ことばと文化のミニ講座

【Vol.27】 2008.5   三橋 正

平安時代の漢文日記ー『小右記』を読むー

〈女性の日記と男性の日記〉

平安時代の日記というと、藤原道綱母の『 蜻蛉 かげろう日記』、紫式部の『紫式部日記』、菅原孝標女の『 更級 さらしな日記』など、女流作家による仮名の日記が有名です。でも、正確にいうと、それらは回想録であり、毎日の出来事を記す「日記」ではありません。そこで思い出していただきたいのが、紀貫之の『 土佐 とさ日記』の冒頭です。著者は男性ですが、女性になりきって「男もすなる日記」を書くと宣言するのです。実は、平安時代の「日記」のほとんどが男性のもので、それは仮名ではなく漢文で書かれていました。漢文で日記を付ける習慣は、天皇や摂政・関白にもあり、何と江戸時代まで貴族(公家)社会で続いたのですから、驚きですね。

〈古文書と古記録〉

漢文で書かれた日記のことを「 古記録 こきろく 」といいます。古い文献はなんでも「 古文書 こもんじょ」と一括されることもありますが、厳密にいうと誤りです。「文書」は、差出人がいて、受取人がいるもの。いわゆる手紙などです。それに対して「記録」は、広義には回想録・物語・紀行・訴訟文書・儀式書・目録・編纂物などを含めますが、狭義には毎日の出来事を記した日記のことを指すのです。日記とは、自分が見たり聞いたり、経験したことを、後日の参考・備忘のために書き残したもので、皆さんの中にも付けている方がいるでしょう。

ただ、平安時代に男性が日記を付けた理由は、少し違いました。先ず、各役所で公的な記録としての日記(公日記)が付けられるようになり、それから個人の日記(私日記)が書かれるようになったのです。ですから、個人の日記が「公」的な意味を持って伝承されて、現在にもたくさん残されているのです。

日記は書く人(記主といいます)によって相違が生じ、時には歪曲・潤色や過誤もあり、真実のみが記されているわけではないと考えるのが普通です。しかし、貴族社会における漢文日記(記録)は、先例(前例)を最も重視する中で、自らも先祖の日記を参照・書写し、後世において自らの日記もそうされることを強く意識して書かれていたので、虚偽の記載は非常に限定的で、 信憑性 しんぴょうせいの極めて高い史料とされるのです。

〈漢文日記の書き方と保存〉

日記は、 具注暦 ぐちゅうれきという巻物のカレンダーに書かれました。具注暦には、その日その日の吉凶が記されていましたから、貴族は毎朝それを見て一日の運勢を確認し、それから前日の出来事を日記に書いていたのです。今でも十一月頃になると、本屋さんに、翌年のカレンダーと日記帳のコーナーができますね。

平安時代の具注暦に書かれた日記として、藤原 道長 みちなが(966~1027)の日記『 御堂関白記 みどうかんぱくき』が近衛家の 陽明文庫 ようめいぶんこに保存されています。もちろん国宝です。道長といえば、今から1000年前の日本の最高権力者ですから、その日記の現物(自筆本)が残っているのはすごいことですね。

でも、ほとんどの日記は、現物(自筆本)で保存されてません。後世の人々によって写された写本の形で伝えられたのです。コピーのない時代に、筆で膨大な量の日記を写したのですから、こちらの方がもっとすごいことなのです。それだけ日本文化の中で漢文の日記が大切にされていたといえます。

〈日記の名称〉

道長と同じ時代の日記で、最も有名なのが『 小右記 しょうゆうき 』です。「 小野宮殿 おののみやどの 」に住んで「右大臣」まで出世した藤原 実資 さねすけ (957~1046)の日記なので、その「小」と「右」をとって『小右記』というのです。右大臣のことを「 右府 うふ 」ともいうので、別の名称で『 野府記 やふき 』ともいいます。また、祖父(養父でもある)実頼の日記を『水心記』というので、『 続水心記 ぞくすいしんき 』なんていう言い方もあります。このような日記の名前は後世の人が付けたもので、実資本人は「暦記」などと読んでいました。やっぱり暦に書いていたのですね。

そもそも自分の日記に名前を付ける人はほとんどいませんから、後世の人が区別しやすい名称を付けたのです。特に漢文の日記は公的な扱いをされたので、記主の家や身分を示す官職の字が付けられたのです。同時代の日記では、藤原 行成 ゆきなり の『 権記 ごんき 』(最高官職が権大納言だった)、源 経頼 つねより の『 左経記 さけいき 』(長く 左大弁 さだいべん を勤めた)などがあります。

〈『小右記』の内容と語法〉

実資は、20歳の頃から60年以上にわたって日記を付けていました。しかも、その日の出来事を詳細に。1日の記載が2000字を超えることも珍しくありません。漢文で毎日これより長い文章を書いていたのですよ。全部が残っているわけではありませんが、摂関期、道長による国風文化の全盛期における政治・社会・文化・生活などを知る、第一級の史料とされています。

『小右記』の中でも特に寛仁2年(1018)10月16日条は有名で、栄華の絶頂にあった藤原道長が三女 威子 いし 後一条 ごいちじょう天皇の皇后とした 立后 りつごうの儀を記し、夜の宴席で道長が酔った勢いで詠んだ「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌を伝えています。その他にも、道長一家への批判や無能な貴族を罵倒する詞あると思えば、自分の政治や儀式運営の能力を自賛したり、愛娘を溺愛する様子が描かれていたり…、とにかく興味深い記事がいっぱいなのです。

けれども、大変残念ながら、簡単には読めません。「変体漢文」とも呼ばれる日本の古記録特有の漢文体で書かれているからです。例えば、会話や手紙の内容を、「○○云(いはく)」で書き始め、「者(てへり)」で区切ります。それをカギカッコ(「 」)でくくっていくとわかりやすくなるのですが、区切りがなくてわかりにくいこともあります。また、自分のことは「 下官 げかん」「 小臣 しょうしん」という一人称を使いますが、他人の会話文の中でも実資を指す語として使っているように、現代の感覚と違うことが多いのです。

それでも平安時代の情報を生で伝える『小右記』は、魅力満載。授業で取り上げると、はまって抜けられなくなる人が続出しています。貴方も一緒に読んでみませんか?

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