ことばと文化のミニ講座

【Vol.3】 2004.12   古田島 洋介

英和辞典の理解には漢文が必要だって?

みなさんが英語を勉強するとき、英和辞典を手放すことはできないと思います。ときどき「いくら英和辞典を引いても、英語がわかるようにはならない。英英辞典を使わなければいけない」と言う人に出逢いますが、そのような発言をする人は、かなり英語が上達し、ようやく英和辞典の欠陥がわかるようになったから言うのであって、まだ英語力が足りないうちは、かく言う御当人も英和辞典と首っ引きで勉強していたに決まっているのです。今なお英語の基礎を勉強中のみなさんが英和辞典を一生懸命に引いて学習するのは当然のこと、いずれ英英辞典だけを使って英語が読めるようになるよう、とにかく学習を進めていくしかありません。

ところが、英和辞典は、英英辞典と異なり、英語を日本語で解説してあるのだから楽なものだ、と思ったら大間違いです。たいていの字句は簡単にわかるでしょうし、また、わからなくては辞書の用をなしません。けれども、解説に見える一部の字句は思いのほか奧が深く、なんとなくわかったような気になっているだけで、よくよく考えてみると、きちんと理解できていないこともあるのではないでしょうか。

英和辞典の不可解な説明

たとえば、携帯版『現代英和辞典』(研究社, 1976)は、手軽な厚さにしては収録語彙が豊富なため、今なお私が座右に置いて愛用している辞書ですが、wh- で始まる関係詞の類を引いてみると、次のような解説が付いています。正直なところ、一瞬ピンと来ない解説ではないでしょうか。

what[関係詞]

★日本語では「私の言うこと」のように動詞が名詞につながるから関係詞がいらない;「私の言うところのこと」などは直訳体。

which[関係詞]

★日本語では「選んだ本」と動詞が名詞につながるから関係詞不要;「選んだところの本」などとするのは直訳体。

who[関係代名詞]

★日本語では「本当のことを言う人」と動詞が名詞につながるので関係詞不要;「言うところの人」などは直訳体。

まず★の直後に見える解説の前半ですが、日本語で関係詞が不要なのは当然の話で、なんだか腑に落ちない印象です。そもそも、英和辞典なのですから、英語の説明をしてくれれば十分、日本語には関係詞がいらないと言われても、いったい何が言いたいのか、余計なお世話としか受け取れないでしょう。

さらに奇妙なのは、それぞれの解説の後半です。等しなみに、〈「…ところの~」などは直訳体〉と記してありますが、これはいったいどういう意味なのでしょうか。みなさんが what や which や who などを訳すとき、「…ところの~」などと訳すはずはないでしょう。しかも、それが「直訳体」だと非難しているような書きぶりなのですから、ますます当惑するばかりです。日本語として不自然な和訳を「直訳」と呼ぶのでしたら、たしかに「私の言うところのこと」も「選んだところの本」も、そして「言うところの人」も、すべて「直訳体」だと言えるでしょう。けれども、なぜこうした拙劣な和訳をわざわざ記し、それを直訳体とけなしてみせる必要があるのか。みなさんの目には不可解な文字としてしか映らないでしょう。

しかし、この辞書の解説は、現代に生きる我々にとってはいかに奇妙に見えようとも、歴史をさかのぼってみれば当然にして自然な話なのです。それは日本人の英文解釈の歴史に関わる事柄にほかなりません。

漢文式英文解釈

*『仮名附英学階梯』(翰林堂, 明治?年)pp.15-16
*『仮名附英学階梯』
(翰林堂, 明治?年)pp.15-16

明治の初めに英語を学び始めたとき、日本人がどのように英文に立ち向かったのかというと、実は漢文と同じように扱ったのでした。明治の人々は漢文がよくできたからです。具体的に言えば、漢文と同じく、英文にも返り点を付けて読んでいたのでした。右の写真を見てください。返り点が小さく付けてある上に印刷も薄いので、少しわかりづらいかもしれませんが、左ページ下から右ページ上にかけての一文を見やすく書き直すと、以下のような体裁になっています。返り点として付けられているレ点は、〔レ〕と示すことにしましょう。英文の下に片仮名で振ってある発音は省きます。

*『仮名附英学階梯』(翰林堂, 明治?年)pp.15-16
*『仮名附英学階梯』(翰林堂, 明治?年)pp.15-16

各単語に付された訳語をレ点で返りながら読んでいけば、次のようになります。

若(モ)シ予(ワ)レ東ニ向ヘバ、予(ワ)ガ右ノ手ハ南デ有ル、而(シカシ)テ予ガ左ハ北デ有ル。

明治初期、日本人はこんなふうに英文を解釈していたのです。

ところが、返り点を付けるやり方は、すぐに限界に達してしまいました。簡単な英文でも返り点が付けられない場合があるからです。次の英文の各単語に、訳す順序に従って返り点を打ってみてください。

What are you writing?

ふつうは「あなたは何を書いているのですか」と訳すでしょう。つまり、英語の単語に即して言えば、you→What→writing→are の順序で訳すことになります。ところが、you から What へは一二点で返れますが、次に writing から are へ返るのに困ってしまうでしょう。上下点を打つと、一二点と上下点が交錯してしまい、「上下点は一二点の外側で使う」との原則に違反してしまうからです。したがって、writing から are へ返るには、三四点を用いるしかありません。しかし、それならば、なにも一二三四を返り点として付ける必要はなく、のっけから各単語に数字番号を付けたほうが能率的なのは明らかでしょう。実際、明治の人々は、次のような数字番号を付けるようになりました。

What are you writing?

(二) (四) (一) (三)

*『英語便覧』初編(開誠社, 明治5年)p.20

関係詞は再読文字?

では、こうした数字番号を振るとき、関係詞の類はどう扱っていたのかというと、実は漢文の再読文字さながらに、二回読んでいたのです。what, which, who について、それぞれ一つずつ例文を見ていただくことにします。

*西山義行[訳]『ウヰルソン氏第二リードル独案内』(東京二書房〔三省堂・開新堂〕蔵版, 明治16年)pp.101, 72-73, 5-6. 仮名遣いは原書のまま。
*西山義行[訳]『ウヰルソン氏第二リードル独案内』
(東京二書房〔三省堂・開新堂〕蔵版, 明治16年)pp.101, 72-73, 5-6. 仮名遣いは原書のまま。

数字番号に従って読めば、第一文は「ヨキ男児ガ物〔其ハ彼等ニマデゾクシナサヌ所ノ物〕ヲ取ラヌデアロウ」、第二文は「野ノ葡萄〔其レハ森ニ於テ生スル所ノ野ノ葡萄〕ノ多分ガ酸クアル」、第三文は「汝ハ男児〔其人ハ旗ヲ持ツ所ノ男児〕ヲ見ナスカ」となります。漢文の再読文字のように扱われた what, which, who に、それぞれ「所ノ」が当てられているさまがよくわかるでしょう。「ところの」は、文字どおり関係詞の「直訳」だったのです。

これでおわかりでしょうか。上に引いた英和辞典の解説は、このような明治以来の英文解釈の歴史を踏まえ、〈かつては関係詞を「ところの」と訳していたが、本来、日本語としては不要な語である。「ところの」と訳すのは、明治以来、関係詞を再読文字のように二回にわたって読んでいた直訳方式のなごりなのである〉との意味で書かれた字句なのです。少なくとも、こう理解しなければ、どうしてあのような解説を記すのか、さっぱり意図がわかりません。

「ところの」の正体

ところで、肝腎の「ところの(=所ノ)」の正体は何なのでしょうか。なぜ、明治の人々はこのような不自然に響く日本語を関係詞に当てて読んでいたのでしょうか。

実は、この「ところの(=所ノ)」は、漢文を訓読するさいに用いられる言い回しなのです。語法としては「所+動詞+名詞」の構成をとり、前方の「所+動詞」が後方の「名詞」を修飾します。具体的には、「所」と「動詞」のあいだにレ点を打って「名詞」につなげ、「…する所の~」と訓読するのです。そんなの見たことも聞いたこともないと言うかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。「所蔵図書」「所属クラブ」などの言い方を耳にしたことのない人はいないでしょう。たとえ聞いたことがなくとも、こうした文字を目にすれば、すぐに意味がわかるはずです。我々は無意識のうちに、「所蔵」を「図書」の修飾語、「所属」を「クラブ」の修飾語と解釈し、「蔵する所の図書」「属する所のクラブ」の意味だと正しく理解しているのです。漢文が得意であった明治の人々は、このような「所」の使い方をよく知っていたため、わざわざ関係詞を再読して、関係節の最後に「所ノ」を付け、関係節全体を先行詞の修飾語としていたのです。

以上、ざっと理解できれば十分です。さっそく自分の英和辞典で what, which, who などを引き、改めて関係詞としての説明部分を調べてみてください。たぶん、訳語か解説のどこかに「ところの」と記してあるでしょう。その正体がわかっただけでも、英和辞典を引く楽しみが増すに違いありません。なによりも、なんとなく見過ごしていた「ところの」の四字がくっきりと目に映るようになるはずです。

いかがでしょうか。一見まったく関係なさそうな英語と漢文は、実のところ、このように密接な関連を持っているのです。英和辞典の字句を正しく理解するには漢文の知識が必要だ----言語文化学科では、このような興味深い事柄が次から次へと学べます。

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