタス』のマンデラは、あたかも復活したキリストがすべての人間を「赦す」かのような「愛」を示すのである。

『インヴィクタス』をこえる作品をイーストウッドは今後創作できるのだろうか?!私は『インヴィクタス』を観た直後、『グラン・トリノ』を観たときと同じ、しかし確実に異なるより幸福感に満たされた感動を覚えた。なぜならこの作品はこれまでのネガティブな性格の作品になかった、この上なくポジティブな性格を備えた映画だったからである。

今回もまた、イーストウッドは私の期待を見事に裏切ってくれるかもしれない。そう、さらに新しい驚きを世界に与えてくれるかもしれない。いずれにしても、イーストウッドは映画史上類い稀な偉業を達成した映画人である。

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