ことばと文化のミニ講座

【Vol.36】 2009.4   三橋 正

日本最古のアンケート? ー『諸社禁忌』についてー

〈『諸社禁忌』の存在〉

『諸社禁忌』という本があります。文字通り、もろもろの神社の禁忌(きんき、タブー=禁止事項のこと)について書かれた本ですが、これまであまり重視されてきませんでした。『続群書類従』の中に載録されており、活字でも読むことができます。ここでは、三重県伊勢市にある神宮文庫というところの写本が古いようなので、それに基づいて考えていくことにしま しょう。この写本は、もと巻子本(かんすぼん、巻物のこと)であったのを、今は5つの部分に分けて大切に保存されています。書写された年代はわかりませんが、書いているうちに紙が足りなくなったようで、途中からは裏側に書かれています。

〈『諸社禁忌』の構成と内容〉

『諸社禁忌』という本は、前半と後半に分かれます。前半には、15の禁忌について「どこの神社では何日」という形で参詣してはいけない日数が示されています。後半は逆に、 神社ごとに項目が立てられ、それぞれの神社について、まつられている神様の本地(ほんち、もとの正体となる仏様のこと)、用意する捧物(ささげもの)の数・精進(しようじん、潔斎のこと)しなければならない日数、そして先の15の禁忌の日数などが示されています。そして、前半の禁忌に関する15の項目が、後半の最後の禁忌に記された小項目と一致していることから、後半が先に成立し、その「禁忌」に関する部分のみ再編集されて前半が成立したことがわかります。

 取り上げられた神社の数は21。伊勢(いせ)神宮を筆頭に、石清水(いわしみず)八幡宮、賀茂(かも)社など、平安時代に朝野の崇敬を集めた有名大社が並びますが、中には広田(ひろた)社の南濱宮(恐らく現在の西宮(にしのみや)神社)や、金峯山(きんぷせん、奈良県吉野)・熊野(くまの、和歌山県)など神仏習合(しんぶつしゅうごう)的な霊場も含まれています。どうも国家の行事のために作られたのではなく、個人的に参詣をするためのマニュアル(指南書)として作られたようです。

 後半の部分の書き方はすべて統一されています。一例として、稲荷(いなり、現在の伏見稲荷大社)のところを見てみましょう。

稲荷〈神主秦清賢、之を注す。〉

本地〔下宮〈如意輪〉 命婦〈文殊〉 田中〈不動〉 中宮【普賢・毘沙門】 黒尾〈弥勒〉 上宮〈聖観音〉 小薄〈普賢〉〕

幣本数〈六本〉

精進日数〈三ヶ日〉

禁忌

産穢〈卅ヶ日〉
死穢〈五十日〉
触穢〔甲乙は、本所の日数に随ふべし。〕
服假〔重服一年。軽服の假の日数、之を憚る。〕
五体不具〈七ヶ日〉
失火〈三ヶ日〉
傷胎〔三月以前は七ヶ日。四月以後は卅ヶ日。〕
妊者〈着帯以後、之を憚る。夫、之に同じ。〉
月水〔始まる日より十ヶ日以後に参詣す。〕
鹿食〔七ヶ日。同火、食の間は七十日、止む後は七ヶ日。〕
蒜〔付(つけたり)、同火、七ヶ日。生は卅ヶ日、干は七十日。〕
薤〈七ヶ日〉
葱〈七ヶ日〉
六畜産〈三ヶ日〉
同死〈犬死は沙汰に及ばず。〉

神社名に続いて、誰が注進したかが明記され、祭神ごとの本地仏(稲荷は三つの山からなる)、捧物としての幣串(へいぐし)の数(六とあるが祭神の数となぜか一致しない)、参詣前に必要な精進日数(三日とされる)、最後に15の禁忌への対応が細かく書かれています。禁忌について少し解説すると、「産穢」とは出産に関わる穢(産穢)のことで、平安時代の朝廷(国家)による規定(『延喜式』)では7日間でよかったのが、30日になっています。「死穢」は死者が出たときの穢で、30日だったのが、50日になっており、禁忌の日数が増えています。「触穢」は、それらの穢が伝染することで、発生場所の「甲(A)」から「乙(B)」、さらに「丙(C)」までいきます。「服假(暇)」は喪服。「五体不具」は、死体の一部だけが発見された場合。「失火」は火事。「傷胎」は流産のことで、妊娠三ヶ月ならば7日ですむが、妊娠四ヶ月以降は30日とされています。「妊者」は妊婦のことで、同居している夫も参詣してはいけない、「月水(生理)」は完全に終わってから参詣するとされています。「鹿肉」や「蒜(のびる)」「薤(にら)」「葱(ねぎ)」は、食後に臭いが残ることもあって神様がいやがると考えられたのでしょう。「同火」すなわち食事を共にした人も禁忌の対照になるだけでなく、「蒜」については、生で食べる(30日)よりも干して食たべる(70日)方が重く扱われています。最後に「六畜(家畜)」の出産と死の穢がありますが、犬の死穢は問題とされていません。稲荷は山の中にまつられていますから、犬の死骸など気にしていられなかったのかも知れません。

〈アンケートによる神社参詣のマニュアル作り〉

他の神社についても、すべて同じ項目が記載されていますが、なぜか最後の「金峯山」だけは項目名だけで禁忌の内容などが記されていません。きっと、21の主要な神社にアンケート(質問票・調査カード)を送って調査したけれども、金峯山だけは回答が返ってこなかったのでしょう。そのアンケートを現代風に復元すると、次のようになるでしょうか。

質問票・調査カード

このようなアンケートが送られてきた神社は、神主(かんぬし)など責任ある立場の者が回答をしたようですが、中には広田社・濱南宮のように神主と巫女(みこ)による複数の回答が記されているのもあります。そして各神社で回答した人物を調べると、すべて稲荷社の秦清賢と同じ時代に活躍しており、そこから本書の成立過程が明らかになります。おそらく、建久二年(1191)以前に配られたアンケートにもとづいて、建保二年(1214)」までに編纂されたと考えられます。これは鎌倉時代の初期で、京都では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が院政をしていた時期にあたりますが、回答者(勘申者)について明らかでない神社も多いことなどから、上皇(朝廷)や将軍(幕府)のような最高権力者(行政)の命令で編纂されたのではないようです。確実なことはいえませんが、京都の貴族の誰かが作らせたのではないかと思います。

〈なぜ、アンケートによるマニュアル作りが必要だったのか?〉

ここから、当時の人々の神社に対する信仰の実態が見えてきます。神社に参詣して神様を拝むにも、仏教(本地)との関係を知っておかないといけないほど、神仏習合が進んだ時代でした。おまつりされている神様の数も重要で、簡単にお賽銭(さいせん)を入れてすますわけにはいかなかったのです。潔斎のことを、仏教の用語である「精進」といっていることも、神祇信仰が仏教信仰と深い関係にあったことを物語っています。何より重要だったのが、書名にもなった「禁忌」の問題であったことは、いうまでもありません。

 しかし、アンケートという形式は、極めて特異です。後の時代では、神社ごとに「服忌令(ふっきりょう)」というものが作られていきますが、それらが取りまとめられるのは、唯一神道(ゆいいつしんとう、吉田神道ともいう)を創始した吉田兼倶(よしだかねとも)(1473~1511)による『神道服忌令』までありませんでした。実に、『諸社禁忌』から250年以上の年月が過ぎているのです。  さかのぼって古代の律令国家は、『風土記』撰述のために報告書を提出させたり、寺院の歴史や財産を把握するために『縁起并流記資財帳(えんぎならびにるきしざいちょう)』を作成させたりしていますが、一定の書式をもったアンケートというのは、例がありません。恐らく『諸社禁忌』を作るためになされた、これが最初でしょう。

 また、神様を信仰する際に問題となる「禁忌」がクローズアップされている点も重要です。穢(けがれ)をはじめとする神祇信仰上の禁忌は、『延喜式』という法律書(施行細則(しこうさいそく))に規定され、朝廷(国家)によって一元的に管理されていたのです。それが、平安時代末(院政期)に、神社への参詣をすることが貴族社会で一般的となると、神社ごとの違いが気になってくるのです。『諸社禁忌』は、まさに「神社」が独立した勢力となり、信仰の中核として機能した時代の産物なのです。言い換えると、古代から中世へと時代が変化していく中で、神祇信仰(神様の拝み方)も変わってきて、それに対応するためのマニュアルが必要となり、アンケート形式による調査がなされたのです。ですから、このマニュアルには、当時の人々の神様への複雑な想いが込められているともいえるでしょう。

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